第20話 なんにも出来ない体になっちゃう

「………………は、寝坊した!」


 なんの前拍子もなく、唐突に一心は目を覚まし、手元にあったスマホで時間を確認しては勢いよく体を起こした。

 夜鶴に会うためについ先日まで早めに家を出て走って学校まで行っていた時間に目覚ましをセットしていたのに気付かなかった。

 きっと、昨日の疲れがあって泥のように眠っていたから聞こえやしなかったのだろう。


 ドタバタと身支度だけ整えて一心は家を飛び出す。

 もう走って行かずともいいのに今日も走って学校を目指す。全ては夜鶴に会うために。


 学校の門近く、たくさんの登校中の生徒の中、艶やかな黒髪を揺らしながら変な歩き方で進む女の子の姿を後から見つけた。

 夜鶴だ。足を痛めているから少しでも楽になるように変な歩き方になってしまっているのだろう。


「おはよう、旭」


 以前のように、夜鶴はイヤホンをしていた。あれからも何度か夜鶴に登校中に遭遇したがいつもイヤホンを耳にさしている。

 夜鶴はイヤホンを外すと普段と変わらない表情を浮かべる。


「おはよ、日野」

「足は大丈夫?」

「うん、余裕。ちょっと痛む程度だから」

「そっか。それは、何よりだ。あ、カバン持つの辛くない? 代わりに持つよ」

「必要ないから。足が痛いだけで腕はなんともないんだし」

「じゃあ、肩は貸さなくていい? またおんぶして行こうか?」

「朝っぱらから下心丸出しやめて」

「下心……?」


 実際に変な歩き方をしている夜鶴を見れば何かして役に立ちたい、と考えていた一心だがどうしておんぶするだけで下心をオープンしてしていることになるのか不明だ。

 しかし、それも一瞬ですぐにどういう意図があって夜鶴が言ったのか察する。また夜鶴の胸を押し付けてほしい、と邪な欲望を全面に押し出していると思われているのだろう。


「ああ、違うよ。旭が少しでも楽出来るなら俺をタクシー代わりにでもしてくれていいからってことだよ」


 確かに、また夜鶴の胸を背中に押し付けてほしいという欲望がなきにしもあらずだが、今ではない。

 すると、夜鶴は一人で突っ走った考えをしていたことに気付いたようでそっと瞳を伏せる。恥ずかしがっているみたいに見える。


「紛らわしい」

「……旭って実はえ――」

「え、なに? 朝から何を言うつもり?」

「いえ、なんでもございません。すみません」


 紅色の鋭い瞳を向けられ、一心は即座に謝罪した。夜鶴って実はえっちな女の子なの、と尋ねるのは絶対にしてはならないようだ。


「うー、じゃあ、残り短い距離だけど何かしてほしいことはない?」


 カバンを代わりに持つのも肩を貸すのもおんぶするのも断られ、一心は頭を抱える。

 昨日の間に作っておいた夜鶴のために出来ることリストのほとんどが一瞬にして蹴散らされた。


「何もないよ」

「だよねえ。くそ、もっと早く起きて旭と会っていれば色々と手を貸せたのに。寝坊した俺の馬鹿」

「寝坊したの?」

「目覚ましいつの間にか止めてて気付かなかったんだ」


 一心は肩を落とした。

 夜鶴のために何か出来ることはないのかと考えても頼られなければ意味がない。


「それだけ、疲れてたってことでしょ」


 夜鶴が足を止めた。

 それに合わせて一心も足を止める。


「どうしたの? 足が痛む?」

「そんなんじゃないよ。それより、ちょっとこっちきて」


 言われた通り、一心は夜鶴に歩み寄る。

 すると、夜鶴が手を伸ばして髪に触れてきた。

 唐突のことで一心は僅かに驚く。


「ここ、寝癖残ってる。ここも。ここも」

「え、そんなにも?」

「日野、慌てて家出たんでしょ。私が直してあげる」


 子どもをあやすような優しい手付きで夜鶴が頭を撫でてくる。一心はくすぐったい気持ちになった。


「うう、旭に撫でてもらって嬉しいけど、ダサい姿を見せちゃったのは悔しい」

「なんで?」

「だって、旭にはいつだってカッコいい姿だけを見てほしいから」

「んー、今まで日野にカッコいいってときめいたことないしなあ」

「ガーン」


 それこそ、夜鶴に会うまではちょっとした寝癖くらいは気にしないで登校していた一心だが、夜鶴に会ってからは些細なことでも気にするようになった。

 寝癖を直して、口臭を気にして、爪を伸ばして。おしゃれはよく分からないけど、ちょっとした部分にでも夜鶴にいいなあと思ってもらえるように頑張ってきた。

 それが、夜鶴には少しも魅力的に見られていなかったようで、一心は肩を落とした。もっと頑張ろう、と気合いを入れ直しながら。


