38.鼓動

 生理が、来ない。


 四月の生理は、十二日に始まった。

 二十八日周期だから、五月は十日に始まるはずだ。

 なのに、十日になってもさらに一週間が過ぎても、始まる様子がない。

 きっとストレスで遅れているだけだと思い込もうとしていたが、これ以上は誤魔化しようがなかった。

 妊娠検査薬を買おうか、それとも産婦人科に行こうか悩んで、結局産婦人科に行くことにする。

 妊娠初期にエコー写真がもらえるのかは知らない。そもそも映るのかもわからない。けれど、検査薬の結果を見せるよりは姿形がある方が、テッペイの心を動かせるような気がして、産婦人科を選んだ。


 初めて入る産婦人科に、ルリカはドキドキと周りを見回す。

 お腹の大きな妊婦さんや、赤ちゃんを抱いた人。小さな子どもたちもいて、なごやかな雰囲気だ。

 受付の人に言われて問診を書いた後は、血圧と体重を測って呼ばれるのを待つ。


 想像妊娠でなければ、十中八九、このお腹に赤ちゃんがいる。


 あれだけ子どもができては困る困ると思っていたのに……いや、今もそう思っているはずなのに。心の隅が勝手に高揚を見せる。


 ドキドキとお腹に手を置きながら待っていると、「来栖さん」と診察室に呼ばれた。

 中に入るとおじさんの産婦人科医に「とりあえずエコーを見てみようか」と言われて、お腹にジェルをベトベトに塗られる。


「あ、いましたよ。妊娠してますね」


 先生が、そう言って画像を止めてくれた。

 丸い黒い物体があって、その中になにかよくわからないものが入っている。


「この黒い丸が胎のうね。この真ん中へんにあるのが、卵黄のう。この大きさだと、五週と三日くらいかなー」


 なんだかよくわからないが、この目玉焼きの黄身のようなものが赤ちゃんらしい。これがちゃんとした人間になるとは、どうにも信じがたい話だ。


「心音聞こえるかな。ちょっと待ってね」


 そう言ったすぐの事。ザザッと音が聞こえたかと思うと、トトトトトトッ! とすごく早い音が聞こえてきた。


「これ、この子の心臓の音ね」


 この子の、心臓の、音。

 そう言われた時、心のそこからぐわっと熱いものがこみ上げてきた。

 こんなに小さいのに、心臓がある。こんなにこんなに元気に、動いてくれている。

 勝手に涙が滲んできてしまい、ごくんと飲み込むようにして耐えた。


「スマホで撮ってもいいよ」

「え、いいんですか? 撮ります!」


 予想外の提案に、ルリカはすぐさま返事をする。看護師がバッグを渡してくれて、ルリカは急いでスマホを取り出した。

 慌てなくて大丈夫ですよと言われながらも、ゆっくり時間をかけて診てもらっているのが申し訳なくて、急いでカメラを起動する。

 画面に映される胎のうと、びっくりするくらい早い鼓動。

 それを十五秒だけ撮らせてもらい、先生にお礼を言った。


「それで、この子はどうされますか?」

「え?」


 ルリカが聞き返すと、先生は真面目な顔で問いかけてくる。


「産みますか?」


 問診の答えに、ルリカは独身だと書いている。だからだろう。そんな風に聞かれた。


「はい。産みます」


 しっかりした口調で答えると、先生と看護師が、口々に「おめでとう」と言ってくれる。

 祝福される命がここにあるという事実に、ルリカは耐えきれず涙を流した。



 その日の夕方。

 テッペイが帰ってくるのを今か今かと、何度も時計を見る。


 テッペイだって、この画像を見れば、きっと産んでくれって言うはずだ。

 結婚しようと言ってくれるはずだ。

 間違いなくこの子はテッペイの子で、こんなに一生懸命心臓を動かしていて、こんなにかわいいんだから。

 産むな、なんて言うはずがない。絶対、絶対、喜んでくれる。


「ただいまー」


 テッペイの声が聞こえて、ルリカは玄関まで飛ぶように迎えにいった。


「おかえり、テッペイ! ねぇ、見てほしいものがあるんだけど!」

「なんだ?」

「えへへ、ちょっと待ってね!」


 スマホを操作しているルリカを置いて、テッペイはリビングへと向かっている。

 ルリカが産婦人科で撮らせてもらった動画をテッペイに送信すると、すぐにテッペイのスマホの着信が鳴った。


「ね、見て見て!」


 そう急かすと、テッペイは水を飲みながらスマホを手に取り、動画を再生している。少しして、トトトトトトッ! という赤ちゃんの鼓動が、テッペイのスマホから聞こえてきた。


「……なんだこれ?」

「私、妊娠してたの」

「マジで?」

「うん。五週と、三日だって!」

「父親は?」

「あんたに決まってんでしょ! 私はテッペイ以外の誰ともやってない!」


 ルリカがそう言うと、テッペイは不可解な顔をした。


「五週と三日って……俺、その頃はちゃんとコンドームつけてたし」

「あ、それはね、テッペイ」

「お前、俺以外とヤってただろ。朝帰りしてたじゃんか。そいつの子じゃねーの?」

「え? 朝帰りって……あの時はミジュちゃんの家に泊まらせてもらってただけだよ? 嘘だと思うなら、確認してよ!」

「どっちにしろ、俺の子じゃねーじゃん。週数合ってねーもん」


 ふいっと顔を逸らせるテッペイの腕を、グイッと引っ掴む。

 テッペイは男前の顔を機嫌悪そうにくしゃりと曲げて、口角を下げていた。


「テッペイ、週数はね、前の生理が始まった日から数えるの。つまり、受精していない日も、妊娠日数には数えられるの」

「……へぇ」

「だから、この子は、間違いなくテッペイの子!」


 ルリカがそう伝えると、テッペイは動画をもう一度再生して、「マジかよ」と呟いている。

 それが終わると、また、再生して。


 トトトトトトッ!


 その音をじっと聞いている。


「すごいでしょ、それ、赤ちゃんの心臓の音なんだよ。そんなに小さいのに、すごく頑張ってるの」

「へぇー……すげぇな」


 テッペイはそれだけ言うと、ピッと動画を切って、ポケットに戻した。

 そしてそのままスタスタと玄関に向かって歩き始めている。

 ハテナと思いながらも、ルリカはテッペイの後を追うと、テッペイは靴を履き出した。え? と思ううちに、テッペイは扉に手を掛けている。


「ちょっと、どこ行くのテッペイ」

「用事思い出した」


 テッペイはそれだけ言うと、振り返ることなくキイと扉を開けて出ていってしまった。

 なにが起きたのか、なにを言われたのか理解できずに一人立ち尽くすルリカ。


「え、なに、このタイミングで出ていく……?」


 ドッドとルリカの心臓が不規則に鳴る。

 この画像を見て、この音を聞いて、心が動かないわけがないと思っていた。

 悩んでいたルリカも、すぐに産むと結論を出せたのだから。

 けれど、このテッペイの行動は──


「逃げ……られた……?」


 ルリカは愕然として、へなりと膝をついた。

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