一件 1
鏡子は閻魔大王と似たような紅蓮色の着物を着て自分の部屋にいた。
部屋はシンプルな作りで、真ん中に椅子と机。入り口には大きな本棚。入り口と反対側には窓があり大きめの寝具がある。
鏡子は椅子に腰かけながら閻魔帳、つまり今まで地獄で行われた判例集を読んでいる。
あれから部屋に案内されて地獄での生活をしているわけだが、閻魔大王には会っていない。妻だから寝食を共にするのかと思いきやそうでもなく。どうも書類上だけの関係らしい。
司命と司録はそれぞれの仕事とは別に私の世話も任されているらしく、朝食から着替えから何から何までやってくれる。
鏡子は本を閉じ、立ち上がって本棚の目の前まで歩く。続きの年の閻魔帳を読むためだ。
本棚を片っ端から漁っていって分かったことがある。地獄にも一応法律はある、ということだ。
殺生をしたか、盗みをしたか、愛欲に溺れ淫らな行いをしたか、嘘をつかなかったか、酒に溺れなかったか――。
この五つで裁判を行っているが、肝心の中身が大ざっばすぎてほとんどの人が地獄送りになっている。
鏡子は本棚へ手を伸ばす。その時、コンコンと戸をノックされる。
「鏡子様、よろしいでしょうか」
「あ、はい。どうぞ」
ギイと扉を開けて部屋に入ってきたのは司録だ。司録は恭しく一礼する。
「閻魔大王がお待ちです。裁判所までお越しください」
「え?」
その言葉に思わず固まってしまう。
裁判所に? 何だって今……。
その鏡子の考えが読めるかのように司録は言葉を続ける。
「鏡子様もここに来て数日経っていますし。そろそろ裁判をしてほしい、とのことです」
確かに、ここに来てからかなり経っているし。内心、裁判はいつするのだろうとは思っていた。ただ、実際にいざ裁判と言われると心臓がドクリと脈を打つ。
鏡子は本棚に伸ばしていた手を引っ込めて、ゴクリと唾を飲み込む。なかなか足を踏み出すことができない。
「大丈夫です。鏡子様」
「……」
「閻魔大王は何故すぐに裁判をさせなかったか、お分かりですか」
鏡子はハッとして司録を見つめる。
確かに……。私を妻にまでして裁判をしてほしかったのならば、すぐに出来たはずだ。
続けて司録は口を開く。
「一つはここ、地獄に慣れること。そして二つ目は知ってほしかったからです」
「知る?」
「この地獄の現状を――。地獄がどれだけ罰を受ける者で溢れているのかを」
司録はゆっくりと鏡子へと歩き、横に並ぶ。そして本棚から鏡子が先程読んでいた閻魔帳を取り出した。
「あなたならここにある閻魔帳を読むだろうと思っていましたから。そして分かったはずですよ。どれだけの人が有罪になっているのかを」
「……」
「あなたが地獄にとってどれだけ重要か知ってほしかった」
「!」
その言葉に思わず隣にいる司録を凝視してしまう。すると司録は鏡子へ顔を向け「……と閻魔大王がおっしゃっていました」といたずらっ子のように笑う。
司録は閻魔帳を本棚へ戻して一歩鏡子から離れる。
「それでは行きましょうか」
鏡子は素直に頷く。
このままジッとして何もしないのも申し訳ないし。やっぱり仕事はしないと。それに鬼が人を殺す光景は嫌だけれど、裏を返せば殺される人を助けられるということだ。
鏡子は本棚から背を向けて歩き出す。司録が鏡子の前に立って、裁判所まで誘導し始めた。
部屋から出て、広い大広間へ出る。
鏡子のあった部屋は建物の中にある部屋の一つだった。この建物は宿舎のようなもので、司命と司録もこの建物のどこかの部屋にいるらしい。
司録は大広間の大きな扉を開けて外へ出る。鏡子もためらいながらも外へ出た。
外には鏡子が最初地獄に来た時と同様、たくさんの鬼がいる。そしてやはりどの鬼も人を様々な方法で殺していた。
「!」
思わず鏡子の足が止まってしまう。
久々に外に出たとはいえ緑の鬼に襲われかけたことを忘れてもいない。し、この先忘れられないだろう……。
先程の人を助けられるかもしれない、という考えがガラガラと雪崩のように崩れ去っていく。
「鏡子様。大丈夫ですよ。どうか足を前へ出してください」
「で、でも」
司録が鏡子の様子に気付いて声をかけるも、鏡子は首を振るばかりだ。
「閻魔大王から何かあった際は鏡子様を護るように、と言いつけられています。ですから安心して下さい。鏡子様を助けてくれる人はいるのだと」
