- 文鳥／夏目漱石（カクヨム近代文学館）

文鳥

夏目漱石／カクヨム近代文学館

　十月早（わ）稲（せ）田（だ）に移る。伽（が）藍（らん）のような書斎にただ一人（ひとり）、片付けた顔を頰（ほお）杖（づえ）で支（ささ）えていると、三（み）重（え）吉（きち）が来て、鳥をお飼いなさいと言う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、なにを飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと言う返事であった。

　文鳥は三重吉の小説に出てくるくらいだから奇麗な鳥に違いなかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ。ところが三重吉はぜひお飼いなさいと、同じようなことを繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頰杖を突いたままで、むにゃむにゃ言ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頰杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時はじめて気が付いた。

　すると三分ばかりして、今度は籠（かご）をお買いなさいと言いだした。これも宜（よろ）しいと答えると、ぜひお買いなさいと念を押す代わりに、鳥籠の講釈を始めた。その講釈はだいぶ込み入ったものであったが、気の毒なことに、みんな忘れてしまった。ただ好（い）いのは二十円ぐらいするという段になって、急にそんな高価（たかい）のでなくっても善（よ）かろうと言っておいた。三重吉はにやにやしている。

　それからぜんたいどこで買うのかと聞いてみると、なにどこの鳥屋にでもありますと、実に平凡な答えをした。籠はと聞き返すと、籠ですか、籠はそのなんですよ、なにどこにかあるでしょう、とまるで雲を攫（つか）むような寛大なことを言う。でも君あてがなくっちゃ不可（いけ）なかろうと、あたかも不可ないような顔をして見せたら、三重吉は頰（ほつ）ぺたへ手を宛（あ）てて、なんでも駒（こま）込（ごめ）に籠の名人があるそうですが、年寄りだそうですから、もう死んだかもしれませんと、非常に心細くなってしまった。

　なにしろ言いだしたものに責任を負わせるのは当然のことだから、さっそく万事を三重吉に依頼することにした。すると、すぐ金を出せと言う。金はたしかに出した。三重吉はどこで買ったか、七（なな）子（こ）の三つ折れの紙入れを懐中にしていて、人の金でも自分の金でも悉（しつ）皆（かい）この紙入れの中に入れる癖がある。自分は三重吉が五円札をたしかにこの紙入れの底へ押し込んだのを目撃した。

　かようにして金はたしかに三重吉の手に落ちた。しかし鳥と籠とは容易にやってこない。

　そのうち秋が小春になった。三重吉はたびたび来る。よく女の話などをして帰ってゆく。文鳥と籠の講釈はまったく出ない。硝子（ガラス）戸（ど）を透かして五尺の縁側には日が好（よ）く当たる。どうせ文鳥を飼うなら、こんな暖かい季節に、この縁側へ鳥籠を据（す）えてやったら、文鳥もさだめし鳴き善かろうと思うくらいであった。

　三重吉の小説によると、文鳥は千（ち）代（よ）千（ち）代（よ）と鳴くそうである。その鳴き声がだいぶ気に入ったとみえて、三重吉は千代千代を何度となく使っている。あるいは千代という女に惚（ほ）れていたことがあるのかもしれない。しかし当人はいっこうそんなことを言わない。自分も聞いてみない。ただ縁側に日が善く当たる。そうして文鳥が鳴かない。

　そのうち霜が降りだした。自分は毎日伽藍のような書斎に、寒い顔を片付けてみたり、取り乱してみたり、頰杖を突いたり已（や）めたりして暮らしていた。戸は二重に締め切った。火（ひ）鉢（ばち）に炭ばかり継いでいる。文鳥はついに忘れた。

　ところへ三重吉が門口から威勢よくはいってきた。時は宵（よい）の口であった。寒いから火鉢の上へ胸から上を翳（かざ）して、浮かぬ顔をわざとほてらしていたのが、急に陽気になった。三重吉は豊（ほう）隆（りゆう）を従えている。豊隆はいい迷惑である。二人（ふたり）が籠を一つずつ持っている。その上に三重吉が大きな箱を兄き分に抱（かか）えている。五円札が文鳥と籠と箱になったのはこの初冬の晩であった。

