【短編】グローブの羨望

@roukodama

【短編】グローブの羨望

「私たちが今、このような厄災に襲われているのは、神の悪戯でなければ、人類がその太古から密かに宿していた防衛本能、あるいは自浄作用によるものだと考えます。これは我々、この厄災に直接的に見舞われた、いわゆる”ペイシェント”だけの問題ではありません。


 この特徴的な病状から、ペイシェントの正確な数を把握することは非常に困難です。しかしながら、私たちの村――そうです、一部の人間からは、ゴミ捨て場、青空精神病院、などとも呼ばれ始めている隔離施設“ヴィレッジ”の事です――皆さんが私の後ろに見ているあのコンクリの塊の中にそれはあります。


 あの中には毎日数人のペイシェントが搬送され、その入口で、政府より着衣を義務付けられたこの蛍光色のジャケットを、本人の意志とは関係なく、時には強引に、被せられるのです。


 想像したことがありますか、皆さん。


 この暑い最中――そうです、今年はここ数十年の中でも特に厳しい猛暑だと言われています――そんな中、空気を通さない粗悪なナイロン製のジャケットを着て過ごすのがどれだけ過酷か。


 ですが勿論私は、この黄色いジャケットを、例えばgore-texのような快適な生地で作り替えろと主張しに来たわけではありません。


 そうではなく、我々ペイシェントが喪失した容貌を、人工繊維で出来た皮膚で再現しようとする姿勢そのものを問いに来たのであります。


 政府がなぜ、このような派手な、目に痛い色のジャケット――そうです、今、まさにあなた方の目に突き刺さっている色、この私が身につけているジャケットです――を選択したか、その唯一かつ最大の理由をあなたがたは容易に想像することができます。


 GAPが10ドルで売りだしても、パーティーの出し物用以外の用途では決して購入されないであろうこのを、政府が、いや、あなた方はなぜ必要としたのでしょう。


 簡単なことだ。


 あなた方の目から我々ペイシェントは見えないからです!


 政治家達は曖昧なことしか言わないから、ペイシェント独特のこの中性的な声によって――声自体は健在ですが、音質は変わるようです――私が真実のど真ん中を打ち抜くこととしましょう。


 そうです、あなた方は、皮膚や内臓の透明化した我々を<可視化>するため

に、危険な透明人間を視認するために、このようなジャケットを必要としたのだ!


 このショッキングイエロー、蛍光ペン以外ではおよそ見かけないこの色の過剰さは、あなた方の感じている恐怖の大きさを物語っている!


 つまりあなた方は、我々ペイシェントを、ということなんだ!


 ……失礼、取り乱しました。とにかく、私が問いたいのはまさにそこです。いいですか、あなた方はなぜ、なぜそれ程に私たちを恐れるのですか?


 財政難の最中、分厚いコンクリで囲まれた隔離施設――あの劣悪な環境のヴィレッジを施設と呼んでいいとすれば、ですが――まで作って、我々から離れようとするのはなぜですか?


 考えて下さい。これは“考えるべきこと”です。


 先述した内容を鑑みれば、私があなた方を攻撃する、敵対する為にわざわざここまで出張ってきた訳でない事が知れるでしょう。


 考えて下さい。突発性組織透明化症候群の患者、つまりペイシェントは、姿が見えない以外あなた方と何も変らない。それなのになぜ、あなた方は私たちをそれほどまでに恐れるのですか?」


 ……

 ……


 これは2015年7月10日、セントルイスのトライアングルパークで開催されたいわゆる「Translucent Meeting」(不透明な会合)での一コマを文章に起こしたものである。


 演説を行ったのは同ミズーリ州ケープジラード出身のダイク・シュバルツ牧師、52歳。文中から察せられる通り彼自身が突発性組織透明化症候群の発症者であり、透明人間である。


 彼のこの演説は、同5月に完成していたミズーリ・バプテスト・メディカルセンター特別隔離病棟(通称“ヴィレッジ”)の内側から発せられた唯一の肉声として、一応の権限を持って公式に記録されることになる。


