第8話

「十分わかったよ。こんなやつら、親じゃない。ゆきのは俺が面倒見る。あんた達の事は警察に通報させてもらう 」


 ゆきのは夢を見ているようだった。

 この家から解放されて、ヒロトと暮らせる?


 そう思った瞬間。


 顔色を変えたたかしが立ち上がり、ヒロトの前に立ちはだかった。


「お前だけ帰れ。ゆきのを連れて行かれたら困るんだよ。俺たちに金が入らなくなるだろ。心配するな。相手は国会議員に著名人。大手企業の重役だ。報酬も今までより」


「やめろ!」

 ヒロトの怒鳴り声がたかしの言葉を遮った。


「子供は……ゆきのは、あんた達の金づるじゃない!」


 そう怒鳴り、ゆきのの背を押した。

 体は自室の扉に向かって一歩進む。


「荷物を準備するんだ。早く!」

 あの時と同じ怖い顔で。


 ゆきのは弾かれるようにして自室に入った。

 追いかけて来ようとするたかし。


 その前に、ヒロトは立ちはだかった。

 通せんぼするように部屋のドアを体でふさいでいる。


「どけ! 金の稼ぎ方も知らないガキに何ができる?」

 たかしのせせら笑う声が聞こえた。


 ヒロトは引き下がらない。

「俺に、指一本でも触れたら、傷害で警察に通報する。ゆきのにもだ」


 たかしは、警察と聞いて縛られたように動かなくなった。


 裏社会と通じてるというのは、時として弱味になる。


 警察に通報されたら、即逮捕。実刑がくだるのだろう。


 ゆきのは急いで、手あたり次第に身の回りの物をバッグに詰め込む。


「ゆきの? 本気じゃないわよね。出ていくなんて。ママを見捨てるの?」


 別人のように甘えた声がゆきのに降りかかる。


 心臓がぎゅっと握りつぶされたような痛みが走る。

 次の瞬間、沸点に達した血液が怒髪天まで湧き上がり。


 なぜだか涙がこぼれた。


 都合のいい時だけ母親面するな。

 今まで見向きもしなかったくせに。

 金づるにしようとしてたくせに。

 ヤクザに売り飛ばそうとしてたくせに。


 こんなのママじゃない。


 ゆきのは肩口で涙を拭って、バッグのファスナーを閉じた。

 大事な物は全部詰め込んだ。

 手には一冊のキャンパスノート。

 ヒロトがくれたパパの記憶ノートだ。

 ゆきのがお腹の中ですくすくと育ち、生まれてくるまでの様子が、途切れ途切れだが刻まれている。

 愛と幸せと笑顔に満ち溢れていたパパの記憶。


 バッグを肩に担いで、ヒロトの背後に立った。

 と、同時にヒロトがこちらに振り返った。


 準備できたとアイコンタクトでうなづきあって、玄関に向かう。

 ゆきのは、拳を握り歯噛みするたかしの前を通り過ぎ、母親の前で立ち止まった。


 決して後ろ髪を引かれているわけではない。


「ママ。これあげる」

 と、記憶ノートを差し出した。


「なによ、これ」


 怪訝そうな顔でノートを受け取り、開いた。


 一瞬でもいい。

 ゆきのがこの世に誕生した瞬間の喜びと幸せを、思い出してほしかった。


 母は驚きに目を見開いて

「これ……どこにあったの?」


 焦り気味にページを次々にめくり食い入るようにパパの思い出を読んでいる。


 そのつむじに向かって、ゆきのは言った。


「私、お腹の中にいた時が一番幸せだったよ。難産だったんだね。初めて知った。産んでくれてありがとう」


 母親は畳の上に膝から崩れ落ちた。

 ノートに顔をうずめて、まるで誰かにすがるように小さな嗚咽を漏らしている。

 なんて言っているのか聞き取れないほど取り乱しているが、ゆきのには「まもる」と言っているように聞こえた。


「なんで?」とか「どうして」とか。


「ごめんなさい」とか……。


 その姿にヒロトは唇をかみ、眼のふちを赤くしていた。


「そっとしといてくれたら警察に通報はしない。できる事なら母親として、ゆきのの幸せを祈っていてほしい」


 ヒロトは震える声でそういうと、ゆきのに向かって言った。


「行こうか」


「うん」


 ヒロトの後を追うように玄関に向かう。


 たかしはもう何も言わず、立ち尽くしている。

 徐々に大きくなる母親の嗚咽が耳の奥にまとわりついた。

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