　三重吉は大得意である。まあ御覧なさいと言う。豊隆その洋燈（ランプ）をもっとこっちへ出せなどと言う。そのくせ寒いので鼻の頭が少し紫色になっている。

　なるほど立（りつ）派（ぱ）な籠ができた。台が漆で塗ってある。竹は細く削った上に、色が染（つ）けてある。それで三円だと言う。安いなあ豊隆と言っている。豊隆はうん安いと言っている。自分は安いか高いか判然と判（わか）らないが、まあ安いなあと言っている。好いのになると二十円もするそうですと言う。二十円はこれで二返目である。二十円に比べて安いのはむろんである。

　この漆はね、先生、日（ひ）向（なた）へ出して曝（さら）しておくうちに黒味が取れてだんだん朱の色が出てきますから、──そうしてこの竹は一返善く煮たんだから大丈夫ですよなどと、しきりに説明してくれる。なにが大丈夫なのかねと聞き返すと、まあ鳥を御覧なさい、奇麗でしょうと言っている。

　なるほど奇麗だ。次の間へ籠を据えて四尺ばかりこっちから見ると少しも動かない。薄暗い中に真（まつ）白（しろ）に見える。籠の中にうずくまっていなければ鳥とは思えないほど白い。なんだか寒そうだ。

　寒いだろうねと聞いてみると、そのために箱を作ったんだと言う。夜になればこの箱に入れてやるんだと言う。籠が二つあるのはどうするんだと聞くと、この粗末なほうへ入れて時々行水を使わせるのだと言う。これは少し手数が掛かるなと思っていると、それから糞（ふん）をして籠を汚（よご）しますから、時々掃（そう）除（じ）をしておやりなさいとつけ加えた。三重吉は文鳥のためにはなかなか強硬である。

　それをはいはい引き受けると、今度は三重吉が袂（たもと）から粟（あわ）を一袋出した。これを毎朝食わせなくっちゃ不可ません。もし餌をかえてやらなければ、餌（え）壺（つぼ）を出して殻（から）だけ吹いておやんなさい。そうしないと文鳥が実のある粟を一々拾い出さなくっちゃなりませんから。水も毎朝かえておやんなさい。先生は寝坊だからちょうど好いでしょうとたいへん文鳥に親切を極（きわ）めている。そこで自分もよろしいと万事受け合った。ところへ豊隆が袂から餌壺と水入れを出して行儀よく自分の前に並べた。こう一（いつ）切（さい）万事を調（ととの）えておいて、実行を逼（せま）られると、義理にも文鳥の世話をしなければならなくなる。内心ではよほど覚（おぼ）束（つか）なかったが、まずやってみようとまでは決心した。もしできなければ家（うち）のものが、どうかするだろうと思った。

　やがて三重吉は鳥籠を丁寧に箱の中へ入れて、縁側へ持ち出して、ここへ置きますからと言って帰った。自分は伽藍のような書斎の真（まん）中（なか）に床を展（の）べて冷（ひや）やかに寝た。夢に文鳥を背（し）負（よ）い込んだ心持ちは、少し寒かったが眠（ねぶ）ってみれば不断の夜のごとく穏やかである。

　翌朝目が覚（さ）めると硝子戸に日が射（さ）している。たちまち文鳥に餌をやらなければならないなと思った。けれども起きるのが退儀であった。今に遣（や）ろう、今に遣ろうと考えているうちに、とうとう八時過ぎになった。仕方がないから顔を洗うついでをもって、冷たい縁を素足で踏みながら、箱の蓋（ふた）を取って鳥籠を明（あかる）海（み）へ出した。文鳥は目をぱちつかせている。もっと早く起きたかったろうと思ったら気の毒になった。

