第6話

 お茶を入れたグラスを持って、二階へ行くと、羽鳥は窓の桟に腰をかけて、外にカメラを向けていた。

 ゴキブリが嫌とか言ったくせに、よく真夏の夜に窓を全開に出来るなと思う。虫に「ようこそ、おうちに入って来てください」と言ってるようなものだ。

「羽鳥、お茶いれた」

 高瀬が声をかけると、生返事が聞こえた。

 そんな熱心に撮影している羽鳥の姿を見て、夢中になると周りのことがどうでもよくなる部分が自分と似ている気がした。高瀬が住んでいるこの家が、まさにそうだ。周囲の目だとか、目先の利便性よりも自分の楽しさを一番に優先した結果、今に至るのだから。

 普通は、こんなボロ住みたいなんて思わない。

「この窓って、手延べガラスだろ」

 羽鳥はカメラのネックストラップを首にかけると、振り返ってそう言った。

「知ってるんだ。この部屋だけな。一階は割れてたから普通のガラスに変えた」

「昔、じいさんの家で教えてもらった。貴重なんだって。厚さが均一じゃないから、庭の紅葉が歪んで溶けてるみたいに写ってさ――うん、面白かったな」

 羽鳥は過去に思いを馳せているのか、うっすらと笑みを浮かべていた。

「元々この家に残ってたやつだけど、割れたらもう同じのは入れられないし、俺もこの窓は気に入ってるから、そのままにしようと思ってる」

 アパート周囲は暗いのに、遠くには高層ビル群と橋の明かりが見えて、その辺りの空の色だけが白い。

 古い日本家屋の窓から見える都会の夜景は、天才カメラマンのお気に召したらしい。

 羽鳥を連れてきて良かったなって思った。

「なぁ、高瀬」

「ん、どうかした?」

 部屋にある作業机にグラスを二つ置いて、羽鳥に向き直るとカメラのレンズを向けられた。

 カシャン、と狙ったような一回だけのシャッター音が部屋に響く。

 公園で猫を撮っていた時よりも、重い音だった。

 たっぷりと時間をかけて写真を撮るその行為に、高瀬は自身の内側にある何かを奪われたような心地がした。

 昔の人は、写真に魂を盗られると信じた人も居たらしいが、羽鳥に写真を撮られた瞬間、過去そう感じた人たちの気持ちが、本能的に分かった気がした。

「俺なんか撮ってどうすんだよ、作品にもならないだろ」

「変わってないな高瀬は。――昔と同じ」

 羽鳥は撮ったばかりの写真をカメラの小さなディスプレイに表示させて見ていた。

「あのなぁ、高校の時から比べたら、ちょっとは変わったよ。多分、俺が昔のままだったら、お前がパパラッチなんてしている時点で幻滅して関わりもしなかった。いくら、お前が俺の中で神様でも」

「俺は、神様なんかじゃないよ、高瀬。少なくても、今は違う」

 もし、羽鳥が変わったのだとしたら、高瀬だって変わった。

 羽鳥と再会しなければ、今も才能のある人間と、それ以外の人間で世界を二分して見ていたし、日常に流されるまま、人間誰もが持っている可能性に気付こうともせず、マルバツと順位をつけるだけの仕事をしていた。

 昔と変わらない、その圧倒的な羽鳥の才能に触れ、世界は簡単に誰かの力でひっくり返せるんだって思うと急に心が躍った。

「俺からすれば、今も昔もお前の写真は変わってないさ。撮るものが変わっても、同じだった。言っただろ、俺はお前のファンだって」

 自分と羽鳥の間にある空気に、小さなヒビが入った気がした。薄く伸ばされた飴が割れるような、そんな小さな音。

「高瀬、それ、俺を喜ばせようとして言ってる?」

「もちろん。俺は、お前の才能に惚れてるよ。だから、少しでも羽鳥の力になれたらって……。俺がマネージャーやってるのだって、自分の力で誰かを笑顔にしたかったからだし、それが俺の幸せ」

