第3話

 伊織は一方だけが平野へ開けている里だった。重なり合ってそびえる山から湧き出した川は下るにしたがってなだらかに流れるようになり、葦原の中を西へ西へと続いていく。果てがどうなっているか、知るものはいなかった。


 ナギは鮎釣りをしている里人の別な舟を借りてきて、葵の手を取って乗せると、巧みに竿を操った。丸々とした銀色の鮒が驚いて逃げていくのが見えた。


 「さあ、こちらです」


 何を印にしているのか、ナギは特に変わったところもない岸に舟をつけ、乗るときと同じように葵を助けて降ろした。陸からは棘だらけの藪が妨げになって、入れない場所だった。


 「こんなに……」


 葵は一面の蒲の穂を見渡した。山ほどというのは、決して大袈裟ではなかった。兎の子が不思議そうに立ち止まり、ナギは目を細めて葵を見ている。


 「もう少し奥へ行かれますと木苺がございますよ。アケビは、少し早いですね」

 「わたしに教えてよかったの」


 葵が聞くと、ナギは笑い出した。兎が葵に寄ってきた。


 「苺がほしい? 」


 兎を撫でようと手を出したとき、葵は急に、自分の手が傷だらけなのを意識した。固い草に切られたり、小さな棘に引っかかれたり、おかげで、巫女の手とは思えないほど荒れている。気にもしてこなかったけれど、ナギに見られると思えばなぜか気になった。


 「くりやの娘だってもっとましでございますよ」


 初音に言われたことがある。そのときの初音はもう葵を止めだてするのを諦めていたから、そのくらい言わねば気が済まなかったのだろう。


 今さら引っ込めるわけにもいかない、と葵は迷った。本当に今さらだった。ナギは舟の乗り降りに、二度葵の手を見ているはずなのだ。


 気にされていないのだ、と葵は思った。ナギが何を思って葵の夫になったのかは知る由もないが、ナギは今のところ従者としての態度を崩していないのだし、娘たちにとって難攻不落だったということは、その一点によって山辺彦に選ばれた可能性すらあるではないか。巫女という立場を守ったまま、夫という名の体のいい目付け役をつけられた、そんな状況だ。


 けれども、それではあまりにも、ナギを軽んじている。叔父の狙いはこれだったのだ、と葵は思った。彼はもう葵の夫になってしまって、里中のものがそれを知っているのだ。誰もが、彼は名ばかりの夫だと分かっている。それでも、生真面目なナギは一度引き受けた役目を放棄したりはしないだろう。そして、ナギがそんなことになったのは、もとはといえば葵が巫女として奔放すぎたからだ――自分のせいで目の前の優しい青年の人生が狂ってしまったのではないかと思えば、初音の説教よりよほど、葵には堪えた。


 「どうなさったんです」


 葵が怖い顔をして黙り込んだので、ナギは蒲と木苺を持って向かいにしゃがんだ。葵は袖を引っ張って手を隠した。


 「ナギ」

 「はい」

 「あなたはどうして、わたしの夫になろうと思ったの」

 「どうして……」


 ナギは上の空で兎を撫でて逃げられた。ナギの手は葵の手よりも大きくて、衛士らしく傷もあり、ついでに日焼けもしていたが、葵はその手を醜いとは思わなかった。


 「申し上げて礼を欠かないかどうか――」

 「……負けたの? 」

 「邪推が過ぎます」


 ナギはごくやんわりと葵を咎めた。


 「もしや葵さまは、わたしが貧乏くじを引いたと思っていらっしゃるのですか? 」

 「誰も好き好んで手を上げたりはしなかっただろうな、とは思う 」

 「さようで」


 ナギはふう、と溜め息をついた。あなたは何もわかっていない、とその目は言っていた。


 「ではお話ししましょう。わたしの小さな意地のために、あなたと行き違うのはつまらない」


 ということは、ナギにとっては言いにくいことに違いなかった。ナギが口を開く決意を固めきる前に、葵はごめんと謝ろうとした。


 しかしナギの告白を聞かなければ、本当に心の通わない、名ばかりの妹背になるしかないような気がした。それで黙っていた。


 ナギは葵がじっと見ているのに気がついて、少し顔つきを和らげた。


 「わたしは、あなたにずっと片恋をしておりました」


 その声が思ったよりもずっと甘やかで、葵はたじろいだ。ナギは幸福そうに続けた。


 「もう十年は前になりましょう。七つか、八つになったわたしは、他の男子と同じように剣を持つことを覚えました。その年のちょうど今頃、山辺彦さまの御館おたてへみなで集められ、泊りがけで鍛錬したことがあったのです」


 葵は山辺彦の屋形で育てられた。そういえばそんなことが、と懐かしく思い出す。


「まだ下手くそばかりじゃ」


 叔父は教え子たちの背を叩いて励ましながら、葵に傷薬を作っておいてくれと頼んだ。屋形は川のそばにあった。


 葵は蒲をたくさん刈って待っていた。そなたの母上は、父上のためによく蒲の穂を取りに行ったと何度も聞かされていた。


 山辺彦の指導がよいのか、怪我は滅多になかった――。


 「こいつが悪いんだ」


 甲高い少年の声で、喚いたものがあった。伊織王いおりのおおきみ大武棘おおたけのぎの王子の、小棘おのぎである。鍛練というものがあまり好きではないようで、十二にもなって、とうとう七つ八つの子どもたちに混じらなければならなくなった。