　文鳥の目は真（まつ）黒（くろ）である。瞼（まぶた）の周囲（まわり）に細い淡紅（とき）色（いろ）の絹糸を縫い付けたような筋が入（はい）っている。目をぱちつかせるたびに絹糸が急に寄って一本になる。と思うとまた丸くなる。籠を箱から出すやいなや、文鳥は白い首をちょっと傾（かたぶ）けながらこの黒い目を移してはじめて自分の顔を見た。そうしてちちと鳴いた。

　自分は静かに鳥籠を箱の上に据えた。文鳥はぱっと留まり木をはなれた。そうしてまた留まり木に乗った。留まり木は二本ある。黒味がかった青軸をほどよき距離に橋と渡して横に並べた。その一本を軽く踏まえた足を見るといかにも華（きや）奢（しや）にできている。細長い薄紅の端に真珠を削ったような爪（つめ）が着いて、手（て）頃（ごろ）な留まり木を甘（うま）く抱え込んでいた。すると、ひらりと目先が動いた。文鳥はすでに留まり木の上で方向（むき）を換えていた。しきりに首を左右に傾（かたぶ）ける。傾けかけた首をふともち直して、こころもち前へ伸（の）したかと思ったら、白い羽根がまたちらりと動いた。文鳥の足は向こうの留まり木の真（まん）中（なか）あたりに具合よく落ちた。ちちと鳴く。そうして遠くから自分の顔を覗（のぞ）き込んだ。

　自分は顔を洗いに風（ふ）呂（ろ）場（ば）へ行った。帰りに台所へ回って、戸（と）棚（だな）を明けて、昨夕（ゆうべ）三重吉の買ってきてくれた粟（あわ）の袋を出して、餌壺の中へ餌を入れて、もう一つには水をいっぱい入れて、また書斎の縁側へ出た。

　三重吉は用意周到な男で、昨夕丁寧に餌を遣る時の心得を説明していった。その説によると、むやみに籠の戸を明けると文鳥が逃げ出してしまう。だから右の手で籠の戸を明けながら、左の手をその下へ宛（あ）てがって、外から出口を塞（ふさ）ぐようにしなくっては危険だ。餌壺を出す時も同じ心得で遣らなければならない。とその手つきまでして見せたが、こう両方の手を使って、餌壺をどうして籠の中へ入れることができるのか、つい聞いておかなかった。

　自分は已（や）むを得ず餌壺を持ったまま手の甲で籠の戸をそろりと上へ押し上げた。同時に左の手で開（あ）いた口をすぐ塞いだ。鳥はちょっと振り返った。そうして、ちちと鳴いた。自分は出口を塞いだ左の手の処置に窮した。人の隙（すき）を窺（うかが）って逃げるような鳥とも見えないので、なんとなく気の毒になった。三重吉は悪いことを教えた。

　大きな手をそろそろ籠の中へ入れた。すると文鳥は急に羽（は）搏（ばた）きを始めた。細く削った竹の目から暖かいむく毛が、白く飛ぶほどに翼を鳴らした。自分は急に自分の大きな手が厭（いや）になった。粟の壺と水の壺を留まり木の間にようやく置くやいなや、手を引き込ました。籠の戸ははたりとひとりでに落ちた。文鳥は留まり木の上に戻（もど）った。白い首を半ば横に向けて、籠の外にいる自分を見上げた。それから曲げた首をまっすぐにして足の下（もと）にある粟と水を眺（なが）めた。自分は食事をしに茶の間へ行った。

　そのころは日課として小説を書いている時分であった。飯と飯のあいだはたいてい机に向かって筆を握っていた。静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞くことができた。伽藍のような書斎へは誰（だれ）もはいってこない習慣であった。筆の音に淋（さび）しさという意味を感じた朝も昼も晩もあった。しかし時々はこの筆の音がぴたりと已む、また已めねばならぬ、折もだいぶあった。その時は指の股（また）に筆を挟（はさ）んだまま手の平へ顎（あご）を載せて硝子越しに吹き荒れた庭を眺めるのが癖であった。それが済むと載せた顎を一応撮（つま）んでみる。それでも筆と紙がいっしょにならない時は、撮んだ顎を二本の指で伸してみる。すると縁側で文鳥がたちまち千代千代と二声鳴いた。