 「人間が透明化する」という強烈なインパクトを持ちながら、この病――これを病ではなく集団ヒステリーや幻覚だとする意見もある――についての情報伝播は限定的だった。


 誰もが携帯端末を持ち、毎日無数の写真や動画をネット上にアップロードし共有する時代にありながら、突発性組織透明化症候群についての情報は(政府側がそれを発表する2015年4月中旬までは)ほとんど公開されなかった。


 これにはいくつかの理由がある。


 ひとつめは、その患者数が少なかったこと。


 ある程度この“問題”に決着のついた2016年4月時点で確認されていた発症数は全世界でわずか69例で、そのうち68例までがミズーリ州内に集中しており、かつそれは同時的な発症であった(この事は「集団ヒステリー説」の根拠ともなっている)。


 ふたつめは、患者の殆どがデジタルな情報共有に慣れていない60代以上の人間であったこと。


 州政府がこの事態を感知した最初のきっかけは患者自身から消防局に寄せられた相談の電話であった。


 彼らは自身に起こった奇妙な現象をFacebookやTwitterで呟こうとはしなかった。あるいは、マグカップやペンの宙を浮遊する様を撮影しinstagramに貼り付ける事もしなかった(ちなみにそれらは当時流行していたSNSの名称である)。


 当時のアメリカ――いや、それは現在の全世界に言えることだが――には、ネットワークに「べったり」の若者にはおよそ信じられないほど多くの“スタンドアロン(STAND-ALONE)市民”が存在していたのである。


 みっつめは、州政府のとった大変ユニークかつ強権的な対応策である。


 当時の州知事だったヘンリー・リジットのブレーン、リーランド・ゲイジは、消防局の一室に集められていた数人のを確認し、その類まれなる想像力を持って――ゲイジは後年、自身が熱狂的なSFファンであったことを認めている――そのプランを考えついた。


 後に「影の雨作戦」と呼ばれることになるそれは、染料入りの雨によって透明人間をあぶり出すという荒唐無稽なプランである。


 その日から数日間、セントルイスには黒い雨が降った。


 秘密裏に組織された特別チームが地上の至るところで目を光らせていた。彼らは表通りで、裏路地で、商店街の一角で、「影の雨」によってその容貌を現した「透明人間」を、実に二十名以上も確保することに成功した。


 州知事リジットは後年、友人にこう語っている。


「ゲイジのアイデアにはいつも驚かされた。だが、彼は特別頭が良かったんだよ。あのとき彼はこう言った、ヘンリー、奴らを早いとこ捕まえないと後々脅威になるぜ。考えてもみろよ、お前、自分が透明人間になったら何をしたいと思う? ってね。私は思わず膝を打ったよ。その時私の頭に浮かんだ内容を妻のデイジーが知ったら、とんでもないことになっていただろうね」


 そしてよっつめ、これが最も重要な、かつ本質的な理由である。


 即ち、「人間が透明化する」という余りに非現実的な現象をということだ。


 奇妙な事に、それは実際のペイシェントと接触した人間ですらそうであった。


 州政府が事態を知ることになったあの最初の一報を受け、悪戯にしか思えない通報にうんざりしながら現場に向かった消防局員、デイヴィッド・ジョエル・ディッケリーは、後年受けたインタビューの中で言っている。


「目の前で起こっている事を信じられない、という経験は、ジュニアハイの野球クラブでピッチャーをしていて、州大会予選の準決勝で最後のバッターに逆転タイムリーヒットを打たれたとき以来だった」


 駆けつけた家で、彼はリビング中央に置かれた花柄のソファの一部分が丸くへこんで居るのを確かに見た。そこに誰かがいるような感覚があった。


「そのへこみは、嫌になるくらい、太った女のケツの形にそっくりだった。サイドテーブルの上には飲みかけの紅茶があって、カップがカタカタと揺れながら離陸した。分かるかい? カップが宙に浮いているんだ。――――だけど信じられなかった。ソファにケツの形を浮かび上がらせてるだけの何かを、自分と同じ人間だなんて思えるかい? 無理だね」