「――あーあ。ほんと、全然、変わってないのな。昔っから人のことばっかり。結局さ、お前自身はどうなんだって」

「俺、自身?」

 突然、羽鳥に片手を掴まれて、壁に押しつけられた。

 羽鳥の目は、高瀬だけをまっすぐに映している。

「好きなんじゃないのかよ! お前、好きって言ったじゃん、なのに、なんで! 俺も、お前のこと、好きって言ったよな。なぁ、聞こえてただろ、あの日」

 苦しげに吐き出された言葉。真摯に見つめてくる羽鳥の灰がかった瞳は、今にも泣きそうな色をしていた。

 あぁ、自分は、こんな目を、卒業式の日に見たくなかったらしい。

「羽鳥……俺は」

 高瀬の過去の過ちが、そのまま寸分の違いもなく、再び目の前に突きつけられている。

「どうして……」

 あの日なにも言わず羽鳥の目の前から去れば、彼を傷つけずにすむと一瞬心の隙間で考えた。

 本当は気づいていた。好きって言って、返ってきた羽鳥の言葉が、自分と同じ種類じゃないことを。

 驚いて、受け止めきれず、目の前の問題から逃げてしまったのは、高瀬の弱さだった。自分が返す言葉のせいで羽鳥を悲しませたくなかった。そんな身勝手な気持ちだった。

 天才が、何の才能もない、自分に惚れたなんて、勘違いで間違いで、羽鳥の気の迷いだと、混乱した頭で思った。

 だから、きっと大丈夫。羽鳥はこの先も幸せにやっていると信じていた。

 そうやって自分の理想だけを神様に押し付けて逃げたのだから、責められるのは当然のことだった。

(そっか……まだ、俺のこと好きだったのか)

 高瀬だって、覚えていたのだから、羽鳥だって忘れずに覚えていたって何もおかしくない。

 どこにそんな力があるんだというくらい、押さえつける羽鳥の手の力は強く肩の骨が軋んだ。

「なぁ、高瀬、俺は、変わったよ。あの頃みたいな作品は、もう撮ってないって言ったろ。人が不幸になる写真で生きている。幻滅しただろ? 幻滅しろよ、なんで追いかけてきたりしたんだよ!」

「……羽鳥」

「何で、好きとか言うんだよ。お前も俺みたいに変わってればよかった! そうしたら、割り切れた。お前はひどい奴だったって。好きになる価値もなかったって、なのに、なんで変わってないんだよ。好きなら、なんで……」

 近づいてきた羽鳥の顔が、メガネにぶつかって視界が歪む。噛みつかれるような激しい口づけだった。顎に手をかけられ、無理やりにこじ開けられた口のなかに侵入してきた舌の温度に目を見張った。

 こんな熱を持った男が、神様のはずがない。

 ちゃんとした生身の人間で、酷く脆い。脆いのに、涙を浮かべ、傷つくと分かっていながら、そうせずにはいられないとキスをする。

 羽鳥の苦しさを知りもしないで、今日まで能天気に空を見上げて彼の幸せを信じていた自分が情けない。

 さっき撮られた写真には、あの日と同じ、昔のまま身勝手な高瀬が写っていたのだろう。

 だからこそ、写真を見て腹が立った。何も変わっていないって。それなら憤りたくもなる。

 四肢を磔にされたようで動くことが出来なかった。

 こんな血の滲むような痛い口づけを高瀬は知らない。

 いつ終わるともしれない、長い責め苦から解放されたとき、離れていった羽鳥の頬には一筋の涙が伝っていた。その涙を隠すように、羽鳥はファインダーを覗き、さっきと同じように再び高瀬に向けてシャッターを切った。

「ひっどい顔だな。つか、怒るか、殴るかしろよ、なにされるがままになってんだよ、お前は」

「ごめん、羽鳥」

 羽鳥は、その場で項垂れている。

「――ずっと、理由が知りたかった。好きなら、どうして無視されたんだって、誰かに裏切られるたび、お前のことばっかり思い出す。お前のせいで俺は、ずっと人間不信だ」

 羽鳥の頬の涙を高瀬は、手で拭うことしかできなかった。

「なんだよ、触んな」

 羽鳥に手を振り払われるが、さっきまで壁に押し付けられていた強い力はなく弱々しいものだった。

「俺、あの日、お前のこと泣かせたく、なかったんだ……多分」

「何が、多分だよ。だから、俺じゃなくて、お前のことだって言ってるだろ、なぁ、好きって言ったけど、告白したらやっぱり違ったのか? それとも、言うだけで満足したのか、ほら、言えよ、いいから」

