第9話

 住み慣れていたアパートを出て、新しい家路に向かう。


 産み育ててくれた母親との決別は、実に爽快であっけなかった。


 自転車を押しながら歩くヒロト。

 その頼もしい背中はまだ見慣れないのに得体の知れない安心感をもたらしている。


 一つ歩みを進めるごとに、耳の奥にまとわりついていた母親の嗚咽は、同情から不快感に変わり始めていた。


 母親にとってゆきのとはなんだったのか?

 卒業も入学も、初潮も、誕生日の一つも祝ってもらった事がない。


 丸いホールケーキの上で揺れるキャンドルの炎が、ゆきのの憧れだった。


「晩飯の買い物して帰ろうか」

 ヒロトのぎこちない声。


「うん。コンビニ? スーパー行く?」


「スーパーにしようか。鍋でもするか。温まるぞ」


「鍋? 鍋なんて家でしたことなかった。ヒロト作れるの?」


「材料さえあれば、鍋に入れて煮るだけだよ」


 少し小バカにしたような物言いも、ゆきのにとってはどこかくすぐったい。

 質素なローテーブルの上で、コンロに乗った土鍋が湯気を上げるシーンを想像しただけで、心に温もりを感じる。


 肌をさす夜風さえも心地いい。

 今夜の食い扶持のために、パパ活をする必要もなくて、これからずっとこんな幸せが続くんだと、何度も自分に言い聞かせた。



 夕時のスーパーは仕事帰りらしい主婦でにぎわっていて、大音量のありふれたクリスマスソングが充満している。


 丸々太った白菜に、ネギ。春菊に糸こんにゃく。絹ごし豆腐に骨付きの鶏肉をカートに入れる。

 それに、ヒロトはひき肉とキャベツを入れた。


「それもお鍋にするの?」


「うん。ロールキャベツ作ろう」

 ごくりの唾が音を立てて喉を通過した。


「美味しそう。作れるの?」


「うん。味が染みてうまいんだよ」


 スーパーの狭い通路ですれ違う人達は、二人をチラ見しながら通り過ぎる。


「私たち、どんな風に見られてるのかな?」

 と訊いたゆきのの声は、弾んでいた。


「さぁな」


 ヒロトは照れたようにスーパーの棚に視線をやる


「親子には、見えないよね」


「バカ。当たり前だろ」


 どんな会話でも、嬉しすぎて、カートを押すヒロトの腕に抱き着いた。


「ねぇ、パパ。私がお嫁に行ったら寂しい?」


「え? あ、ああ。絶対に嫁にはやらん」


 冗談交じりに笑みをこぼしながらそんな事を言うもんだから、ゆきのはついこらえきれず大笑い。

 人目を気にして、声を抑え込んだせいで、目じりから涙が伝った。



 中サイズ二つ分のレジ袋とゆきのの荷物をヒロトが持って、ゆきのは自転車を押した。

 自転車も、ちょっとした憧れだ。


「私、自転車に乗れるようになりたいな」


 ヒロトは少し驚いた顔で振り向いた。


「自転車、乗れないのか?」


「だって、練習した事も、買ってもらった事もないもん」


「そっか。じゃあ、今度の休みに自転車の練習しようか」


「うん!」


「ゆきのの自転車を買って、一緒にサイクリングでも行く?」


「行くー」


「じゃあ、頑張ってバイトしないとな」

 ヒロトの声も弾んでいる。


「あのさ、私もバイトするよ。パパ活じゃなくて、普通のちゃんとした。コンビニとかファミレスとか」


「そっか、じゃあ一緒に頑張ろうな」


「私さ、修学旅行行かなくてもいいよ」


 ヒロトは立ち止まってゆきのに振り返った。


「どうして? あんなに行きたがってたじゃん」


「だってさー、2月だよ。2月の沖縄って一番寒い時期だよ。よく考えたら、きっとそんなに楽しくないと思う。だから、もういいかなって……」


「遠慮しなくていいよ。貯金がまだ少しあるんだ。足りない分は先生に立て替えてもらって、あとでバイト代で返していけばいいんだよ」


 ゆきのは首を横に振った。


「いいの。修学旅行に行くより、ヒロトと一緒にいたい。私さ、ずっと毎日毎日全然いい事なくて、せめて修学旅行っていう楽しみだけはって思ってたんだけど、これからの私の未来は、修学旅行なんかより、もっともっと楽しい事がいっぱいで輝いてるの」


 ヒロトは少し困った顔をしている。


「だから、いいんだ。あ、でもヒロトは修学旅行行っていいからね。来年でしょ。沖縄、どんなだったか教えて。写真いっぱい撮ってきて。そしてお土産いっぱい買って来て。それで十分」


 ヒロトは浮かない顔のまま、帰り道を歩き始める。


「今はいいかもしれないけどさ、将来、修学旅行の思い出がないのは寂しいもんだよ」


 しかし、ゆきのにだって高校生がバイトで稼いで10万作る大変さぐらいわかっている。

 簡単に都合よくバイトが見つからない事も。


 友達の中には動画配信や、編集などでお小遣いを稼いでいる子もいるが、収入が入ってくるのはずっと先の話だ。


 そもそもゆきのにそんな才能はない。



 押し問答はしばらく続いたが、答えは出ないままヒロトのアパートに到着した。


 ヒロトは駐輪場に自転車を停め、玄関を開けてこう言った。


「先に入ってて。生物は冷蔵庫に入れといて」

 そういってレジ袋二つを差し出した。


「わかった。ヒロトは?」


「ちょっと買い物」


 何かを隠しているような表情に、にわかに不安が押し寄せる。


「買い物、したじゃん?」


 やっと訪れた幸せ。

 大切な家族。

 それはゆきのにとって、とても儚いものだったのだ。


「大丈夫。すぐ戻るから」


 そんな言葉を残して、ヒロトは背を向け走り出した。


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