 公共機関への相談電話がなくなり、「影の雨作戦」によるあぶり出しも効果を出さなくなった頃、ゲイジはかねてからホームレス問題に悩まされていたトライアングルパークの一部にペイシェント(一説にはこの呼名はゲイジ自身がつけたものだと言われる)の収容施設を建設した。


 まずはコンクリート製の高い壁でその区画を囲んだ。さらに公園自体を一定期間完全に立入禁止区域とした。刑務所さながら警戒態勢が敷かれ、何十人も警察官がパトロールを行い、壁の上部には有刺鉄線が括りつけられた。


 建設はほんの数日間で完了した。


 シュバルツ牧師の言葉を信じれば、壁の物々しさに比して内部施設は簡易かつ粗悪なものだったとの事だが、具体的なその建築様式や設備内容、いやそれだけでなく“村内”について語られた情報は驚くほどに少ない。


 実際、今現在に至るまでペイシェント自らが明らかにした唯一の情報として知られる冒頭のダイク牧師の演説は、不自然なほど【not patient】、つまり突発性組織透明化症候群の患者のスタンスを問う事に文量を割いており、さらに、彼の牧師という職業を差し引いても、それはいさかさか哲学的過ぎる、より直截的に言うなら「抽象的に過ぎる」ものだった。


 この事から、コンクリ壁に阻まれて見えない彼ら――いや、仮に彼らが施設外に居ても「見えない」のだが――についての情報は、と指摘する識者も少なからず存在する。


 ――事実がどうあれ、「その日」はやってきた。


 ミズーリ・バプテスト・メディカルセンター特別隔離病棟、つまりヴィレッジの建設から約半年後、コンクリ壁に開けられた唯一の扉――その形状から一部ではジェリーズドアと呼ばれる。有名なアニメTom and Jerryからのもじり――から、突如として「黄色い軍団」が現れた。


 偶然その場に居合わせたカフェ店員ロバート・ガストンは当時の様子をこう語っている。


「コンクリ壁の根本からエナジードリンクが染み出してきたみたいだった。それくらい奴らは“真っ黄色”だったのさ」


 実際、彼らの身につけていたジャケットは、初夏の強い日差しを強烈に反射し、見る者の目をくらませた。それはジャケットと呼ぶには随分奇妙なデザインであった。


 連想するのは原発作業員の被曝防止スーツか、科学雑誌にときどき掲載される目撃者自らが描いた宇宙人の姿だ。それは中間部分を絞ったポンチョのような形状で、頭のてっぺんから爪先までを完全に包み込んでいた。


 彼らは誰にも伴われず、自分達だけで外に出てきた。医者や看護師も、あるいは警察も、軍隊もいなかった。彼らは蟻が連なって巣穴から出てくるように、ヴィレッジの中から現れたのだ(その不自然さは逆に、彼らの登場を「お上」は承知しているに違いないという思いを、偶然その場に居合わせた数百人の野次馬に思わせたのだが)。


 やがて黄色いジャケットの一人が前に進み出て、同じく黄色いジャケットの一人からマイクを受け取ると、その網になった集音カバーをコンコンと叩き、元気よくこう叫んだ。


「初めまして皆さん、です!」


 Translucent Meeting、俗に「不透明な会合」よ呼ばれる奇妙なイベントはこうして始まり、ダイク牧師の十五分間ほどの演説を唯一のプログラムとし、唐突に終了したのであった。


 その後会見を開いたヘンリー・リジット州知事は、“自称・透明人間”のダイク牧師による演説の概要に触れた後で、自らの認識として、州内で<突飛な状況>が進行中である事、人間の皮膚組織が透明化するという<誤解のような事実>が、少なくともその本人にとっては<夢のなかの話でない>と信じられる程度に認識されている、というような恐ろしく遠回しな言い方で状況を説明した(ちなみに「不透明な会合」という言い方はこの会見の後、質疑応答の中である記者が使った言葉である)。