　筆を擱（お）いて、そっと出て見ると、文鳥は自分の方を向いたまま、留まり木の上から、のめりそうに白い胸を突き出して、高く千代と言った。三重吉が聞いたらさぞ喜ぶだろうと思うほどな美（い）い声で千代と言った。三重吉は今に馴（な）れると千代と鳴きますよ、きっと鳴きますよ、と受け合って帰って行った。

　自分はまた籠の傍（そば）へしゃがんだ。文鳥は膨（ふくら）んだ首を二、三度竪（たて）横（よこ）に向け直した。やがて一（ひと）団（かたまり）の白い体がぽいと留まり木の上を抜け出した。と思うと奇麗な足の爪が半分ほど餌壺の縁から後ろへ出た。小指を掛けてもすぐ引っ繰り返りそうな餌壺は釣（つり）鐘（がね）のように静かである。さすがに文鳥は軽いものだ。なんだか淡雪の精のような気がした。

　文鳥はつと嘴（くちばし）を餌壺の真（まん）中（なか）に落とした。そうして二、三度左右に振った。奇麗に平（なら）して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零（こぼ）れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉（のど）のところで微（かす）かな音がする。また嘴を粟の真中に落とす。また微かな音がする。その音が面（おも）白（しろ）い。静かに聴（き）いていると、まるくて細やかで、しかも非常に速（すみ）やかである。菫（すみれ）ほどな小さい人が、黄（こ）金（がね）の槌（つち）で瑪（め）瑙（のう）の碁石でもつづけざまに敲（たた）いているような気がする。

　嘴の色を見ると紫を薄く混ぜた紅（べに）のようである。その紅がしだいに流れて、粟をつつく口（くち）尖（さき）の辺（あたり）は白い。象（ぞう）牙（げ）を半透明にした白さである。この嘴が粟の中へはいる時は非常に早い。左右に振（ふ）り蒔（ま）く粟の珠（たま）も非常に軽そうだ。文鳥は身を逆（さかさま）にしないばかりに尖（とが）った嘴を黄色い粒の中に刺し込んでは、膨んだ首を惜し気もなく右左へ振る。籠の底に飛び散る粟の数は幾粒だか分（わか）らない。それでも餌壺だけは寂（せき）然（ぜん）として静かである。重いものである。餌壺の直径は一寸五分ほどだと思う。

　自分はそっと書斎へ帰って淋しくペンを紙の上に走らしていた。縁側では文鳥がちちと鳴く。おりおりは千代千代とも鳴く。外では木枯らしが吹いていた。

　夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壼の縁へ懸（か）けて、小（ち）さい嘴に受けた一雫（しずく）を大事そうに、仰（あお）向（む）いて吞（の）み下している。この分では一杯の水が十日ぐらい続くだろうと思ってまた書斎へ帰った。晩には箱へ仕（し）舞（ま）ってやった。寝る時硝子戸から外を覗いたら、月が出て、霜が降っていた。文鳥は箱の中でことりともしなかった。

　明くる日もまた気の毒なことに遅（おそ）く起きて、箱から籠を出してやったのは、やっぱり八時過ぎであった。箱の中ではとうから目が覚めていたんだろう。それでも文鳥はいっこう不平らしい顔もしなかった。籠が明るいところへ出るやいなや、いきなり目をしばたたいて、こころもち首をすくめて、自分の顔を見た。

　昔美しい女を知っていた。この女が机に凭（もた）れてなにか考えているところを、後ろから、そっと行って、紫の帯上げの房（ふさ）になった先を、長く垂（た）らして、頸（くび）筋（すじ）の細いあたりを、上から撫（な）で回したら、女はものう気に後ろを向いた。その時女の眉（まゆ）はこころもち八の字に寄っていた。それで目（め）尻（じり）と口元には笑いが萌（きざ）していた。同時に恰（かつ）好（こう）の好（よ）い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分はふとこの女のことを思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上げでいたずらをしたのは縁談の極（きま）った二、三日あとである。