 ゆっくりと言葉を選んでいた。今更、何をどういったところで、高瀬が羽鳥を傷つけた事実は変わらないのに。

「……羽鳥のこと、好きだけど。お前が俺のこと好きな気持ちとは違う」

「じゃあ、一体、どんな好きなんだよ。お前は、ただのクラスメイトに、面と向かって、好きだとかマジ顔で言う奴なわけ? 高校生の男が? 幼稚園のガキでもあるまいし」

「……言う、かも、な。うん。いや、普段は順序立てて伝えていたんだけど、あの日は、なんか感情が高ぶって、お前にだけは、なんかうまく言いたいことがまとまらなくて、それくらい、お前が好きなのは、そう、なんだけど」

「はぁ?」

「推しに、いきなり好きとか言われて、なんで俺が、どうして? って、そう思ったよ」

「おし……?」

 羽鳥にまじまじと顔を見られる。自分のこの感情をすぐに分かってもらえるとは思えなかった。

「羽鳥は、今までなんの接点もない作家とか芸能人に、突然好きって言われて、なんで俺が、って思わない?」

「推しって、俺、お前のクラスメイトだったと思うけど、一般人の」

「別に、クラスメイトが推しでもいいだろ。誰よりも俺が、お前のことを一番応援したいって気持ちだった」

「じゃあ、何、本気で、ずっと俺の作品だけ、が、好きなファンだったって言ってる?」

「……そもそも、高校ん時のお前のことは、よく知らんかった。クラスの中でも一番分からん奴だったし、お前が撮った作品のことは、誰よりも知ってたけど」

 最後まで伝え終わると羽鳥は、壁に背を預け、その場にずるずると力なく座り込んだ。

 本当は、あの日こんなふうに話せれば良かった。たとえ、それで羽鳥のことを傷つけたのだとしても。

 羽鳥のことを同じ世界の人間だって気づいていれば、少なくても今みたいにわかり合うまで話は出来たのに、それが出来なかった。

 ひとり舞い上がって、勝手に自己完結した。

「俺は、お前が俺のこと好きになってくれるなら、作品の興味や賞賛なんて、どうでもいいし、要らない」

「羽鳥」

 どんなに素晴らしい才能を持っていても、羽鳥は自身の才能なんて、どうでもいいと言ってしまえるような男だった。あの頃は、そんなこと知りもしなかった。知ろうともしなかった。

「――本当は……はっきり言われなくたって、なんとなく気づいてたよ。お前がすげー変な奴なんだって。何が推しだよ、二十歳も過ぎた大人が好きだ好きだって恥ずかしげもなく」

