知識と感情の問答

豆腐数

あなたと、識りたい

 年齢を推察するならば、五つくらい。女の子が、動かぬ揺り籠の上に腰かけている。生まれてから一度も断ち切られた事のなさそうな髪は、少女が立ち上がれば素足まで届くだろう。簡素なワンピースを身に着けて、顔立ちは体格のとおりあどけない。


 その正面。こちらは十代後半くらい──黒ぶちメガネに、散髪してきたばかりといったスッキリした短髪の青年が、赤く大きな林檎りんごに腰かけ、手には分厚い書物を持っている。


「ねえチシキ。今わたし、この揺り籠を壁に何度も何度も叩きつけたいような、あなたに当たり散らしたいような、カッカした気持ちなの。コレは『怒り』?」

「さすがは『感情』。良く出来ました」


 教え子を褒める口調で、チシキと呼ばれた青年は告げる。感情の少女は賞賛されて得意げだ。


 彼らは神。少女は感情の神で、青年は知識の神。知識の神は、感情の神にとって教師であった。彼の頭の中にはこの世の全ての情報が詰まっている。感情から見れば「チシキに答えられない事はない」というほどなのだが、少女が言うと、チシキは落ち着いた瞳で「そうでもない」と返した。しかし、感情の思いつく範囲の問いかけに答えられなかった事は一度もないのだ。だから感情にとって、チシキはまさしく知識の神様として不動のままだ。


 お気に入りの大きな林檎椅子から立ち上がって、よしよしと頭まで撫でてくれるから、直前に抱いていた感情の理不尽な『怒り』はどこへやら。カッカと滾った体温は、ほどよい温度に落ち着いて。心はポカポカ、脚はご機嫌ユ-ラユラ。


「これは『喜び』ね」

「そう」


 次々と識る少女に、知識の青年の口元も緩む。感情の神に比べたらささやかなものだったが、それは確かに青年の『喜び』の気持ちであった。青年の控えめな表情を、感情の少女は気に入っていたものだから、嬉しい事がいくつもあって、大変気分が良い。


 なのに。突如背中が寒くなって、目の前の青年の笑顔すら色あせて見えて。そのうち本当に、青年の像がぼやけた。まるで世界が不安定になったように。


「どうして嬉しいのに涙が出るの?」

「どこかで誰かが泣いているからさ」


 呆然と涙を流し続ける感情の頭を、知識の青年は優しく撫で続けた。今度は赤子をあやす様に。今まで微動だにしなかった揺り籠も、控えめに揺れた。椅子の籠も、青年の手も『慈しみ』に動いているのはわかるけれど、心は疑問符でいっぱいになって休まらない。


「喜びが過ぎないように、世界の悲しいを取り込んで泣くんだよ。君は感情の神だから」


 感情の教師は、知識の神ともう一つ、『世界』がある。世界に満ちる感情を取り込み、体感として識った心に、知識の神が解説を入れる。世界は先生というより、教科書の方が近いかもしれない。とは知識の青年がいつか述べた言葉である。


「つまらないわ。せっかく知識が褒めてくれた『喜び』をそのまま体験出来ないなんて」

「なら、泣きながら喜べばいい」

「変よ。涙は悲しみの時に出るものだって、チシキも前に言ったじゃない」

「『嬉し泣き』って言葉がある。嬉しい時も泣くんだよ。君は感情の神。喜びと悲しみを同時に飼い慣らすなんて、わけないさ」


 青年の言葉に、感情の少女は泣きながら笑ってみせた。すると世界が悲しいのとは別に、この青年がずっと頭を撫で続け、さらには櫛まで取り出した事の喜びが、涙の湖から飛び出て来た。下界の魚が水面を跳ねるように。


「誰かが泣いているのに、わたしはチシキに優しくされて喜んでる。悪い事のようなのに、その悪い事が踊り出したいくらい楽しいのよ」

「『優越感』というんだ。飢えた者の前で焼き立てのパンを頬張るような──。良しとされないが、確かにこの世に存在する感情だよ」


 長い髪をひと房ずつ丁寧にとかしていきながら、青年が知識を教え込んでいく。


「わたし、チシキの微笑みも、髪をとかす優しい手つきも、静かな声も、みんな気に入っているわ。ずーっとそうして欲しいのに、喜んでるのに、時々胸がぎゅーって苦しくなって、横から縦から潰されそうな気持ちになるの」

「それは……」


 青年は一瞬ためらって、結局告げる事にした。誰かが泣いている中、男に愛される喜びをった女に、遅いという事はないだろう。


「それは『恋』。とても強く、もっともわかりやすい感情だよ。この世でもっとも強い感情と言う者もいる。その見解は、多数派に入る」

「手を繋いだり、抱きしめてもらいたいと思う、あの『恋』?」


 流石は女神というべきか。恋を教えずとも恋にはと興味があったのだろう。最も、感情を吸い上げていく過程で恋が生み出す副産物達を、彼女が識らずいられるものでもないだろうが。


「チシキも、わたしに『恋』を抱いてくれる?」


 言葉はぎこちないが、恋は共有するものだという知識はあったらしい。少女神の無邪気な提案に、彼女より年嵩の姿の知識神はしかし、キッパリと首を横に振る。


「君の腰かける椅子が赤子の揺り籠のうちはとても無理だね。なにせ僕は、君が口も利けない本当の赤ん坊の姿の頃から面倒を見ているのだから」


 あの頃は大変だった。世界の感情を傍受するしかない赤子は、上手い縋り方も識らず、喜び、怒り、泣き、赤子の百面相に悩まされる青年を見て、楽しみさえした。この頃から女の魔性が──。などと回想している場合ではない。せっかく嬉し泣きを覚えて拮抗している彼女の心が、悲しみに傾く前に補足を付け加えないと。青年は、恋の相手である前に教え手なのだ。


「赤子の揺り籠も、いつか立派な愛の形になるだろう。その頃には君も一人前の女神になっている。この髪の色も、感情を蓄えて、色濃く染め上げられるだろう。それまではお預けだね」

「つまらないの」


 文句をいいつつも、彼女の嬉し泣きは、悲しみの涙に変わる事はなかった。一応は納得してくれたらしい。


 青年は、とかし終わった少女の髪をすくい上げて口付けた。幼い感情の女神の髪は、恋を識り始めたような薄桃色をしている。

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