　餌壺にはまだ粟が八分どおりはいっている。しかし殻もだいぶ混じっていた。水入れには粟の殻が一面に浮いて、苛（いた）く濁っていた。易（か）えてやらなければならない。また大きな手を籠の中へ入れた。非常に要心して入れたにもかかわらず、文鳥は白い翼を乱して騒いだ。小さい羽根が一本抜けても、自分は文鳥に済まないと思った。殻は奇麗に吹いた。吹かれた殻は木枯らしがどこかへ持っていった。水も易えてやった。水道の水だからたいへん冷たい。

　その日は一日淋しいペンの音を聞いて暮らした。そのあいだにはおりおり千代千代という声も聞こえた。文鳥も淋しいから鳴くのではなかろうかと考えた。しかし縁側へ出て見ると、二本の留まり木の間を、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだり、絶え間なく行きつ戻りつしている。少しも不平らしい様子はなかった。

　夜は箱へ入れた。明くる朝目が覚めると、外は白い霜だ。文鳥も目が覚めているだろうが、なかなか起きる気にならない。枕（まくら）元（もと）にある新聞を手に取るさえ難儀だ。それでも煙草（たばこ）は一本ふかした。この一本をふかしてしまったら、起きて籠から出してやろうと思いながら、口から出る煙（けぶり）の行（ゆく）方（え）を見詰めていた。するとこの煙の中に、首をすくめた、目を細くした、しかもこころもち眉を寄せた昔の女の顔がちょっと見えた。自分は床の上に起き直った。寝巻の上へ羽織を引っ掛けて、すぐ縁側へ出た。そうして箱の蓋（ふた）をはずして、文鳥を出した。文鳥は箱から出ながら、千代千代と二声鳴いた。

　三重吉の説によると、馴れるに従って、文鳥が人の顔を見て鳴くようになるんだそうだ。現に三重吉の飼っていた文鳥は、三重吉が傍（そば）にいさえすれば、しきりに千代千代と鳴きつづけたそうだ。のみならず三重吉の指の先から餌を食べると言う。自分もいつか指の先で餌をやってみたいと思った。

　次の朝はまた怠（なま）けた。昔の女の顔もつい思い出さなかった。顔を洗って、食事を済まして、はじめて、気が付いたように縁側へ出て見ると、いつのまにか籠が箱の上に乗っている。文鳥はもう留まり木の上を面（おも）白（しろ）そうにあちら、こちらと飛び移っている。そうして時々は首を伸（の）して籠の外を下の方から覗いている。その様子がなかなか無邪気である。昔紫の帯上げでいたずらをした女は襟（えり）の長い、背（せい）のすらりとした、ちょっと首を曲げて人を見る癖があった。

　粟はまだある。水もまだある。文鳥は満足している。自分は粟も水も易えずに書斎に引っ込んだ。

　昼過ぎまた縁側へ出た。食後の運動かたがた、五、六間の回り縁を、あるきながら書見するつもりであった。ところが出て見ると粟がもう七分がた尽きている。水もまったく濁ってしまった。書物を縁側へ抛（ほう）り出しておいて、急いで餌と水を易えてやった。

　次の日もまた遅く起きた。しかも顔を洗って飯を食うまでは縁側を覗かなかった。書斎に帰ってから、あるいは昨日（きのう）のように、家（うち）の人（もの）が籠を出しておきはせぬかと、ちょっと縁へ顔だけ出して見たら、はたして出してあった。そのうえ餌も水も新しくなっていた。自分はやっと安心して首を書斎に入れた。とたんに文鳥は千代千代と鳴いた。それで引っ込めた首をまた出して見た。けれども文鳥は再び鳴かなかった。けげんな顔をして硝子越しに庭の霜を眺めていた。自分はとうとう机の前に帰った。

