革命家は死なず

桜梨

革命家は死なず

 その中堅都市にある大学の古い学生寮は、近く取り壊される予定だった。外から見ても、外壁のヒビが目立ち、その老朽化は明らかだ。

 寮の部屋は六畳一間で、ベッドと机が設置されている。原則として一部屋に二人暮らしで、風呂とトイレと水場は共用。それらの掃除は、当番制。平日の朝と夜は、質素な料理が一階の寮食堂で供される。寮の廊下には、「日帝」「打倒」「闘争」など左翼の専門用語を散りばめた、非常にレトロ感満載の素敵なアートに見えなくもない、年代物の落書きで埋め尽くされている。

 ここは、いわゆる自治寮であり、それほど快適ともいえない環境なのだが、月々支払う寮費には、食費と光熱費まで含まれていて、それでも一般的なアパートの家賃よりも格安なため、懐事情の寂しい保護者を持つ若者達の学生生活を長い間、支え続けていた。

 そんな学生寮の歴史は、もう終わる。昨日、行われた「閉寮式」は、寮食堂で盛大に行われた。住人である在寮生はもちろん、卒業して既に大人になった卒寮生たちも大勢参加し、思い出話に花を咲かせ、昔得意だった隠し芸を何度も披露し、肩を組んで寮歌を合唱する頃にはベロベロに酔っぱらっていた。それでも飲み足りない者たちは廊下で車座になり、安酒をドンブリで回し飲みしていた。全員で目を潤ませながらの万歳三唱で締めくくった頃には、既に真夜中だったが、やはり解散するには名残惜しく、再び車座で酒を浴び、ところ構わず酔いつぶれて寝落ちした。翌朝、酔いが醒めた彼らは、心を込めて寮の掃除を行い、今度は本当に退去した。こうして、寮は無人になった。

 ただひとりの住人を除いては。

 その住人は、学生ではない。まだまだ立ち退くつもりはない。これからも住み続けるつもりでいる。

 寮の最上階である4階まで上がり、右の廊下を奥まで進んだ突き当りにある、401号室。学生たちは、滅多に近寄らない場所だ。そこは、寮生名簿では何年も前から空欄になっている部屋で、建前上、誰も住んでいない事になっているのだが、実際のところ、非常に特殊な人物が棲み着いていた。

 午後になって、その部屋の住人、野依高志は、部屋のドアから顔を出して左右を確かめると、ゆっくりした動作で廊下に出て来た。ガリガリに痩せた男だった。ドアノブを掴む腕は、骨と皮だけに見える。ほとんど白くなった髪は、自分で切っているのか、長さが揃っていないボサボサ頭。弛んだ頬には、シミが目立つ。老人性色素班だ。膝か腰か、あるいは背中が悪いのか、少々、足を引きずるようにして前かがみの姿勢で歩いている。見るからに、学生寮には不似合いな人物だった。

 言うまでもないが、学生寮と云うからには、その大学の学生しか住む事は出来ない。学生ですらない野依が、こんな老人になるまで住み続ける事ができた理由は、ここが自治寮だったからに他ならない。この寮を管理するのは、学生達だったのだ。

 この寮のこの部屋に入居した頃は、野依も正真正銘、大学生だった。18歳の若者だった。

 入学して、すぐ学生運動に熱中した。それは、充実した日々だった。自分は世の中のために活動していると信じ、周りのノンポリ学生を完全に見下していた。学業そっちのけで留年を繰り返したが、そんな事は全く気にしなかった。卒業も出来ずに大学を除籍処分になったが、それでも、この部屋に住み続けた。

 野依の部屋は、何人かの学生運動家が出入りする拠点のひとつになっていた。6畳間なので、あまり大勢は同席出来ないが、それでも会議に明け暮れたり、ガリ版でビラを刷ったりする日々だった。

 あの頃は、野依の他にも学生運動していた者は、寮生として数多く住んでいた。彼らは、寮を管理する自治委員も務めていたため、野依が寮に住み続ける事に対して目を瞑っていた。自治委員を務める学生が代替わりしても、面倒な問題を先送りし続けた結果、この日を迎えたのだった。