 その小棘が、相手をしていた少年を剣代わりの木の棒で殴りつけたらしかった。額の辺りを押さえてうずくまった少年は、血が垂れても構わずに、指の間から小棘を睨んでいた。


 小棘は棒で少年を指した。


 「兄水葵えなぎがおれを殴るから……」

 「剣術とはそういうものだ」


 山辺彦は王子だろうが何だろうが、一度師と仰がれたからには対等に扱った。王子の自分を殴ったちび、と、試合が終わってから力任せに兄水葵を叩いた小棘を、父王もしたことがないであろうという形相で叱りつけた。


 「試合は終わりと言ったはずだ、この馬鹿者! 剣を引いたものを殴るようにと、教えた覚えはないぞ。……高嶋、兄水葵に手を貸してやってくれ」


 兄水葵は友人に支えられて葵のところへやってきた。右目の上が切れて、そこから血が出ている。


 「高嶋、ありがとう、戻ってくれ」


 兄水葵が友人に言った。高嶋は頷き、お願いします、と葵に頭を下げて戻っていった。葵がそっと傷を見ると、兄水葵がぐっと歯を食いしばる気配があった。だが、彼は呻き声ひとつ立てなかった。


 「痛い? 」


 兄水葵が小棘よりもよほど王子のような態度でいるので、葵はついそう尋ねた。すると兄水葵は葵を見て、痛うはございません、と呟いた。涙が一粒だけ零れた――。


 「……兄水葵? 」


 葵が見ると、ナギは覚えておいででしたか、と頬を掻いた。葵はナギを上から下まで三遍見直した。幼い頃の面影をその姿に重ねてみようとしたが、うまくいかなかった。わずかだが、目元にかつての名残りがあるような気がするばかりで。


 「分からなかった」

 「そのあとで、葵さまは傷を癒してくださいました。――あなたの手は、とても優しかった」

 「本当……」


 まさかあれだけのことで、と葵はナギを見つめた。そうすると、額に淡く傷の痕が残っているのが見えた。


 「痛くないなどと生意気を申しましたが、本当は痛くてならなかったのです。小棘さまのことも、許してやるものかと思っておりました。しかし葵さまが、あなたは立派だった、とおっしゃった。不当に扱われ、傷つけられたのに、実に気高い態度だったと。あのお言葉に背かぬ男子にならねばと、好きではなかった鍛錬を続ける励みにすることさえできたのです」

 「そう……」


 葵は何と言って兄水葵を励ましたのだかも覚えていなかった。それがナギには大きな問題ではないらしいのが救いだった。


 ナギは持っていた蒲と苺を葵の籠に入れた。


 「あなたはわたしに誇りをくださった。わたしの腕が立つという人があるなら、それはあなたのおかげです。巫女王にあられます方を相手に身の程知らずと思いながら、あなたのことが忘れられずに、妻と呼べる人も持たず時を過ごしてきてしまいました。だから片恋のままでも――夫にならないかと言われたときにお受けしたのです。貧乏くじなどとんでもない。あなたと再び相まみえることも、過ぎたる願いと思っていたくらいなのですから」

 「片恋なんかじゃ……」


 言いかけて、ナギに何を伝えたかったのか、葵の方でも正しくは分からずじまいだった。葵が口走りかけたものを言いきらないうちに、ナギがやんわりと遮ったからだ。


 「どうか、そのまま……わたしに、あなたのお心を向けていただくのは――」


 ナギは目を伏せた。


 「今は、もう……辛うございます」


 葵は言葉なくナギを見つめた。夫など誰でもいいと思っていた葵の夫となるために、ナギがどれだけの覚悟を持って宮へ来たのかを、やっと思い知ったのだった。


 だからナギが西の空を見て、暗くなってまいりました、戻りましょうと立ち上がったとき、思わずその手を引いた。


 「葵さま」

 「あかるこ、と呼んで」


 中腰のナギに縋りついたのに、ナギは危なげなく葵を支え、軽々と立たせた。ナギは呟いた。


 「あかるこ……」

 「本当は、あかるこという名なの。巫女でいるときに、変えてしまったけど……そのくらいは……」


 妻なんだから、と声には出さずに言った。


 ナギは頷かなかった。葵は、ナギが兄水葵だったあのときのように、涙一粒の分だけ泣くのではないかと思った。


 そういう顔をしていた。


 「わたしは本当の夫にはなれません。あなたが、巫女宮にいらっしゃる限りは」


 ナギはかすれた声で言った。


 「お許しください。それは、あまりに――むごい」


 葵は頷いたが、引いた手を離しはしなかった。足元が暗いから、ナギもわざわざ離そうとするはずがない――自分がずるいことをしているのは分かっていた。


 ためらって、緩んでいたナギの指が、やがて諦めたように葵の指に絡んだ。それがナギにとって、何の慰めにもならなかったとしても――。


 葵は舟に揺られながらナギの摘んできてくれた木苺をひとつ口に入れた。酸いのまさった味がした。

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