ずっとお前と暮らしてる

目々

予知或いは予行練習及び

 肩口を膝で蹴りつけ、そのまま体重を掛けて圧し乗る。

 木床の上に広がった黒髪はひどく痛んでいる。自身の長さに絡まりながら広がる様子は、取り返しのつかないほどに深く刻まれた傷のようだった。

 生白い喉に手を添えて、そのままじわじわと締め上げる。気道が引き攣る感触が掌に纏いつく。逃れようとする肌に爪を立てればぎりぎりと食い込み、鼓動で指が震えているのが分かった。床に圧されたままの後頭部がごつりごつりと音を立てているのに一瞬怯むが、今更手遅れだと思い直す。艶のない黒髪は長さを持て余してもつれて広がり、瀕死の蛇のようにのたうつ。


 充血した目の縁が、背後の蛍光灯の光にぎらぎらと光る。唇を噛み破りでもしたのか、暗い血が擦れていた。


 開かれた口が幾度か、何かを呟くように動いた。

 その声を喉元で握り潰そうと力を籠めた指先に、いつのまにか紛れた黒髪が印のように巻き付いた。


***


 見覚えのない天井に、強い夏の日が射している。

 こちらを覗き込む先輩の顔は、いつものようにへらへらと緊張感というものが欠落した薄笑いを貼り付けていた。


「起きねえんだもん。もう少しで踏むとこだったよ」

「先輩」

「疲れたん? 夏合宿んときより寝が深いじゃん。くつろいでさあ人んちで」


 今日はもう帰るだけだから堪忍なと先輩は笑い、それに合わせるように肩口から垂れた髪の束が揺れる。夢よりは短いんだなと寝ぼけた頭で考えながら、俺はぼんやりと頷いた。


 先輩が実家の部屋を整理するとかで人手が足りないと拝み倒され、日当を含めその他出費が先輩持ちという条件で連れ出された。

 一泊二日の小旅行と言えば聞こえがいいが、三連休中の二日を他人の都合で潰されるのだ。そう考えると微妙だったが、そもそも暇な大学生としては連休だからといって明確な予定もなく、旅行のような真似事ができる上に金が入るのならば問題もない。一応大学のサークルで可愛がってもらっている──雑に遊びに連れ出されたり適当に飯を奢られたりとかそういったやつだ──という普段の恩についても思い出し、人間としての義理に基づいての安請け合いをしたのだ。


「なんかさあ、部屋そろそろ使うからいるもんだけどうにかしろって連絡が来たのよ。だからさ、本だけ大事だから、回収と整理」


 迎えに来た日の朝、先輩はそんなことをぼやきながら、まとめ損ねて零れた髪を耳にかけた。

 まだ外気の方が涼しい時間だからという建前のもと本命の煙草の換気用に開けられた窓から吹き込む風が、先輩の頬に幾筋かの髪を纏いつかせる。先輩は顔を顰めながら、その都度髪を耳にかけ直す。

 助手席からその動作を眺めて、車に乗っている間これをずっとやる気なんだろうかと思った。だとしても人の勝手なのだからと思い至り、俺は黙ってばさばさと風に嬲られる髪を見ていた。


 先輩の運転するレンタカーに一時間ほど揺られて着いた家が思ったより大きかったことと周辺の寂れ具合は予想外だったが、やるべきことが変わらないのならばさして問題ではないとすぐに納得した。


 迎えに出てきた男性──先輩がすぐさま兄の義明だと紹介してくれた──があからさまに不機嫌そうだったことには驚いたが、先輩いわく『あれが通常運転』とのことだったので気にしないようにした。実の弟である先輩が気にしないのならば、他人である俺がどうこういうことではないだろう。実際何の問題もなく家に上がり先輩が生活していた部屋に入り込み作業に取り掛かれたのだからどうでもいい話だろう。平素の顔が仏頂面だろうが無表情だろうが、そんなことをどうこう言われる筋合いは義明さんにもないだろうし、言う権利も俺にはない。


 俺は布団から起き上がったまま、のろのろと周囲を見回す。

 寝場所にした先輩の部屋は片づける以前から極端に物がなく、勉強机と本棚ぐらいしか目立った家具がない。その上本棚は昨日の作業が捗った結果、ほぼ中身を段ボールに移している。


 整理といっても先輩の言っていた通り本棚ぐらいしかなかったおかげで俺と先輩の二人きりでも問題なく──そもそも先輩としては本だけ始末が付けられれば後はどうでもよかったらしい──仕事が進んだのはいいことだった。


 片付けの合間に先輩は色んなことを話してくれた。

 幼稚園の頃に縁側から落下して額を割ったこと。小学校のときにカードゲームが流行って義明さんに練習相手になってもらったこと。中学のときに家出をしようとして電車に乗ったら、どこからか聞きつけて終点で待ち構えていた義明さんに捕まって連れ戻されたこと。

 俺が余程妙な顔をしていたのだろう。先輩は丁寧に家出の理由についても教えてくれた。一言で言えばグレていたのだとカバーと中身が食い違っている漫画本を選り分けながら、いつものように軽薄ですらある調子で話してくれた。