 どうやら学生たちは、本当に退去したようだな。シーンとして、人の気配が全くない。どの部屋のドアも、開けっ放しになっていて、もぬけの殻だ。もうじき取り壊す予定だというのに、部屋も廊下も掃除されている。ゆうべ、しこたま飲んだだろうに、ご苦労なことだ。

 野依は、昨日の閉寮式には全く顔を出さず、ずっと自室に籠っていた。別に誘われもしなかったし、今では、在寮生にとって野依はアンタッチャブルな存在だったので、わざわざ訪ねてくる者もいない。しかし、参加した卒寮生の中には、野依を直接知る者も居たかもしれず、誰かは訪ねてくる可能性もあると、少しは期待していたのだが。結局、野依の部屋のドアは、とうとう一度もノックされる事は無かった。

 一階の寮食堂での盛り上がりぶりは、この4階の部屋まで聞こえていた。それどころか、終盤には、4階の部屋や廊下まで上がって来て、彼らは酒を飲みつつ談笑していたのだった。珍しく野依の部屋の近くまで来ていたようだ。

 野依は普段、他の寮生と顔を合わせないように気を付けて生活していた。共同トイレに行く時も、廊下に人の気配がない時を見計らってドアを開けた。注目されてしまうため、共同浴場も寮食堂も、行かない。ほとんどの寮生たちが大学に行っている時間に合わせて銭湯に行ったり、洗濯したり、食料を買い出しに行ったりしていた。それでなくても、長年、寮費を払っていないのだ。寮生のための風呂や食事を消費するのは、気が引ける。

 そんな野依なので、昨日トイレに行く事が出来たのは、廊下で何人もの酔っ払いが寝息を立てる明け方近くになってからだった。そうして転がっている酔っ払いの中で、政治について語っていた奴は、果たして一人でも居たのだろうか。もう最後の機会なのだから、こちらから声を掛けて参加しても良かったかな、と少しだけ思った。


 それから一週間ほどが経過した。

 寮は完全に無人になったが、電気も水道も通っていた。かつてないほど快適だった。もう、人の目を気にせずトイレに行ける。寮の中を好きなだけ歩き回れる。1階に5台だけ設置してある、共用の二槽式洗濯機も、好きな時間に好きなだけ使える。    

 寮食堂の厨房には初めて入ったが、ここで思う存分、料理も出来た。何なら、素っ裸で廊下をうろついても、全く問題無い。他に誰も居ないのだから。癖になりそうな解放感!

 そんなある日の、蒸し暑い夜。野依の部屋には、何年かぶりの来客があった。それも三人。

 これほどの人数が訪ねてくるのは、もしかすると数十年ぶりかもしれない。

ちょうど野依が、部屋の中央に正座し、本を読んでいた時だった。愛読書の「資本論」だ。神聖なる書物を堪能する時は、正座しながら、背筋をピンと伸ばして読む事にしている。

 突然の来訪者達は、大学の学生だった。見覚えがないので、初対面なのだろう。この寮の自治委員だと名乗った。という事は、先日までこの寮に住んでいたということか。あの閉寮式の乱痴気騒ぎにも、参加したのだろうか。彼らは、自治委員として最後の仕事に来たと言う。


「...ですから、野依さん。前々からお伝えしていたように、この学生寮は取り壊されるんですよ。水も電気も、すぐに停まりますよ」

 小綺麗な格好をした学生、杉山が言った。杉山は、正面から野依を見下ろすように立っている。野依は床に正座している。

 野依の部屋には、ほとんど物が無い。元々、各部屋に備え付けられていた机と椅子とパイプベッド、押し入れ。古い冷蔵庫。プロレタリアート文学や政治関連の本が並んだ書棚。机は、ガリ版印刷の作業台として使っている。部屋の隅には、ヘルメットと角材。

 お伝えしていたって?何を抜かしているのだ。部屋にメモを入れていただけではないか。誰一人として、直接伝えに来ていないではないか。


「なあ...頼むよ、野依さん。あんたがこの部屋を開けてくれなきゃ、作業が始められないんだと。いつまでこの寮に居るつもり?」

 ベッドに腰掛けながら、かなり大柄な学生、郷田が言った。こいつは、体重の大半が脂肪だと思われる大男だ。不健康な相撲取りと云ったところか。自治委員の癖に、少々柄が悪そうだ。

