17.矢日子山

 自分で運転をせずに身を任せるだけというのは、結構怖い。さらに、風は凍えるほど冷たい。

 それでも、ビュンビュンと過ぎゆく景色をずっと見ていると、怖さは少しずつ慣れてきた。

 どこに連れていかれるのだろうと思っていたら、どんどん人気のない山奥へと入っていく。

 過去にも来たことがある場所なのだろう。


 こうしてシオさんも連れてきたのかな……


 そんな思いが脳裏をかすめる。

 バイクの免許にしたってそうだ。シオちゃんとやらと付き合い始めたのが大学の四年生、バイクの免許を取ったのは、二十二歳の時。

 テッペイはもしかしたら、彼女をバイクに乗せたくて免許を取ったのかもしれない。

 バイクのタンデム走行は、免許取得後一年はできないはずだから、おそらくシオちゃんとは一年以上の付き合いをしたのだろう。

 真剣に誰かを好きになるというテッペイの姿なんて、今まで想像できなかった。しかし、一番長く付き合っていたと言っていたし、そこにはちゃんと恋愛感情があったに違いない。

 過去に嫉妬してもどうしようもないとわかっていながら、胸は妬けて疼いてしまう。


 どうして、結婚しなかったのかな……。


 妊娠させたなら、普通は責任を取って結婚するものだろう。

 まぁテッペイは、普通の範疇に収まるような男ではないのだが。


 一度知ってしまうと、気になって仕方がない。けれども、テッペイに聞いていいものかわからなかった。

 テッペイはおバカな人間ではあるが、なにを言っても傷つかないというわけではないから。


 ゴチャゴチャと頭で考え事をしていると、バイクは止まっていた。どうやら目的地に着いたようだ。

 バイクを降りてヘルメットを外すと、新鮮な空気が肺に飛び込んでくる。


「ぷは……ここは?」


 目の前には緑の絶景が広がっていた。標識を見ると、どうやら『矢日子山やびこやま』という名前の山の、頂上らしい。

 眼下には沢谷の町が広がっていて、逆側を見ると矢日子山よりも大きな山々がそびえている。


「わ、いい景色!」


 転落防止の柵に手を置き、ガバリと身を乗り出す。町の様子を見ていると、「俺ん家あそこら辺」と指を差して教えてくれた。

 吹き抜ける風は冷たかったが、バイクに乗っている時ほどじゃない。


「まさか、テッペイがこんな景色のいいところに連れてきてくれるなんてねー」

「沢谷に来たら、ここには連れてこねーと! 沢谷町の絶景ポイントだぜ。夕陽百選にも選ばれてるしよ」

「へー」


 寒い時期だからか、それともそんなに有名ではないのか、人の姿はまばらにしかない。

 こんなところで夕陽を拝めるのなら、それはさぞ絶景だろう。


「まぁ、夕陽見るには早過ぎる時間だけどなー」


 時刻はまだ二時になったばかりなので、今日は夕陽を見られないだろう。

 〝シオちゃん〟とは見たのだろうなと思うと、連れてきてもらって嬉しいはずなのに、心がささくれだってしまう。


「シオちゃん、とは、ここに来たの?」


 言うまいと思っていた言葉が、いつの間にか口をついて出ていた。

 ハッとして口を閉じたが、テッペイには聞こえてしまったようだ。


「詩織? あー、まぁ昔連れてきたな」


 シオちゃんは、どうやら詩織という名前らしい。

 テッペイの口から〝詩織〟という呼び捨てを聞いて、肩がガチッと固まってしまった。

 テッペイは、女の子を基本、ちゃん付けで呼ぶ。ミジュちゃんとか、結衣ちゃんとか。バスケ仲間にもインライン仲間にも、年上にはさん付け、同い年や年下にはちゃん付けだ。

 自分だけだと勘違いしていた。テッペイが呼び捨てにするのは。

 嫉妬するのは間違いだとわかっている。ルリカは現在、テッペイの恋人でもなんでもないのだから。


「な、なんで結婚しなかったの?」


 わかっていても、つい疑問を口にしてしまった。知ってしまったら、最後まで知りたくなるのは仕方のないことだと言い訳をして。


「詩織が望まなかったんだよ。まーあの時はちょうどバイト辞めたばっかだったしなー」

「詩織さんが望んでたら……」

「いや、俺も逃げまわってたし」

「な、なんで逃げたの? 詩織さんのこと、好きだったんでしょ?!」

「そりゃー、好きじゃなきゃ付き合わねーだろ」


 自分で聞いておきながら、ズキズキと胸が抉られる。それでも知りたい気持ちは止まらなかった。


「詩織さんは今、一人で子どもを育ててるの?」