「だから、寝癖が残っていてもそんな変わんないよ。むしろ、だらしない方が母性くすぐられて可愛く思えるかも。日野って犬みたいだから」

「そ、そんなに甘やかさないで。俺、旭が居ないとなんにも出来ない体になっちゃう」

「それは、困ったことになるね」

「俺のお世話してくれますか?」

「日野の頑張り次第じゃない?」

「頑張ります」

「ふふ。お世話されるために頑張るのって矛盾してる」


 ぽんぽん、と夜鶴に頭を叩かれる。寝癖は綺麗に直ったってことだろう。


「あ、ネクタイもズレてるね。こっちも整えてあげる」


 一歩、夜鶴が近付いてきて胸元のネクタイに手を伸ばす。夜鶴の言う通り、慌てて家を飛び出したために今日は鏡で完璧であるか確かめていなかった。

 確かめていれば、寝癖も直していたし、ネクタイのズレも整えてぴんと伸ばして夜鶴にダサい姿を見せずに済んだ。


 でも、そうすれば夜鶴に寝癖を直してもらうこともネクタイを整えてもらうこともなくて朝から新婚プレイを楽しめなかった。

 遥かな嬉しさと僅かな後悔が入り交じり、一心は複雑な心境である。


「なんか、今日はいつもより旭が甘い気がする」

「そう? いつもこんな感じじゃない?」

「うーん、旭は優しいけど……なんか、いつもと違うというか。あ、もしかして、俺のことが好きになったから彼女みたいに振る舞ってるとか?」

「残念。外れ」


 ネクタイを整え終えた夜鶴に胸板を軽く押され、一心は足を一歩退けることになった。


「ほら、早く学校行こ」


 ひょこひょこと片足を庇いながら歩き始めた夜鶴の速度に合わせて一心も隣に並ぶ。

 これで、いつでも夜鶴が体勢を崩しても支えることが可能だ。夜鶴には傷一つ作らせない。


「……昨日さ、家に帰ってから考えれば日野に悪いことしたなって思ったから今日からは優しくしようって」

「そんなの気にしなくていいよ。旭は俺のわがままに付き合ってくれてるし、すっごく優しい。むしろ、俺の方が昨日は旭を怒らせたなって思ってたから」

「日野に怒ってたんじゃないよ。その、あの時はお腹が空いてたから機嫌が悪かっただけで……日野にもこーにも悪いことしたなって反省してる。ごめん」

「謝る必要ないから」


 お腹が空いていたから機嫌が悪かったってなんだそれ可愛いじゃんか、と一心は瞳を伏せている夜鶴に胸をきゅんきゅんさせられてしまう。

 でも、本当にそれだけなのだろうか。

 マラソン直後でお腹が空いていた、というのはあるだろうが空腹だけであんなにも悲しそうにするものだろうか。


 あの夜鶴の顔を一心は見覚えがある。

 クリスマスイブの日、夜鶴の秘密を聞いたうえでイルミネーションの前で告白した時に浮かべていた辛そうな表情とよく似ていた。


「……旭、本当にそれだけ? 何か言いたいことがあるなら言っていいんだよ?」

「ううん、何もないよ。本当にお腹が空いてたから虫の居所が悪かっただけ」

「そっか」


 いくら聞いたところで夜鶴がそう言うのなら本当に空腹でイライラしていたのだろう。

 夜鶴の顔がどれだけ可愛いいのかを分かっても夜鶴の心を一心は知らないのだ。これ以上、詮索したって意味がない。


 しばらくすると、学校が見えてきた。

 なんだかんだ、夜鶴と一緒に登校するのは初めてで一心は時間が一瞬だった気がする。


「あ、そうだ。旭って今日図書室居るよね」

「うん、委員会の日。来る?」

「行く」


 昨日、バイト先に連絡を入れて一心は急きょ、今日も休みにさせてもらった。普段から働き過ぎだと言われているため店長からは逆に休むことに心配されることになり、理由を聞かれたがこう答えた。

 俺のエンジェルを手伝うためです、と。

 店長からは何をふざけてるんだ、と怒られたが一心は本気である。


 もし、夜鶴の身長を持ってしてもギリギリ届かない場所にある本を取って、と頼まれれば夜鶴は脚立を使うことになる。足を痛めているのにだ。

 そんな怪我に繋がるような危険な行動を夜鶴にさせないために、一心が手伝えることは手伝うために休みを入れた。


「じゃあ、待ってるね」

「うん。待ってて」


 でも、そのことを夜鶴には言わない。

 全然、夜鶴に頼られて迷惑だと一心は思わなくても、夜鶴は負い目に感じてしまうかもしれない。

 だから、一心はさりげなく夜鶴をサポートすることに決めた。


 放課後はたくさん夜鶴の役に立ってドキドキさせるぞ、ともう一つの目的も含めて意気込みを示すように一心は拳を丸めた。

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