　書斎の中では相変わらずペンの音がさらさらする。書きかけた小説はだいぶんはかどった。指の先が冷たい。今（け）朝（さ）埋（い）けた佐（さ）倉（くら）炭（ずみ）は白くなって、薩（さつ）摩（ま）五（ご）徳（とく）に懸（か）けた鉄（てつ）瓶（びん）がほとんど冷（さ）めている。炭取りは空（から）だ。手を敲（たた）いたがちょっと台所まで聴（き）こえない。立って戸を明けると、文鳥は例に似ず留まり木の上にじっと留まっている。よく見ると足が一本しかない。自分は炭取りを縁に置いて、上からこごんで籠の中を覗き込んだ。いくら見ても足は一本しかない。文鳥はこの華（きや）奢（しや）な一本の細い足に総（そう）身（み）を託して黙然として、籠の中に片付いている。

　自分は不思議に思った。文鳥について万事を説明した三重吉もこのことだけは抜いたとみえる。自分が炭取りに炭を入れて帰った時、文鳥の足はまだ一本であった。しばらく寒い縁側に立って眺めていたが、文鳥は動く気（け）色（しき）もない。音を立てないで見詰めていると、文鳥は丸い目をしだいに細くしだした。おおかた眠たいのだろうと思って、そっと書斎へはいろうとして、一歩足を動かすやいなや、文鳥はまた目を開いた。同時に真白な胸の中から細い足を一本出した。自分は戸を閉（た）てて火（ひ）鉢（ばち）へ炭をついだ。

　小説はしだいに忙しくなる。朝は依然として寝坊をする。一度家（うち）のものが文鳥の世話をしてくれてから、なんだか自分の責任が軽くなったような心持ちがする。家のものが忘れる時は、自分が餌をやる水をやる。籠の出し入れをする。しない時は、家のものを呼んでさせることもある。自分はただ文鳥の声を聞くだけが役目のようになった。

　それでも縁側へ出る時は、必ず籠の前へ立ち留まって文鳥の様子を見た。たいていは狭い籠を苦にもしないで、二本の留まり木を満足そうに往復していた。天気の好い時は薄い日を硝子越しに浴びて、しきりに鳴き立てていた。しかし三重吉の言ったように、自分の顔を見てことさらに鳴く気色はさらになかった。

　自分の指からじかに餌を食うなどということはむろんなかった。おりおり機（き）嫌（げん）のいい時は麵（パ）麭（ン）の粉（こ）などを人（ひと）指（さ）し指（ゆび）の先へつけて竹の間からちょっとだしてみることがあるが文鳥は決して近づかない。少し無遠慮に突き込んでみると、文鳥は指の太いのに驚いて白い翼を乱して籠の中を騒ぎ回るのみであった。二、三度試みた後、自分は気の毒になって、この芸だけは永久に断念してしまった。今の世にこんなことのできるものがいるかどうだかはなはだ疑わしい。おそらく古代の聖（せいん）徒（と）の仕事だろう。三重吉は噓（うそ）を吐（つ）いたに違いない。

　ある日のこと、書斎で例のごとくペンの音を立てて侘（わび）しいことを書き連ねていると、ふと妙な音が耳にはいった。縁側でさらさら、さらさらいう。女が長い衣の裾（すそ）を捌（さば）いているようにも受け取られるが、ただの女のそれとしては、あまりにも仰（ぎよう）山（さん）である。雛（ひな）段（だん）をあるく、内（だい）裏（り）雛（びな）の袴（はかま）の襞（ひだ）の擦（す）れる音とでも形容したらよかろうと思った。自分は書きかけた小説を余（よ）所（そ）にして、ペンを持ったまま縁側へ出て見た。すると文鳥が行水を使っていた。

　水はちょうど易え立てであった。文鳥は軽い足を水入れの真中に胸毛まで浸して、時々は白い翼を左右にひろげながら、こころもち水入れの中にしゃがむように腹を圧（お）し付けつつ、総（そう）身（み）の毛を一度に振っている。そうして水入れの縁にひょいと飛び上がる。しばらくしてまた飛び込む。水入れの直径は一寸五分ぐらいにすぎない。飛び込んだ時は尾も余り、頭も余り、背はむろん余る。水に浸（つか）るのは足と胸だけである。それでも文鳥は欣（きん）然（ぜん）として行水を使っている。