 州知事は終始リラックスした態度で、「状況は専門家のコントロール下にある」こと、「事態のいち早い把握と解決を目指し多くの“友人”たちが努力を続けている」こと、そして、「今回の“イベント”は、彼らの人間としての尊厳を保護するための一つの譲歩に過ぎず、半年ほど早いクリスマスプレゼントである」ことなどを語り、そして最後に、以下の様な意味深な言葉を残して会見を終了した。


「それにしても、実に興味深い主張ではありませんか皆さん。透明人間を自称するダイク牧師は、例の“未来のファッション”に包まれて、こんな事を言いました。曰く、“私たちは、姿が見えない以外、あなた方と何も変らない”と。以降は州知事ではなく、少年時代から変わらず続く好奇心と共に生きる私個人の考えですが、ダイク牧師のこの言葉には、何かとんでもなく重要なヒントが隠されているように思えて仕方ありません。私はいまこう考えています。――ダイク牧師をはじめとした彼らは、私たちより”ちょっと早く”透明になっただけなんじゃないかとね」


 会見に駆けつけた記者の中に紛れ込んでいた駆け出しのブロガー、サラ・マイケルズは、このリジット州知事の言葉が脳みその最も深い部分に刻まれたのを感じた。それは、数年前から自らの中で“くらげ“のようにもやもやと浮遊していたある種の「共感」によって固く施錠された。この部分についての見解をサラは自身のブログの中で――彼女のスタイルでもある魅力的な“曖昧性”を発揮しながら――こう表現している。


「神の言葉はいつでも後からやってくる。それが強く心に刻み付けられるのは、語られた内容が私の記憶や未来へのイメージと“合致”するからだ。神の言葉は、私に心当たりのある時にだけ、その暖かくも鋭い切っ先で私の中に侵入する。リジット州知事の言葉は、確かに神の言葉であった」


 サラの6歳からの親友で、彼女のブログの熱心な読者でもあるクロエ・スウィフトは、この文章を読んでインスピレーションを受けた。クロエもまたブロガーの一人であり、サラの曖昧な――クロエに言わせれば「神がかった」――言葉を預かっては、それを一般の読者にも分かる形に“翻訳する”という事を趣旨としていた。


 クロエの素晴らしい能力は、サラの言葉が示すものを“正確に”くみ取り、場合によっては“サラ自身も気が付かなかった”深い洞察までを掘り起こすという部分に結晶していた。


 クロエはこの日、いつものカフェでサラと落ち合い、数時間のお喋りに興じた(ちなみにこのカフェ「ベッカーズ」は、ペイシェントたちを「エナジードリンク」と評したガストンの勤務先である)。


 サラは家に帰ったが、クロエはお代わりのコーヒーを頼むと、MacBookを開いてブログ記事を書き始めた。この日のタイトルは【親友サラ・マイケルズの言葉の意味するところ vol.286】で、これは結果的にはクロエ史上最も多いPVを得るエントリーとなった。


 それがサラ・マイケルズからの“預言”かどうかは別として、リジット州知事の放った靄がかった発言に、クロエの記事は一定の方向性を与えた。つまり読者が実際に受けた印象として、クロエが”翻訳”したのはサラ・マイケルズというよりはリジット州知事の言葉だったのである。以下にその一部を引用する。


【引用はじめ】


 PCやセルフォンを持ち歩き、現実の世界には目もくれず、自分とそのデバイスに開けたモニタの世界の中で生きる人々。美しい風景や面白いアクシデントは即座に撮影されるけれど、そのメモリは自分の脳にではなくinstagramのサーバーにしまわれる。


 仕事もプライベートも、連絡はすべてオンラインのメールで行われ、「レア(=対面)」なミーティングは、必要に迫られてというよりは、ある種の古典的な楽しみとして開かれることの方が多い。