鏡子は司録を見つめる。そして「分かりました」と答えて足を一歩ずつ踏み出す。
この先、私はどう考えても元の世界には戻れない。だったらやっぱり地獄に慣れていかないといけないのだろう。
完全に安心したわけではないけれど、味方がいるというのはやっぱり心強い。
なるべく周りを見ないよう、地面に目を向けながら司録の後をついていく。
しばらくすると真正面に平屋の建物が二つ見える。その二つの建物は長い廊下で繋がっている。
比較的大きな建物は最初に鏡子がいた仕事部屋、そして小さな建物は裁判所になっている。
司録は仕事部屋の方へ歩いていく。
「あれ? 裁判所ではないのですか」
「裁判所の入り口は死人が入るところですから。私達は仕事場から廊下を渡って行きましょう」
「あ、はい」
司録が仕事場の扉を開ける。
相変わらず周りは本棚に囲まれ、ポツンと机と椅子が置かれている。ただ、閻魔大王の姿は見えない。
司録は右の本棚へと近づく。鏡子も司録の後に続いて仕事場へと足を踏み入れた。
司録は本棚へ軽く手をかざす。すると、本棚から白い光が溢れ始めた。
「何!」
「隠し扉ですよ」
「隠し扉?」
「ええ。鏡子様も指輪をかざしていただければ同じことが出来るはずです」
鏡子は左薬指に嵌められている指輪をマジマジと見つめる。
指輪の宝石は変わらず白く濁ったままだ。特別な気配は今のところ感じない。
やがてズズズズと重ぐるしい音を出しながら本棚が奥へ引っ込んでいく。奥には外で見た廊下がある。そして廊下の先に小さな戸があった。
「あの戸から裁判所に入ります」
司録は一人分通れそうな本棚の隙間から廊下へ抜けていく。鏡子も司録に続いて本棚の隙間を抜けていった。
長い廊下をひたすら歩いていく。
しばらくすると小さな戸の前に辿り着き、司録が戸を引いていく。戸が完全に開くと、司録は少しかがんで戸から裁判所へ入っていった。鏡子もかがんで裁判所へ入っていく。
「久しいな、妻よ」
戸をくぐって裁判所に入った瞬間、閻魔大王に声をかけられた。
鏡子は閻魔大王に軽く会釈しながら、始めて入る裁判所の様子を見渡す。
裁判所といっても宮殿のようだ。大きな部屋で何故か机が二つある。
真ん中の机には朱の布がかけてあり、その椅子に閻魔大王は木製の笏しゃくを持って腰を掛けている。机の横には人の頭がついている杖が立てかける様に置いてあった。
二つ目の机は閻魔大王のいる後方に小さな机が置いてある。机にはたくさんの巻物と筆があった。
司命は閻魔大王の机の前に立っており、鏡子に軽く手を振っている。
司録はというと鏡子に軽く一礼して、閻魔大王の後方の椅子まで早足で歩き座った。
「妻よ、こちらへ」
閻魔大王に呼ばれおそるおそる横に立つ。
「どうだ。そろそろ地獄に慣れてきたか」
「正直、あんまりです」
「だろうな」
閻魔大王はニヤリと鏡子に笑いかける。
「だが仕事はしてもらうぞ」
「……はい」
半ば脅され渋々頷く。それを確認して司命が目の前の大きな扉を開ける。と、そこに死に装束を着た八十代くらいの老婆が立っていた。
司命は老婆の細い腕を強引に掴んで閻魔大王の目の前まで引きずっていく。そして強引に床に跪かせた。
「ちょ、ちょっと。何もそんな乱暴にしなくても」
「何を甘い事言ってるの、鏡子ちゃん。この人はとんだ嘘つきだよ」
「嘘つき?」
そんな鏡子の疑問をよそに、閻魔大王は「司命、罪状を」と呼び止める。
司命は着物の懐から巻物を一つ取り出した。
「彼女は石井芳子。彼女には息子がおり、その息子の嫁と不仲だったようです」
司命というと最初の印象からおちゃらけていて気分屋という感じがしたが、ちゃんと仕事するんだなぁと感心してしまう。
その時、急に左手が熱くなる。いや、正確には左の薬指が、だ。
指輪にあるウレキサイトが白く光り、徐々に鏡子を包んでいく。
「な、なに?」
声が上ずりながら助けを求めるも、鏡子を見てはいるものの全員その場から動こうとしない。
一体、何なの?
鏡子の体を包む光は、残すところ頭だけになっている状態だ。そんな鏡子のことなどお構いなしに、司命は話し続ける。
「彼女は嫁に自分の介護をしたらお気に入りの――」
そこでフッと目の前が暗くなる。光は鏡子の体を爪先から頭のてっぺんまで覆っていた。
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