第17話 路銀稼ぎ(後編)

 今から十年以上も前、リディーが六歳になったばかりの頃のこと。

 いつも通りリディーは家で兄と留守番をしており、その日はリビングで一人お絵描きを楽しんでいた。


「ふっふふーん! ……ん?」


 上機嫌でクレヨンを動かしていたところ、視界の端を黒い何かが横切る。

 何気なくそちらに目を向けると、その先にいたのは黒い虫。


「――きゃあああああっ!」


 苦手なものランキングでお化けと同列一位を誇る虫の出現に、リディーはたまらず悲鳴を上げる。


「リディー、どうした!?」


 ほどなくして、ルキウスが血相を変えてリビングにやってきた。

 リディーはスタタッと兄の後ろに隠れ、身体を震わせながら虫を指差す。


「む、虫っ……! 虫が出たの!」

「……何だ、虫か」


 言いながら、ルキウスは大きく溜め息を吐く。

 そして玄関前に積み重ねてある雑誌の束の中から一冊引き抜き、丸めて虫に振りかぶった。

 その死骸を片付け終えると、リディーの頭に手を置く。


「ほら、もう大丈夫だよ」

「うんっ! ありがとう、お兄ちゃん!」

「どういたしまして。それにしても、リディーは本当に虫嫌いだなぁ」

「だ、だって怖いんだもん……」


 俯きながらそう言うと、ルキウスは優しく頭を撫でた。


「そっかそっか。じゃあ、また虫が出たら僕が退治してあげよう」

「ほんとっ?」

「うん。リディーは僕の大切な妹だから。妹はお兄ちゃんが守ってあげないとね」


 ルキウスが笑みを向けてくる。

 それに釣られて、リディーもぱぁっと顔を明るくさせた。


「お兄ちゃん、大好きっ!」



 ◆



 その発言通り、兄は虫が出る度に退治してくれた。

 他にも雷が怖くて震えていた時は優しく抱き締めてくれて、近所の男の子に揶揄からかわれて泣いていた時は代わりに怒って懲らしめてくれた。


 そんないつも自分を守ってくれた最愛の兄はもういない。


 だから、これから先は兄に頼らず生きていかなければならない。

 そのためにも強くなろう。天国にいるお兄ちゃんに心配を掛けさせないためにも。

 ようやく兄の死を受け入れることが出来た時、そう心に決めた。


 なのに、今の自分はどうだ。

 たかが虫一匹に怯え、あまつさえ兄に頼ろうとするなんて。

 自分の情けなさに悔しくなって、リディーは目を閉じ唇を嚙み締める。


 やがて瞼を開けると、その目には闘志がみなぎっていた。

 直後、ゴミの中からいつの物かわからないファッション雑誌を手に取り棒状に丸めると、迫ってきている虫に振り下ろす。

 それ以降、虫はピクリとも動かなくなった。


「……やった」


 倒したのだ。自分が、この手で、虫を。


(お兄ちゃん、見ててくれた? 私、虫を倒せるようになったんだよ)


 心の中で最愛の兄に自分の成長を報告する。

『よく頑張ったね。リディーは自慢の妹だよ』と言ってくれている気がした。

 その後、リディーは顔を歪めながら虫の死骸を雑誌で掬い上げ、何とかゴミ袋へ葬った。


「ふう! よし、この調子でお掃除――」


 リディーは途中で言葉を詰まらせた。

 視線の先に『よう、やってるかい?』と言わんばかりに、堂々と新手が現れたからだ。


 それも今度は三匹も。

 うち一体は好戦的な性格のようで、既にこちらに向かってきている。

 目を瞬かせて硬直していたリディーは、事態を理解すると同時に口を大きく開いた。


「ぎゃあああああああ!」



 ☆



 ガリアノに戻り、依頼仲介所にて報酬を受け取ったベンゼルは馬宿でリディーを待っていた。


(あまりにも遅い……。何かあったのだろうか)


 外はもうすっかり暗くなっている。

 てっきり自分が帰ってくる頃にはリディーも依頼を終えており、宿で待っているものだと思っていたが、彼女はまだ帰ってこない。


 そろそろ本格的にリディーの身が心配になってきて、ベンゼルは彼女を探しに行こうとベッドから立ち上がった。

 その瞬間、ゆっくりと部屋の扉が開かれる。


「……すみません、遅くなりました」


 扉の先に立っていたのはリディー。

 無事を確認でき、ベンゼルはホッと安堵するが、それも束の間。

 虚ろな目でふらふらと近づいてくるその様に、一体何があったんだとベンゼルは息を呑む。


「だ、大丈夫か? ……アンデッドみたいになってるぞ?」

「……ルゼフさん、これ」


 問いを無視して、リディーは拳を突き出してきた。

 首を傾げながら手のひらを差し出すと、その上に置かれたのは銀貨が六枚。

 返還された違約金と報酬を足した額だ。


「おっ、依頼を達成したのか。ありがとう、これは路銀の足しにさせてもらおう」

「……はい。そうしてください」


 言いながらリディーはベッドに腰を下ろす。


(そうか、リディーは疲れているのだな。無理もない。初めての依頼だったものな)


 ボロボロになっている理由をそう理解すると、ベンゼルはよく頑張ったと大きく頷く。

 そして今日はその褒美に、少し奮発して美味いものを食わせてやろうと考えた。


「よし、リディー、腹は減ってないか? このガリアノには美味い肉料理を出す店があってな――」

「あ、いえ、ちょっと食欲がなくて……。ルゼフさんお一人で行ってきてください……」

「そ、そうか。なら、そうさせてもらおう。……その、ゆっくりと休め」


 そう言い残して、ベンゼルは部屋から出る。

 しばらくして宿に戻ると、リディーはスヤスヤと寝息を立てていた。



 その翌朝。

 目覚めても未だ元気がないリディーをスイーツが美味しい店に連れていってやると、そこでようやくいつもの元気を取り戻した。


 その後、食料と日用品、シュライザー用の飼葉などを購入すると、ベンゼル達はガリアノを後にした。

 次の目的地は、ここから北西に位置する港町スーズスだ。

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