「あー、もうやめようぜ。この話は」


 テッペイは『面倒臭ぇ』とでも言うように頭をボリボリと掻いて、ルリカの肩を抱いた。グイッと引き寄せられても、詩織のことが頭を離れてくれない。


「こっち来いよ。やまびこポイントがあるんだぜ」


 町とは逆方向に連れられ、〝やまびこポイント〟という案内の札の前に立たされる。でも今は、とてもじゃないがやまびこをしようという気分にはなれない。


「なんだよ、元気ねーぞ、ルリカ!」


 そう言ったかと思うと、テッペイの手がルリカの胸を押し上げた。「きゃっ」と声が出て、慌てて口元を押さえる。


「なにしてんのよ、もー!!」

「今さらなに言ってんだっての。昨日、散々触らせてくれたじゃん」

「触らせてあげたんじゃない、あんたが勝手に触ったの!」

「でも喜んでただろ?」

「喜んでないっ」

「本気で嫌がってなかったじゃんか」

「うっ」


 痛いところを突かれて、反論できなくなってしまった。確かに、ホントの本気では、嫌がってなかったかもしれない。

 ここぞとばかりに動かされてしまう手を、ルリカは引き剥がそうと試みる。


「で、でも、ほら、ここは人がいるじゃん! 見られちゃう、ダメッ!」

「まばらにしか人いねーし、だーれもこっちなんか見てねぇって」

「と、とにかく、外ではやめてっ! お願いっ!」


 必死に懇願すると、テッペイの手は胸から離れていった。しかし、ホッとしたのは束の間で、その顔を見上げると意地悪そうに笑っている。


「な、なに?」

「外ではってことは、家ではいいってことだからな! 人質ひとじち取ったぞ!」

言質げんちでしょ、バカ! あんた本当に大卒?!」

「家に帰ったら楽しみにしとけよな!」

「楽しみなのは、テッペイだけでしょーが!」


 今度はうっかりと胸揉みを許可してしまった。家の中だけではあるが。帰るのが恐ろしい。


「ルリカーーーーーッ!!」


 テッペイがなんの前触れもなく、いきなり大声でルリカの名前を叫んだ。

 ビックリして目を丸めていると、ルリカールリカーと山彦がうわんうわんと返ってくる。にひひと笑うその顔は嬉しそうだが、ルリカには理解できない。


「な、なんで人の名前を叫んでんのよ?!」

「叫びたくなったんだよ! ルリカも叫んでみろって。スッキリすっから!」

「えー? うーーん、なに言おう……」

「俺の名前でもいいぜ!」


 そう言われて、ルリカはすうっと息を吸い込んだ。


「テッペイの、バカーーーーーー!!」

「なんっでだよ!」


 バカーバカーバカーと声がこだまして、山々が言葉を吸い込んでいく。

 確かにとてもスッキリした。

 たとえ、同じことをテッペイと元彼女がやっていたとしても。

 バカって叫んだのは、きっと自分だけだ。


「あーースッキリした!」

「ぜんっぜんスッキリしねぇ!」


 後ろを振り向いて、ふてくされた顔を大笑いしてやろうと思ったその時。


「んん?!」


 強い力で顔を固定され、強制的に上を向かされた。


 あっという間にテッペイの顔が降ってきて、唇を舐めるように当てられる。


「ング……むぐ?!」


 ジタバタしたいのに、手に力は入らなくて。


 十数秒ほどそれを繰り返された後、ようやくテッペイは離れてくれた。


 今のは……どう考えても、キスだ。それも、唇と唇の。


「っちょ、なにやってんのーー?! 口はダメって言ったよね?!」


 テッペイは「知らねぇ」と言いながら、んベーっと舌を出してくる。


「ほんっと、信じらんない!」

「もう帰ってエッチしようぜ」

「誰がするか!!」

「ここまでしたんだから、いいじゃねーかよー」

「あんたが勝手にやったんでしょ! 合意なしエッチは本当に許さないからね! やったら、あの家を出てくから!」

「マジかよー……」


 ガックリと肩を落とすテッペイは可哀想だったが、それでも今はまだ体を許す気はない。

 今のテッペイは、ただヤりたいだけの人間に過ぎないからだ。

 せめて、好かれたい。他の女の子と同等以上には。できれば、詩織以上に。

 テッペイの特別な人として抱かれたいのだ。乙女チックと言われてしまうかもしれないが。


 しかしそんな日がくるのかどうか、ルリカには想像ができなかった。

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