　自分は急に易え籠を取ってきた。そうして文鳥をこのほうへ移した。それから如（じよ）露（ろ）を持って風呂場へ行って、水道の水を汲（く）んで、籠の上からさあさあと掛けてやった。如露の水が尽（つ）きるころには白い羽根から落ちる水が珠（たま）になって転（ころが）った。文鳥は絶えず目をぱちぱちさせていた。

　昔紫の帯上げでいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から懐中（ふところ）鏡（かがみ）で女の顔へ春の光線を反射させて楽しんだことがある。女は薄（うす）紅（あか）くなった頰（ほお）を上げて、繊（ほそ）い手を額の前に翳（かざ）しながら、不思議そうに瞬（まばたき）をした。この女とこの文鳥とはおそらく同じ心持ちだろう。

　日（ひ）数（かず）が立つに従って文鳥は善く囀（さえず）る。しかしよく忘れられる。ある時は餌壺が粟の殻だけになっていたことがある。ある時は籠が糞（ふん）でいっぱいになっていたことがある。ある晩宴会があって遅く帰ったら、冬の月が硝子越しに差し込んで、広い縁側がほの明るく見えるなかに、鳥籠がしんとして、箱の上に乗っていた。その隅（すみ）に文鳥の体が薄白く浮いたまま留まり木の上に、あるか無きかに思われた。自分は外（がい）套（とう）の羽根を返して、すぐ鳥籠を箱のなかへ入れてやった。

　翌日文鳥は例のごとく元気よく囀っていた。それからは時々寒い夜（よる）も箱に仕舞ってやるのを忘れることがあった。ある晩いつものとおり書斎で専念にペンの音を聞いていると、突然縁側の方でがたりと物の覆（くつがえ）った音がした。しかし自分は立たなかった。依然として急ぐ小説を書いていた。わざわざ立っていって、なんでもないと忌（いま）々（いま）しいから、気にかからないではなかったが、やはりちょっと聞き耳を立てたまま知らぬ顔で済ましていた。その晩寝たのは十二時過ぎであった。便所に行ったついで、気掛かりだから、念のため一応縁側へ回ってみると──

　籠は箱の上から落ちている。そうして横に倒れている。水入れも餌壺も引っ繰り返っている。粟は一面に縁側に散らばっている。留まり木は抜け出している。文鳥はしのびやかに鳥籠の桟（さん）にかじり付いていた。自分は明日（あした）から誓ってこの縁側に猫（ねこ）を入れまいと決心した。

　翌（あくる）日（ひ）文鳥は鳴かなかった。粟を山盛り入れてやった。水を漲（みなぎ）るほど入れてやった。文鳥は一本足のまま長らく留まり木の上を動かなかった。午（ひる）飯（めし）を食ってから、三重吉に手紙を書こうと思って、二、三行書きだすと、文鳥がちちと鳴いた。自分は手紙の筆を留めた。文鳥がまたちちと鳴いた。出て見たら粟も水もだいぶん減っている。手紙はそれぎりにして裂いて捨てた。

　翌日文鳥がまた鳴かなくなった。留まり木を下（お）りて籠の底へ腹を圧し付けていた。胸のところが少し膨んで、小さい毛が漣（さざなみ）のように乱れて見えた。自分はこの朝、三重吉から例の件で某所まで来てくれという手紙を受け取った。十時までにという依頼であるから、文鳥をそのままにしておいて出た。三重吉に逢（あ）ってみると例の件がいろいろ長くなって、いっしょに午飯を食う。いっしょに晩飯を食う。そのうえ明（あ）日（す）の会合まで約束して宅（うち）へ帰った。帰ったのは夜の九時ごろである。文鳥のことはすっかり忘れていた。疲れたから、すぐ床へはいって寝てしまった。