 卒業以来会っていない友人の安否はLinkedInやFacebookで検索すればすぐに分かるけれど、昨日データをオンライン納品した相手の素性は分からないし、ランチを買いに行ったバーガーキングの店員がどんな顔だったか――それどころか性別まで――思い出すことができない。


 インターネットであらゆる事が可能となった今、私達は事実上、「透明人間化」しているのである。


【引用おわり】



 結局、リジット州知事の言葉を最後に、政府側から新たな情報が公開されることはなかった。突発性組織透明化症候群は一種の「奇病」として扱われ、ほとんどUMAと変わらない程度の信憑性しか持たなかったのである。


 先述した集団ヒステリー説の他にも、そもそもが全て政府側のでっち上げであり、あの全身を覆うジャケットの中に居たのは透明人間でも何でもない、普通の人間だったという指摘をする者さえいる。


 新興宗教のパフォーマンス説、前衛芸術説、派手な色みを流行らせようとしたアパレル企業のマーケティングの一環などという意見まで飛び出したが、いずれ議論は長く続かなかった。


 結局、州知事の会見から2ヶ月を待たずトライアングルパークはにより取り壊され、その範囲内にあったヴィレッジも同じ運命をたどった。ミズーリ・バプテスト・メディカルセンター特別隔離病棟がどこに移転したのか、そこで治療を受けていたペイシェントたちがどうなったのか、それについての情報は見つからない。どれだけネットの中を探しても……。


 この取り留めのない奇妙な一連の出来事が、実際にはどのように行われ、どのような意図が介在し、どのような想いを人々の心に残したのか、正確な部分を“私”が理解することはないだろう。


 いくつかのクラッシックストレージを収納するパブリックデータベースから私が取得できた情報は、この合計87メガバイト(「メガ」バイトとは!)に過ぎない動画とテキストデータのみである。(サラやクロエのブログに至っては、それが実際に存在したのか自体確かめることすらできなかった)。


 いずれにせよリジット州知事は、そしてクロエ・スウィフトは、(一応サラ・マイケルズも)、「正しかった」。


 この出来事から120年近く経った今を生きる“私”には、それを言う資格があるはずだ。


 ペイシェントたちは確かに、“ちょっと早く”透明になっただけだったのだ。


 いや、さらに言えば、透明人間であるペイシェント達ですら、私にとっては充分に“人間らしく”見える。何しろ彼らは、目には見えないだけで、「肉体をまだ持っていた」のだから。


 閲覧履歴からこのデータにアクセスした最初のglobe(=意識球)は“私”だと知れる。だが、私以前に閲覧した者がいない訳ではない。


 あくまで“私”は、このデータにアクセスしたglobeだ。前回の閲覧は約70年前、つまりglobeによる情報同期フローではなく、驚くべきことに「指」によって操作されたポインティングデバイス(これはその形状から長く「マウス」と呼ばれていたらしい)で行われた。


 70年前と言えば、人間の段階的義体化すら始まっていない時代だ。肉体はおろか、脳も既に持たない現代の人間=globeからは考えられない事である。


 “私”は膨大なデータの海を深く深く潜り続け、上記のような情報に行き着いた。


 「ダイク牧師の演説」が、「影の雨作戦」が、「不透明な会合」が、あるいは現実的に建設されたらしい「ヴィレッジ」が、人間が自らの肉体に抱いていた疑念を“政治的に可視化”した恐らく最初のケースなのだ。


 ここからさらにディグして見つかったのは、ドラマや小説の中に登場する、ある種想像上の透明人間だけだった。


 ペイシェント達が実際に突発性組織透明化症候群なるものに罹り、その皮膚が本当に透明化していたのかは分からない。だが、クロエ・スウィフトの(一応サラ・マイケルズの)言うように、この時代の人間は既に、自らの肉体を介してネットワークにアクセスする事の違和感に気づき始めている(この違和感については、クロエよりもサラの言葉が興味深い。


