幻想世界、赤色のシャボン玉

汐海有真(白木犀)

幻想世界、赤色のシャボン玉

 あなたは、草原の上に立っている。あなたの視界には緑色が広がっていて、遠くの方にはどこまでも続く青色の海が見える。三百六十度見渡しても、同じ景色が続いている。だからあなたは、自分が孤島にいるのだということを、ゆっくりと理解する。


 あなたは、自分の側に一人の少女が存在していることに、遅れて気付く。本当に近くにいるのに、先程周囲を見たときは、その存在に気付くことができなかった。あなたは不思議に思いながら、少女のことを見つめる。


 着ているワンピースは、雲が溶け出したかのように白い。真っ黒な長髪は、腰の辺りまで伸ばされている。瞳は鮮血のように赤く、唇までもがくっきりとした赤さに染まっている。恐ろしいほど整った顔立ちをしているから、あなたは少女に見惚れてしまう。


 少女は左手に小さな容器を持っている。桃色をした、可愛らしい容器だ。彼女は右手に持っているストローを容器に差し込み、引き上げ、ふうと吹く。数多のシャボン玉が生まれ、空気中を漂い始める。あなたはその光景を、ぼんやりと見つめる。


 シャボン玉は透明の中に虹色を滲ませながら、ふわふわと彷徨っている。少女はまた、ふうと吹く。シャボン玉が、増える。あなたは見つめている。少女はまた、ふうと吹く。シャボン玉が、増える。あなたは見つめている。吹く、増える、見つめている、吹く、増える、見つめている。あなたは目を逸らすことができない。あなたはシャボン玉を美しいと思う。どうしようもなく愛おしいと思う。


 世界がシャボン玉で満たされていく。数え切れないほどのシャボン玉が、ふうわり、ふうわり、浮かんでいる。ふと、あなたは気付く。シャボン玉がどれ一つとして壊れていない。あなたは違和感を抱く。シャボン玉とは、時間が経つと壊れるものではないだろうか。あなたはおかしいと思う。おかしい、おかしい、おかしい、と思う。少女はまた、ふうと吹く。シャボン玉が、増える。あなたは見つめている。


 あなたの中に、微かな破壊衝動が芽生える。シャボン玉を壊したいと思う。その衝動は段々と大きくなっていく。シャボン玉を壊さなければいけないと思う。それが義務のように感じられる。遂行しなければいけないと思う。透明でいて虹色なシャボン玉は、あなたの周りを漂い続けている。ふうわり、ふうわり、ふうわり、ふうわり。


 あなたはそっと、一つのシャボン玉に手を伸ばす。柔らかな感触だった。あなたはその膜に、爪を立てる。あなたは微笑う。ようやく、壊すことができるのだ。あなたはそれを正しいことだと思う。


 シャボン玉が小さな音を立てて弾ける。透明だったはずのそれは、真っ赤な液体になって地面に落ちる。びしゃあと音がする。あなたは目を見張る。草原の上に赤い雫が垂れている。あなたは何か、途轍もなくいけないことをしてしまったような心地がして、ほのかに震える。


 あなたは顔を上げる。少女があなたのことを見つめている。真っ赤な唇が、ゆっくりと開かれる。


 ――酷いことを、なさるのですね。


 数多のシャボン玉が、ゆらゆらと揺れている。あなたと少女を取り囲むように。あなたの視界は歪んでいる。シャボン玉は世界を歪ませるから。だから、あなたの視界は歪んでいる。


 ――私の大切なものを壊して、楽しかったでしょうか。


 少女は少しずつ、あなたに近付いてくる。あなたは逃げようとする。でも、そうすることはできない。シャボン玉が邪魔をする。あなたは一歩も動くことができない。シャボン玉が阻んでいる。真っ赤な唇が、少しずつ、つり上がる。


 ――返してください。私の、シャボン玉を……


 少女の手が、あなたに伸びる。容器とストローが地面に落ちる。あなたの胸に、真っ白な手がそっと触れる。


 シャボン玉が砕ける。全部、全部、真っ赤になる。あなたも。少女も。草原も。孤島も。世界も。全部、全部が、真っ赤になる。きれいな色。赤、赤、赤、赤、赤。あなたは叫び声を上げる。真っ赤になった少女は笑っている。あなたの首に手が伸ばされる。いたい、ね。あなたの意識は段々と霞んでゆく。ああ、きれいな、いろ……




 あなたは目を覚ます。分厚いカーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。悪夢を見たような気がする。でも、その内容はもう思い出せそうになかった。あなたは額に滲んだ汗を拭いながら、ゆっくりと上体を起こして、カーテンを開く。


 きれいな青空が広がっている。見慣れた街並みだった。でも少しだけ、歪んでいるような気がした。あなたは不思議に思って、窓を開いてみる。


 ふうわり、美しい透明が、幾つも漂っている。あなたはそれが、沢山のシャボン玉であることに気付く。きれいなはずなのに、あなたはどうしてか、少しだけ怖いと思う。不思議だった。シャボン玉が一つ、あなたの元に近付いてくる。あなたはそのシャボン玉に、そっと右手を伸ばしてみる。触れて、割れる。


 誰かの気配がして、あなたは振り返る。


 赤い瞳が、そこにある。

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