「変、か?」

「変。お前、恋愛感情とか、そういうのねーの? 今まで誰かに好きって言われたこととかないのかよ」

「いや、あるには、あるけど、なんか恐れ多いかな」

 付き合ったことはあったが、いつも相手にあなたに愛されているように感じないと言われて、最終的には振られていた。

 どうやら恋人に向けるべき感情が推しに向ける感情より薄っぺらいことが、原因らしい。

 高瀬自身は、そんな自分のことを恋愛下手というより、恋愛が向いていない種類の人間だと思っていた。

 愛して愛されるって関係が良く分からない。

「お前は、壊滅的に人から向けられる感情に無頓着すぎる」

 ぼそり、と非難がましく羽鳥に言われた。

「羽鳥は極端すぎるし、ゼロイチでアレコレ決め過ぎなんじゃないか。ダメなら何もかも全部燃やすみたいなとこない?」

「お前にだけは言われたくないな。この無神経男が。……人のこと散々弄びやがって」

「む、無神経って」

「つか、高瀬は一体俺のことどうしたいんだよ。推し? わかんねぇけど、好きでも、俺と付き合う気はないんだろ」

 どうしたいか、と言われると、きっと羽鳥を今の場所から連れ出したいのだと思う。

 パパラッチなんて、人を不幸にするような写真なんて撮り続けても、羽鳥のためにはならない。

 それに、もし自分のせいで羽鳥が長いあいだ傷ついて、ずっと世を拗ねているのだとしたら、なんとかしたいと思うし、高瀬のせいで羽鳥が写真をやめるなんてもってのほかだ。

 やめて欲しいどころか、高瀬はもっと羽鳥の作品をみたいと思っているのだから。

「――お前の写真、好きだから、辞めて欲しくない。俺が、ずっと今日までこう思ってたことは、お前の人間不信が治る理由にはならないか?」

「あのさぁ、ほんと、お前って」

 それに続く、言葉はなかった。

「とにかく、ふらふらしてんなら、落ち着くまで俺の家いたらいいよ。二階のこの部屋はあいてるし」

「二階って、ここクーラーないんだけど」

「扇風機ならあるけど、クーラーは一階しかつけてない」

「真夏に扇風機だけとか殺す気か?」

「じゃあ一階に寝るか? ソファーでいいなら」

「お前、俺に何されたか分かってんのか、襲うぞ」

「羽鳥は根が繊細だから、本当に人が嫌がることとか悪いことは出来ないと思うけど」

「――高瀬は、俺の何を知ってんだよ」

「お前のことはわからんけど、お前の写真のことは、お前よりよく知ってるつもりだよ。基本的に作風は繊細で、途中から世界観がロマンチストになったなぁ〜とか、あれは、なんか理由とかあったの?」

「ッ、もう、お前黙れ、聞いてるこっちが恥ずかしい!」

「じゃあ、違うなら、教えて。勝手に作品分析されるの、腹立つんだろ? 俺はお前のこともっと知りたいし、応援したいと思ってるから」

 今日一日で、羽鳥に何度も呆れられたが、今日一で重いため息を吐かれた。けれど、言わなければ伝わらないのだから、伝えるしかないと思う。

「分かった。じゃあ写真……」

「ん?」

「お前の写真、撮らせてくれるなら、ここに住む」

「俺の? なんで、……まさか変なことに使うんじゃないだろうな」

「なに、使って欲しいのかよ」

「嫌だけど。てか、俺なんか撮らんでも、人物撮りたいなら、もっといい被写体あるだろ、モデルだって紹介するし」

「……お前がいい。お前撮るのは、俺のリハビリみたいなもんだから。それが、嫌なら出てく」

「まぁ、別に減らんし、いいけど……それで、ふらふらせず羽鳥が真っ当に生きてくれるなら」

 何か心境の変化でもあったのか、羽鳥は床から立ち上がると部屋のベッドにごろりと拗ねたように横になる。薄っぺらいマットレスしか置いていないので、それだけだと寝心地が悪いだろう。

 羽鳥がここで寝るなら納戸から布団を出してこようと思った。あとは扇風機。

「羽鳥」

「なに……」

 羽鳥の背中に話しかける。

「ほんと、ごめん、お前のこと傷つけて」

「俺も悪かった。あと、部屋、最近色々あって疲れてたから助かる」

「そっか、なら誘って良かった。家にあるもんは好きに使っていいから、羽鳥、風呂と飯は?」

「飯はいい、風呂は朝使う」

「了解」

 踵をかえし、足を一歩踏み出す。

「……たかせー」

 階段を降りようとしたら、部屋の入り口で呼び止められた。

「ん?」

「とりあえず、ヒモだけは嫌だから、生活費は入れる」

「ヒモって、別に、俺そういうつもりで誘ったんじゃないけど。お前に金やるほど稼いでもねーし。ま、家賃は、今のとこタダ同然で住んでるけど、光熱費と食費はもらうな」

「わかった」

「ん、じゃ、おやすみ」

 長く縁の続く、昔からの友人みたいな言い方だ。

 そのまま高瀬は二階を後にした。

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