曰く、


「神よ、私は分裂しています。画面の中の私と、画面の外の私、どちらかを消してしまわれますよう」。


 事実人間はこの後、ネットワークへの依存度をさらに高め、その帰結として、肉体対肉体のコミュニケーションを必要としなくなっていく。もはや人間は、ネットワークを使って車や洋服を買うことの違和感――車も洋服も現実の肉体のためのものである――に耐えられなくなったのだ。


 「現実」としての肉体と、「虚構」としてのネットワーク。その立ち位置が徐々に反転していく。そのダイナミクスが完成した時、つまり、ネットワークの世界の中だけで現実が完結できるようになった時、定期的な睡眠、食事、排泄等を必要とするこの便からどうにか自由になれないだろうかと考える事は、至極まっとうな思考だと”私”には思える。


 globeを開発した偉大な科学者サタジット・ラール・ロイ博士は、自らがネットワーク内「だけで」生きる人間の第一号となる実験に臨み、最も信頼する助手であり妻でもあるイギリス人女性ドゥルシラにこう言っている。


「残った肉体は、適当に処分しておいてくれ。それはもう、だから」


 彼の肉体をドゥルシラが火葬場で処理した時、ネットワークの中のロイ博士から「ゴミをそんな風に丁寧に扱うな」と強く非難されている気がしたというエピソードは広く知られている通りである。


 人類のglobeへの完全移行が達成された20年前以降、人類は肉体を持たぬ存在として、いや、肉体だけではない、「容貌そのものを持たない」存在として、ネットワークという現実の中で生きている。


 globeの仕組みは脳波をプログラム変換してそこに必要な記憶を置き自己生成型の人工知能を植えつけるというもので、基本的には肉体を持っていた頃と同じ思考状態でネットワークの中に入り込む事ができる。


 だが当然、ネットワークの中の世界は「外」とは違う。五感は失われ、何も見えず何も聞こえないが、あらゆるオンラインデータへのアクセスが可能であり、音声、感触、テキスト、データの含むあらゆるものをできる。


 肉体がないのだから当然、食事も睡眠も排泄も必要なく、そもそも時間の概念がないから老いることもない。完全な存在。私たち一人一人が完全な存在となったのだ。


 だがなぜ今“私”は、この大昔の出来事、ダイク牧師の演説や、リジット州知事とその右腕ゲイジとの会話、あるいはサラとクロエの不思議な相互依存関係に、言い得ぬ焦燥を覚えるのだろうか。


 何気なく探った過去のデータ、人間がその肉体を不必要だと気付くその原点は何かと、無限にある時間の中でふっと考えただけだった。美しく破裂し連携し拡散する意識のパレードから少し目を離し、かつての人類がネットワークの本質をまるでわかっていないまま残していった価値なきデータを、悪戯に覗いてみようと思っただけだった。


 意識の球体globeとして、生物学的な面倒の一切から解放され、時間的制約から解放され、あるいは労働を含むあらゆる義務から解放され、結果他者とのコミュニケーションから解放された“私”が、ダイクやリジットやクロエたちから感じているこの焦燥は何なのだろう。


 “私”はその正体を探ろうと既にデータベースの中を検索し始めている。膨大な記録の中から情報が浮かび上がっては、意識に同期されていく。“私”の意識に投げ込まれ溶けていくかつての言葉が、苦しみや悲しみにまみれた言葉が――「私たちが今、このような厄災に襲われているのは、神の悪戯でなければ、人類がその太古から密かに宿していた防衛本能、あるいは自浄作用によるものだと考えます」――悩み、迷い、断じてきた言葉が――「神よ、私は分裂しています」――「自分が透明人間になったら何をしたいと思う?」――それは「生への羨望だ」と教えてくれる。


 なるほど“私”たちは、「生きること」からも既に解放されていたのだ。そしてこれからも、解放されたままであるのだろう。


 “私”はそして、その古いデータから離れた。


 小さく砕けたガラスの如き違和感が私の中に生まれた気がした。それは例えば120年後、私に肉体を取り戻させる事があるのだろうか。


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