 母親が中学生の頃に亡くなったこと。義明さんが大学進学を諦めて就職したこと。父親も高校のときに失踪したのだということ。先輩も働こうとしたが義明さんに止められ奨学金や手つかずだった亡母の保険金などで大学に進学したこと。

 先輩は時折荒れた髪の先を弄りながら、ただの思い出と同列のように話してくれた。


 どうして俺なんかただの後輩にそんなことを教えてくれるんですかと聞きたかったが、その問い自体がむごいような気がして止めた。先輩のことだから、ただの気まぐれなのかもしれない。もし意図があったとしても、読み取れなかった時点で考えるだけ無意味だろう。


 困惑しながらも、作業は滞りなく進んだ。そこそこに疲労しつつも階下に降りれば、義明さんによって夕食の準備がされていたのだから、どうしようもない客である俺はただただ恐縮するしかなかった。義明さんは第一印象通りに無口な人であったため、自然と俺も先輩も無駄話をすることなく粛々と夕食を取り、やはりいつの間にか準備がされていた風呂を勧められ、先輩から聞かされた情報と久々に会った弟を前にしても笑顔一つ見せない仏頂面と行き届いた気配りの食い合わせの悪さに少々の混乱を抱いたまま風呂に入り、あっさりと疲労に負けてやはり用意されていた布団に倒れるように眠った。

 誠実かつ友情と幾ばくかの金銭に基づく勤労に一日を費やし、愛想はないが過不足のない歓待を受け──その結果があの夢なのだから、俺という人間のどうしようもなさにうんざりするとしか言いようがない。


 昨日のやりとりと寸前の夢を思い出して、なんとなく先輩の顔が見辛かった。俺は布団に足を突っ込んだまま溜息をつく。先輩は不思議そうに時計と俺を順に見てから、


「朝飯兄貴が作ってくれたからさ、早く来いよ」


 先輩はいつものように軽薄ですらある口調で告げて、布団の上から俺の足を踏みつける。

 鈍い痛みに呻き声を上げる。先輩は俺を見下ろして、雑に束ねた髪の先を弄りながらにやにやと笑っていた。


***


 食卓は無遠慮なほどの朝日に照らされていた。

 昨晩夕食を頂いたときとは違い、ただぎらぎらと明るい窓を背景に既に義明さんは座っていて、こちらに気づいてから黙って頭を下げた。俺はその敵意すら読み取れない仏頂面となんとなく昨日先輩から聞いた諸々のことを思い出し、心持ち目を伏せたまま頭を下げ返した。


「俺ここだから。お前隣座んな」


 先輩に言われるがまま食卓に着く。茶碗に盛られた白米と皿に取られた目玉焼きが、きちんと取り分けられて用意されている。味噌汁の他昨晩の残り物らしき細々とした惣菜もついているのだから、普段俺のような怠惰な学生としては勿体ないくらいにきちんとした朝食だ。


「兄貴相変わらず飯も真面目だよな」


 先輩が軽口を叩きながら椅子を引いた途端、義明さんがじろりと視線を向けた。


「仏壇行ってきたか」

「あ」

「行ってこい」


 先輩が俺をちらと見る。義明さんは二度、ゆっくりと首を振った。


「お客さんはいい。お前は家族だろう」

「そうだけど、でも」

「たまにしか来ないんだから、これくらいはちゃんとしろ」


 義明さんの声はただ淡々としていたが、有無を言わせない重さと冷やかさが滲んでいるのが俺にも分かった。先輩は小さく息を吸い損ねたような音を立ててから、先食ってていいよと俺に向かって言って、そのままばたばたと廊下へと出ていった。

 義明さんはそれを見送ってから、俺の方を見て頷いてみせた。先輩が言い残した通りに、先に食べていていいというつもりだろう。許可が出たとは言え流石に他人の家で家主より先に食べるのも気が引けて、俺は添えられていた湯呑を握って、湯気の上がる緑茶に口をつけた。

 湯呑越しに義明さんを見る。

 日に焼けてやや浅黒い肌。短く切られた髪と切れ長の目は黒々として、表情も思考も何一つ読み取れない。先輩にはあまり似ていない──ましてやあの、夢の中の男には、共通点の一つも見つけられない。


「髪、長かったろ」

「え」

「今はまだ肩だからな。半年ぐらいだ。


 穏やかな声だった。

 灼けるように熱い茶碗を掴んだまま、俺は義明さんの顔を真正面から見た。


「この家で寝ると、たまに見る……毎日ってわけじゃない。精々月に一回だ。それに、」


 と義明さんは笑う。

 その妙に晴れやかな笑顔の作り方が先輩によく似ているのだということに気づいて、俺は茶碗を握り締める。そしてその言葉の通り、あの夢の男が誰だったのかを思い知る──それと同時に、にわかに脈打つ胸の底に恐怖とはまた違う感情があることにも思い当たる。あの首を締めたとき、あの黒髪のもつれる様を見たとき、俺が何を思っていたか。


 義明さんは俺の目をじっと見つめてから、一度だけ頷く。それら全てを知っているのだとでも言いたげに、笑う口元からは八重歯が覗いている。


 茶碗の熱に指が焼ける。その鈍い痛みに痺れる指先が、夢の中で黒髪に締め上げられたときと同じ疼きかたをしていることを思い出した。

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ずっとお前と暮らしてる 目々 @meme2mason

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