写らぬ鏡に潜む翳から

伊島糸雨

写らぬ鏡に潜む翳から


 日没とともにわたしたちは目蓋を開く。燭台に浮かぶ煤の獣を追いかけながら、魔除けの宝飾に埋もれた館の赤々とした絨毯を駆け巡る。遅れて起き出した師が鈴を鳴らせば、食堂で木の杯と碗に口をつけ、とろりと解ける熱に唇を濡らす。紅の水面には暗がりばかりが垂れ込めている。鈴が鳴る。わたしたちは駆け出して、夜の火影の闇に消える。

 師は名を〝鏡〟といい、深き森の館におけるただひとりの主人だという。師はわたしたちの庇護者といわれ、わたしたちは〝鏡〟の娘と噂された。そのように揺らめく波紋は時に月を介して館に届き、ふと目を瞬くうちにすでに何処かへ去っているのが常であった。風の便りを送ります、という囁きはおよそ届いた試しがない。しかしふと感受する匂いの断片に語られるべきことは宿るもので、一方、師がそれらの些事を気に留めたことはなく、遣わされかけた使者を暗黙のうちに遠ざける程度は息を吸うようにやってのけた。

 およそ暮らしと呼ぶべき日々はどこにもない。ある種偏執的な行為の連鎖が時間の枢要を成すばかりである。眠り、目覚め、食べ、笑い、走り、転げ、永遠と境界の定からぬ草花の陰翳に横たわる。虚ろを掻く四肢は目に映れども全容は杳と知れない。あらゆる鉱石、歪曲と変質を塗り重ねた鉱物の行末たちは、鈍く眩んで反射を頑と拒み続ける。師はわたしたちの足踏みを糸で絡めては、深き森の先々、木漏れ日の透く天蓋の果てへ臨むことを留めている。そのような存在であると師もわたしたちも語られている。

 わたしたちはいずれ〝鏡〟になるものと時にいわれた。意味するところは決して不可解でなく、暗喩の泥濘から掬い上げた言葉たちは宿命という名で呼ばれている。あるいは、そのように生まれたもの。予定通り。予め敷設された轍の上を無邪気に駆けてゆく幼子の欠片とも呼ばれ得た。わたしたちは異なる次元、減算された空間の狭間で肉を繋ぎ、師はそれを呪縛といった。〝鏡〟とはすなわち存在の否定であり、現実の瑕疵であり、写さぬが故に語り継がれぬ非存在の証明であった。

 きたる日、夜燭の陰で師はわたしたちの立面、その折り目に裁断の刃を入れていく。磨き抜かれた象牙色の刃先がつぷりと沈み、溢れ出す熱源を杯に注ぐ。深き森の奥底で、黄昏と夜の合間に写り得ぬ同胞を求め続けた悲願が実る。わたしたちは引き剥がされる。わたしたちは非存在の彼方に殺戮される。悲鳴は祝福と言祝がれ、わたしは鈍く眩んだ翳へと消える。あるいはわたしは、写らぬ鏡に頬を寄せる。

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