思惑

第4話

 「兄上、義姉上はお元気ですか」


 朝方いつもどおり剣を持って出かけようとしたナギに、弟の双葉朗子ふたつばのいらつこが声をかけた。


 葵と妹背になってから、ナギの暮らし向きは急変した。衛士には大きすぎる屋形が与えられ、師の山辺彦がナギに頭を下げるようになった。(「やめてください」とナギが懇願すると、山辺彦はぺろりと舌を出した――「形から入らねばと思ってな」)。


 屋形に侍女か従者をつけようかと言われたが、それもすっかり断って、今は双葉とふたりで新しい屋形に住んでいる。山辺彦の考えることは、ナギにはよく分からない。


 双葉は兄に向ってにやりと笑ってみせた。似た兄弟だと言われたことはあまりなかった。ふたつしか違わないのに、そばかすだらけで色が黒く、ひょうきんな双葉には物静かなナギと比べると少年らしさが色濃く残っていて、みなに山猿のようだとからかわれて愛されていた。


 「小棘さま、悔しいでしょうね」

 「こら、口を慎め」


 ナギは双葉を叱ったが、内心は弟に頷かないわけにはいかなかった。小棘は次の王になるかもと言われるほどの身分にいながら、幼い日の例の事件以来、未だにナギのことが嫌いらしいのだ。腕の立つナギをこれまで大した役目につけず、ナギの親友の石上高嶋いそのかみのたかしまを自分につけたのもそれが原因だろうと、いまひとつ報われない兄を見かねて双葉は言ったものだ。


 実は、山辺彦が姪に夫を求めていると聞いて、真っ先に名乗りを上げたのは小棘だった。王子と妹背になれば一生を安楽に過ごさせてやれるから、形だけのものでも構わないからと、山辺彦を口説いた。山辺彦は笑って断りを入れたらしい。小棘にはもう、ふたりの妃がいた。それを考えれば双葉がおもしろがるのも分かるが、当のナギの気持ちは明るくなかった。


 ただ、ナギのことは嫌いでも山辺彦のことは無二の師と仰いでいるようで、ナギを殴って叱り飛ばされたあとみなの前で拳骨まで落とされたのに、叱った山辺彦の地位は少しも揺らがなかった。その点で、ナギは小棘を認めていた。少しは芯のある男子だと思っている。


 葵の夫にならないかとナギに切り出した山辺彦は、悪いが王子には任せられぬ、と片目をつぶった。たとえ本人が聞いていなかったとしても、小棘に対してこうまで言えるのは山辺彦だけだった。


 「そなたは腕も立つし、まだ妻もおらぬ。誰かに仕えているわけでもない。どうじゃ」

 「わたくしは……」


 ナギは口ごもった。自分のこじらせかけた片恋を知っての案だとすれば、この師も随分厳しいことをおっしゃる、と思いながら。


 「気の長い方ではありませんので……」

 「わたしはあの子に、どんな男子がいいかと聞いたのだ」


 山辺彦は嘆くように言った。本当に嘆いているのか、泣き落としにかかっているのか、ナギには分からなかった。


 「わたしを信じている、とあの子は言うばかりだった。信じられるか? 誰でもいいというのと同じではないか」


 叔父と姪の駆け引きが見えるようだ、とナギは思った。こんな妙な話であるからには、普通の妹背となることを求められているのではないのだろう。しかし、山辺彦が人選を任されたのでなければ、ナギが選ばれることはなかったろう。葵がナギの姿をまともに見たのは、後にも先にもあの幼い日の鍛錬のときだけだろうから。


 片恋なら片恋のまま、放っておいてほしいというのが本音だった。葵が別の男の妻になったとしても、もともと手の届かない存在だったのだからと思うだけだ……いや、そう思わなくてはならない。


山辺彦は溜め息をついた。


 「あの子は父がおらぬし、顔を合わせる男子といったらこの山辺くらいなものじゃ。父がいたとしても、わしの兄なのだがな……娘として扱ってやる前に、巫女の宮へやってしまったのは間違いだったかもしれぬ。選べという方が無理だったのじゃ」

