ぼくの神怪生物記録《アクアリウムアーカイブ》

藤宮ろろろ

第1話 夢のむこうはおうちのなか

 廊下の奥の突き当たり。

 その薄暗い奥まった場所にある扉の向こうから、嫌な気配がした。

 地を這うように重苦しく、身体に纏わりついて暗闇の底へ沈めようとしてくるかのような気配。

 ひとつ息を吸い込むたびに、毒まで一緒に身体に入っていくような不快感。

 けれど、この扉の向こうには兄がいる。

 恐怖と好奇心がない混ぜになって、澄賢理すがりのちいさな手をドアノブへと導いた。

 ──おや、見つかってしまいました。

 窓から差し込む月の光を受けて輝く髪。

 海に揺蕩うように広がって揺れる。

 振り返ったその姿はとても大きな、見知らぬ人。

 ニッと笑う口から覗いた鋭い歯。

 光の届かない深海と同じ色の真っ黒な目。

 そして、大きく左右に振られた尾ひれ。

 ぱしゃりと水飛沫が立った。

 その人の傍らに立った兄の背中が、澄賢理を振り返る。

 見慣れないパイプを片手に携え、眼鏡の奥の瞳は見たこともないほど鋭く冴えていた。

「澄賢理、もう寝る時間だというのに悪い子だね。これ以上は」

 ──見てはだめだよ

 陶理の唇からふぅと煙が揺蕩う。

 そこで突然闇が広がり、目の前が闇に満ちた。

(あれ……? にいには、いつからパイプなんか吸っていたのかな……)