　翌（あくる）日（ひ）目が覚めるやいなや、すぐ例の件を思い出した。いくら当人が承知だって、そんなところへ嫁に遣るのは行末よくあるまい、まだ子供だからどこへでも行けと言われるところへ行く気になるんだろう。いったん行けばむやみに出られるものじゃない。世の中には満足しながら不幸に陥ってゆく者がたくさんある。などと考えて楊（よう）枝（じ）を使って、朝飯を済ましてまた例の件を片付けに出掛けていった。

　帰ったのは午後三時ごろである。玄関へ外（がい）套（とう）を懸けて廊下伝いに書斎へはいるつもりで例の縁側へ出て見ると、鳥籠が箱の上に出してあった。けれども文鳥は籠の底に反（そ）っ繰（く）り返っていた。二本の足を硬（かた）く揃（そろ）えて、胴と直線に伸ばしていた。自分は籠の傍（わき）に立って、じっと文鳥を見守った。黒い目を眠（ねぶ）っている。瞼（まぶた）の色は薄（うす）蒼（あお）く変わった。

　餌壺には粟の殻ばかり溜（たま）っている。啄（ついば）むべきは一粒もない。水入れは底の光るほど涸（か）れている。西へ回った日が硝子戸を洩（も）れて斜めに籠に落ちかかる。台に塗った漆は、三重吉の言ったごとく、いつのまにか黒味が脱（ぬ）けて、朱の色が出てきた。

　自分は冬の日に色づいた朱の台を眺めた。空（から）になった餌壺を眺めた。空（むな）しく橋を渡している二本の留まり木を眺めた。そうしてその下に横たわる硬い文鳥を眺めた。

　自分はこごんで両手に鳥籠を抱（かか）えた。そうして、書斎へ持ってはいった。十畳の真中へ鳥籠を卸（おろ）して、その前へかしこまって、籠の戸を開いて、大きな手を入れて、文鳥を握ってみた。柔らかい羽根は冷え切っている。

　拳（こぶし）を籠から引き出して、握った手を開けると、文鳥は静かに掌（てのひら）の上にある。自分は手を開けたまま、しばらく死んだ鳥を見詰めていた。それから、そっと座（ざ）布（ぶ）団（とん）の上に卸した。そうして、烈（はげ）しく手を鳴らした。

　十六になる小女が、はいと言って敷（しき）居（い）際（ぎわ）に手をつかえる。自分はいきなり布団の上にある文鳥を握って、小女の前へ抛り出した。小女は俯（うつ）向（む）いて畳を眺めたまま黙っている。自分は、餌を遣らないから、とうとう死んでしまったと言いながら、下女の顔を睥（にら）めつけた。下女はそれでも黙っている。

　自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へ端（は）書（がき）をかいた。「家（うち）の人（もの）が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」という文句であった。

　自分はこれを投函（だ）してこい、そうしてその文鳥をそっちへ持ってゆけと下女に言った。下女は、どこへ持ってまいりますかと聞き返した。どこへでもかってに持ってゆけと怒（ど）鳴（な）りつけたら、驚いて台所へ持っていった。

　しばらくすると裏庭で、子供が文鳥を埋めるんだ埋めるんだと騒いでいる。庭（にわ）掃（そう）除（じ）に頼んだ植木屋が、お嬢さん、ここいらが好いでしょうと言っている。自分は進まぬながら、書斎でペンを動かしていた。

　翌日はなんだか頭が重いので、十時ごろになってようやく起きた。顔を洗いながら裏庭を見ると、昨日（きのう）植木屋の声がしたあたりに、小（ち）さい公札が、蒼（あお）い木賊（とくさ）の一株と並んで立っている。高さは木賊よりもずっと低い。庭（にわ）下（げ）駄（た）を穿（は）いて、日影の霜を踏み砕いて、近付いて見ると、公札の表には、この土手登るべからずとあった。筆（ふで）子（こ）の手跡である。