 「はあ、それは……」

 「だから、な、葵が恋初むるのが、あまり頼りがいのない男子では困るのじゃ。この話が持ち上がったときから、そなたに頼むと決めていたのだ。巫女だからではない、姪だから案じている。笑わば笑え」


 葵さまに恋われるなどめっそうもない、とナギは思った。葵の母のヤエナミは、胸を病んで巫女をやめたあとで長く自分に仕えてきた葵の父と結ばれたというが、いきなり夫として現れた見も知らない目付け役に誰が恋などしてくれるものか。


 いや、問題はそこではない。


 「山辺彦さま、葵さまがわたしに恋などなさったら、お困りになるのではありませんか……」


山辺彦はうなだれた。


 「確かに、初音はいい顔をせんだろうなあ。初音は、純潔であらねば霊力が損なわれると思っておるのだろうかのう。あの子の母は、わしの兄と契り交わしたあとでも夢見をしたというぞ。わしはそなたらが恋しあっても構わぬと思うておるのだ……さもなくば、こんな話を持ちかけられようか」

 「しかし……」

 「大水葵、あれは神に仕える娘だが、神女ではない。ただの人間の娘じゃ。いつ任を許されるかも分からぬのにあんな堅苦しいところへ閉じ込めてなどおこうとするから、葵は山へ出たがる。地祇が宮に坐すと思うておるのじゃ、あの初音は」

 「山辺彦さま」


 誰が聞いているか、と声を低めるナギに、山辺彦はさらに言った。今度は、泣き落としではなかった。


 「そなた、本当は剣を持ちたいなどと思っていなかったであろう……才はあるが、なにせ優しい質ゆえな。かつては、修練相手を殴るのさえ嫌で、わざと相手に勝たせていた。違うかね? 」


 ナギは思わずうろたえた。それは確かに覚えのあることだったが、師がそこまで見抜いているとは思っていなかった。


 「わしは、そなたが心配でならなかった。この少年は、いつか戦へ出たとして、相手に命を差し出すようなことをするつもりであろうかとな。だが、今のそなたは違う」


 山辺彦は畳みかけた。


 「いつからか、そなたの修練は明らかに熱を帯びるようになった。それまではあくまでまじめに、すべきことをするという態度だったが、何か目指すべきものを見出したようだった、とでもいうべきか。わしは聞いた――なにがそなたを駆り立てるのだね、と。そなたの答えはこうだった。『わたしはいつか、巫女宮をお守りする衛士になりたいのです』……わしは、このことを思い出したのだよ。巫女のためにみずからを律するほどの熱があるそなたであれば、葵を任せられるとな」


 ナギは沈黙した。それも、確かに覚えがあった。恐らく、葵が巫女になってすぐの頃であったと思う――まだ、今のようなしがらみなど何も感じていなかった頃のことだ。かつての自分の迂闊な素直さが恨めしかった。


 ありとあらゆる手を尽くしてもまだナギがうんと言わないので、山辺彦は溜め息をつきながら最後に言った。


 「小棘さまに、高嶋がついているであろう。男の主君を守るつもりで、引き受けてはもらえんか……恋しあえなどとわしが言うても、そなたがそうできぬことは分かっておるが。叔父として、姪を任せたい」


 無茶だった。小棘に仕えるのと同じようになどとても無理だ。葵の表情とともに輝く、深い色の、星を撒いたような瞳に魅入られると、もうこちらから逸らすことはできない。葵がいくらナギに心を開いても、というより、葵が心を開けば開くほど、ナギは辛かった。葵と恋してもよいと山辺彦は言うが、恋などという美しい呼び名では収まらない情が自分の中にあることをナギは知っていたし、自分の情を恐れていた。正直に、恋うているなどと言うのではなかった――余計に触れ合ってはならない、とナギは念じていた。


 何よりもまず、己の慕情から、葵を守らねばならなかった。

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