 そんな呑気な疑問がよぎった次の瞬間、澄賢理が目が覚めると、見慣れたビロードの天蓋が視界に映った。

「おはよう、澄賢理」

 聴き慣れた声に目を向けると、艶やかな黒髪をもつ、澄賢理と同じ年頃のメイド姿の少年が澄賢理を覗き込んでいた。

 ああ、夢だったのかと澄賢理は大きく欠伸をした。

杜望ともくん。おはよう」

 澄賢理が身体を起こそうと身じろいだので、杜望はその背中を支えて半身を起こした。

 そのままベッドの反対側に周り、カーテンをシャッと開く。

 高い遮光度のカーテンを開くと、まるで別世界のように光が差し、部屋が一気に明るくなった。

「今日もいい天気だぞ。朝食の準備ができてる。おれは先に下に降りてるから、早く来るんだぞ」

 杜望はてきぱきと窓を開け、澄賢理のベッドの上に洗顔用のタオルと着替えを置いた。

「うん、わかった」

 杜望はあっという間に部屋を出ていってしまった。

 澄賢理はまだ眠さの残る目を擦りながらベッドを抜け出し、窓から庭を眺めた。

 広大な庭は緑深く、庭師が手入れしている様々な樹木や花々が群生していた。

 どこからか小鳥の声が軽やかに響いてくる。春の朝は生命の声がとても賑やかで、風も緑も日差しのぬくもりに喜んでいるようだった。

 澄賢理は、その景色を兄と共に眺められない事に一抹の寂しさを覚えながらも、暖かな季節の訪れに深く息を吸い込んだ。

 それから着替えを済ませ、杜望の置いたタオルを手に階下の洗面所へ降りていく。

 ホーローの洗面台の前には澄賢理と杜望が使うための踏み台が用意されていた。

 金の蛇口を捻り、適温のお湯でぱしゃぱしゃと顔を洗い、タオルで顔を拭きながら、ふと鏡に映った顔を見る。

「うん、大丈夫。ちゃんと元気」

 澄賢理は鏡に映る自分を見つめた。


 食堂に入ると、真っ白なクロスが敷かれたテーブルに澄賢理ひとり分の朝食が並んでいた。

 すぐそばには、燕尾服に白いエプロンをかけ、杜望と同じ艶やかな黒い短髪の男が朝食の準備をしていた。

「おはよう、澄賢理」

 その低い声と笑みのない顔に慣れている澄賢理は、

「おはよう、満弦みつるにぃ」

 と挨拶を返しながらテーブルについた。

「今朝は顔色がいいな。朝食は食べられそうか?」

「うん、大丈夫。うわぁ、今日も美味しそうだね」

 澄賢理の明るい声と無邪気に笑う表情に、満弦はかすかに安堵したように目を細めた。

「あれ? 杜望くんは?」

 澄賢理がキョロキョロと食堂を見回す。

 暖炉の隣にあるキッチンへ続く扉は閉ざされていて、中は見えない。

「庭に出て素振りをしている。すぐに戻る」

「いつも一生懸命おけいこしててえらいね、杜望くんは」

「それが俺たち七扇家のしきたりだからな。それに杜望は、早くひとりでお前を守れるようになるんだと張り切っている」

「えへへ。うれしいけど、あんまり無理はしないでほしいなぁ」

「安心しろ。無理な稽古で身体を痛めないよう言い聞かせてある。それに杜望は身体を動かしていないと落ち着かない奴なんだ」

 満弦が澄賢理の前にティーカップを置いた。

 ソーサーの上で真っ白に輝くカップに、湯気をくゆらせた紅茶が注がれる。

 茶葉の香りが澄賢理の鼻をくすぐった。

「いい匂い」

「今朝の茶葉はキャンディだ」

「にぃにが好きなやつだね!」

「そうだ。よく覚えていたな」

 仏頂面の満弦が微かに微笑むと、澄賢理は嬉しそうにほんのりと頬を染めて笑った。

「うん! にぃにのことはなんでも大事なことだから。ねぇ満弦にぃ、もっとにぃにの話きかせて!」

「その前に、まずは朝食だ」

 満弦に促され、澄賢理は「はぁい」と素直に返事をしてティーカップに口をつけた。

 暖かい紅茶で身体が温まるのを感じながら、満弦が調理したサラダやスクランブルエッグ、ベーコンをもぐもぐと食べる。

 順調に食を進める澄賢理を見守りながら、満弦は背後に静かに控えた。

 それからしばらくすると、食堂のドアが静かに開き、竹刀を片手に杜望が戻ってきた。

「おかえり杜望くん。朝からえらいね」

「ただいま澄賢理。でもまだ稽古は終わらないんだ。兄貴、今朝はおれと手合わせしてくれる約束だぞ」

 凛と張った杜望の言葉に、満弦はああ、と思い出したような声を上げた。

「そういえばそうだったな。すまない澄賢理。陶理の話はまた今度だ」

 ふわふわとした淡い色の癖っ毛頭を、満弦の手のひらが優しくひとなでした。

「そっか。なら仕方ないね。ぼく、にぃにに朝のおはなししてくるね」

 ごちそうさまでした、と丁寧に両手を合わせた澄賢理は食卓を立って軽やかに食堂から駆けていった。

 その背を見送る満弦と杜望は、苦々しそうに眉を寄せて顔を見合わせた。

 

 澄賢理は真っ赤な絨毯が敷かれた階段を上がり、自室とは反対の廊下を軽やかに進んだ。

 突き当たりのドアを衒いなく開く。

 そこは兄がいる部屋だ。

 ガラス製の美しい巨大なテラリウムの中には、鮮やかな芝生に覆われた土が敷かれ、時を止めて美しく咲き続ける花々を背後に、椅子に座る兄──陶理がいた。

 陶理は穏やかに目を閉じ、動き出すことはない。テラリウムの中だけが陶理の存在できる世界だった。

 澄賢理は朝と晩に必ず、おはようとおやすみの挨拶を兼ねてその日の暮らしぶりを兄に無邪気に語りかけた。

 目を閉じた兄が相槌をうったり、ましてや言葉を返してくる事はないが、目を閉じたその穏やかな表情はいつも澄賢理を暖かく包み込むようだった。

 澄賢理はテラリウムの前に座ると、ガラスの向こうの兄を見上げた。

「にぃに、また不思議な夢を見たよ。にぃにが大きな男の人といる夢……。あの人はだれなんだろう?」

 澄賢理は気付いている。

 自身がこれまで何度も見ているその夢は、兄がこのテラリウムに眠るきっかけとなった日の記憶であることを。

 しかし、満弦にあの日のことを聞こうとするといつも話をはぐらかされ、それは杜望も同じだった。

 満弦も杜望も、あの日のことを決して語りたがらない。

 けれど澄賢理は、兄が目覚めるためには、あの日のことにその鍵があると何故か確信していた。

 澄賢理の背後では微かにドアが開き、隙間から満弦と杜望が澄賢理の様子を見守っていた。

「もしかして、澄賢理は思い出そうとしてるのか……? 陶理お兄様のこと……」

 囁く杜望が傍らの満弦を見上げる。

「…………」

「ねえ、いつまでこんなこと続けるんだよ。ほんとに隠し通せるの?」

 焦れたように杜望が満弦に詰め寄る。

「今優先すべきは、澄賢理を守ることだ」

 満弦は確かな意志を込めて、静かに杜望を見下ろした。

「これ以上この英の館を侵食させることは許さない。七扇の名にかけて、絶対に澄賢理を守るぞ。わかったな杜望」

「……うん」

 杜望は頷きつつも、悲しげな眼で澄賢理へ視線を戻した。

「澄賢理のさびしさは、どうやったら癒せるんだろう……陶理お兄様……」

 杜望は力無く呟きながら背後の廊下へと目を向けた。

 壁も床も天井も、目に映る何もかもが血の滲む醜悪な肉塊と化した陰惨で見慣れた光景が、目の前に重く広がっていた。

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