末章「ごちそうさま」-You were my......-

 見送らなければならなかった。ぬるい空気と雨の中だった。

 表情を保った。あなたの旅路に雪が混じらないように。雨で濡れて、人に踏まれて濁り黒くなった、あなたの足を奪おうとする雪が私でありませんように。

「ガラスのコップ、もっていっていいの?」

 遠くへ向かうために振りだすその小さな手に、私のあげた虹色の器があることが嬉しくなってしまった。

「うん、欲しいならあげる」

 雪でできた自分の器から感情が溢れそうになったから、ちょっと突き放したような言い方になってしまう。だめだ。もう少し堪えろ自分。

「だいじに、するね」

「ありがとう」

「うん」

 くしゃりと笑うまりも。

「まりもは、大丈夫だよ」

 あなたの幸せを願うことはできる。私が願わなくとも、きっとその笑顔があれば幸せになれると思う。

 だから、あなたは本当の意味で大丈夫なのだと、声をかけられる。

「せつなも、元気でね」

「元気で」

「またね」

「また」

 また、なんてあるのだろうか。

 遠くなっていく。見晴らしの悪い景色を、あなたが遠ざかる。

 北へ北へと、私の手の届かないどこかへ。


 家に帰らず、雨の中のいつもの場所にいた。

星は空になかった。横を向いて眠ると、星がすぐそこにあった。煩すぎて、眩しすぎて、逆方向を向いた。星がついてきた。雨で服を濡らしたまま、もう諦めてみすぼらしい雪を見ていた。



 昨夜をよく覚えていないけれど、翌日になっていた。

 また今日も、雪と寝ている。


 あのとき不思議な雪玉を掴んだ。

 変わりたかったのかもしれない。けれど、もうこれからの人生を想像する前に目を回して、自分を自分の糸で雁字搦めにしてしまった、一生出てこられない蛹のような私は、自分の糸を崩せるわけがなかったのだ。太陽は眩しい。外敵だらけのお外は怖い、怖い、怖い。

 たとえ君がやってきたとしても、私は何もできなかった。となりで笑ってくれることだけが嬉しかった。

 もっと君から動いて、この悴む手をとって、震える脚を誤魔化して、いろいろなところに連れて行って、いろいろな人と出会って、世界が広がればきっと輝いた。

 何も持たない私は何もできなかった。その上で、何も持たないはずの私から何かを受け取ったあなたは頑張れた。

 あなたは遠くへ行ってしまった。

 引き留めればよかったのだろうか。

 私の本心は、引き留めたかったのだと思う。もしかしたら、いかないでって言えばまりもはずっとうちにいてくれたかもしれない。

 でも、まりもは自分の力で決断していた。自分で決めきらず、雪に埋もれる雪奈にとって、憧憬ともいえるその眩しい行動を、未来のための清く正しい行動を、邪魔してしまうことはできなかった。まりもへの親切心とか親心とか、そんな利己心じゃない。ただ、まりもが遠く見えてしまった。決定的に、私とあなたは人と星になってしまったのだと思う。

 それを決定づけたのは、他でもなく私の心だ。

 私はずっと動かないままで、あなたは駆けだしていった。


 あなたが歩き始めるまでをずっとそばで見ていたから、あなたが通った道筋が光って見える。

 その道をたどろうとして、あの星へ吸い込まれそうになる。

 行くべきだと、行けるだろうと、そうすればまた会えるかもしれないから。

 ぐんぐん想いだけが星のほうに向かおうとして、手のひらだけが空の彼方の星に向かっていって、身体だけは重力に負けて追いつかなかった。手と全身を繋ぐ、肩がぎちぎち軋んだ。想いを無為にして、背中から墜落する。雨で黒く重くなった雪に落ちる。


 あなたがいなくなった私は、とうとう終わっていく。

 薄れていく、記憶にあったあなたのぬくもり。1週間だけの、忘れられない情景。マッチを擦って火をつけてみても暖をとれない思い出。


 だいじょうぶだよ、と私に言って。

 ここは夢なのだから。 

 だいじょうぶだよ、と私に言って。

 現実も人生もまりもも、全部が全部夢なのだから。

 だいじょうぶだよ、と私に言って。


 あなたと会う前だった、あのときよりもつらい。

 ぎらぎらと、あらゆる波長の光を放つ星が眩しい。

 目がちりちりと痛くて、星の声をきく耳、星の匂いをかぐ鼻、星の味がする口、星を感じとる肌。全ての感覚器官を雪に埋めてしまえればよかった。

「大丈夫」

 明日もきっと、おにぎりが食べられますように。

 明日もきっと、生きていますように。

 お別れのときにだけ、無責任に使える言葉。


 心を遮るものは何もなかった。雪原で、誰も隣にいない

場所で、吹きさらしになっている。

 雪に触れる手のひらが、鋭い冷たさの空気に当たる頬が。林檎のように赤く塗られる。

 あかぎれが私に溶かされた雪に触れ、泣いている。凍みて、叫んでいる。

 鼻の先の皮膚が剥けかけている。ぱりぱりと、少しずつ剥がれる。

 かたりかたりと全身が小刻みに振動している。歯がかちかち鳴る。肉体に力がとどかない。脳の言うことを、聞かない。

 

 雪と寝ている。

 まぶたを閉じても閉じずとも、ずっと脳裏で光がまたたいている。


 普通の日常。

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スターゲイザー 鳩芽すい @wavemikam

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