 そもそも、一言の断りもなしに、勝手に他人のベッドに座るとは、まったく態度が悪い。

「野依さんねぇ、40年以上もこの寮に居て、誰よりも古株だってぇのは、分かりますけどねぇ。ここって、学生寮なんですよ。とっくに学籍も無い野依さんが今まで居座ってたていう状況が、既に異常なんですよねぇ」

 机の前に置かれた椅子に座って、小柄な学生、並河が言った。こいつは、なんだかネズミに似ている。こいつも態度が悪い。どうも、他人を小バカにした態度を取るようだ。部屋に入って来た時も、「思ったよりきれいにしてますね」などと抜かしていたな。失礼なネズミだ。

 椅子に逆向きに座り、背もたれを抱きかかえて、顎を載せている。目上の者に対しこんな態度を取るなんて、ろくな人間じゃない。

 彼らに対して、色々と言ってやりたい事はあったが、まあいい。まずは、様子見だ。

「.......」

 部屋の中央で正座した野依は、無言のまま下を向いた。

「あの、そうやって、黙っていても困りますよ。僕ら自治委員会としては、大先輩である野依さんには、散々、温情ある対応を取って来たつもりなんですが」

 杉山は腰を下げて、野依の目線に近付きながら言う。こいつは、3人の中では、一番マトモのようだな。突っ立ったまま会話するのは減点だが、最低限の口のきき方はわきまえてる。しかし、わざわざ「大先輩」を強調するのは気に入らんな。だいたい、「温情ある対応」ってなんだ?これまで、何をしてくれたと言うのだ?

「なあ、もう他の学生達は、全員退去したんだぜ。俺ら3人は、学生自治会の役員として、あんたを説得しなきゃならないんだよ、野依さん」

 相撲取りかと見まがう巨体が、前のめりになりながら言う。こいつは、敬語も使えんのか。相撲取りの巨体でベッドが軋み、ギイと音をたてた。

「野依さんねぇ、ここの学生寮は、原則、2人でひと部屋を使うって知ってますよね?でも、野依さんは、この部屋をひとりで何十年も使ってますよねぇ。しかも、寮費を払わずに。いつから払ってないのか知りませんが、少なくとも僕らが自治委員になってからは、ビタ一文も払ってないですよねぇ」

 椅子に座ってクルクル回転しながら、ネズミ男が言う。こいつは、本当にイラつかせるチビだ。相撲取りよりも、遥かに態度が悪いな。

「.......」

 野依は、相変わらず下を向いて無言のまま。

「既に学生でもない人が、しかも無料で学生寮に住んでいるなんて、本来、あってはならない事ですが、僕らの何世代も前の先輩方の代から続いている事だったので、ズルズルここまで引っ張って来ましたが...。もっと早く対処するべきでしたね。そこは深く反省します」

 杉山も、野依の前に正座した。二人は向かい合って正座する形になった。

 杉山は、背筋を伸ばして、まっすぐ野依を見つめる。野依は、相変わらず下を向いたままだ。

 やっと座ったか。そう、それでいいんだよ。まあ、そういう態度なら、話くらいは聞いてやってもいいな。

 野依は、そう評価しながらも、無言のままだ。

「そうそう。これまでの寮費をまとめて払えなんて言わねぇからさ、ハッキリ言って、出てって欲しいんだよ。何回も言ってるけど」

 身体を後ろに反らしながら相撲取りが言う。天井を見上げながらしゃべっている。天井に何があるというのか。またベッドが軋んでいる。野依は下を向いたまま、横目で相撲取りを眺める。

「そういうわけだから、悪く思わないでくださいねぇ。....って、聞いてます?」

 椅子の上で胡坐をかいて、天井を見上げながら、ネズミ男が言う。こいつらは、そんなに天井を見るのが面白いのか。それはそうと、このネズミ男は、ぶん殴ってやりたくなるほど態度が悪い。

「なあ、野依さん。あんた、毎日この部屋で何やってるのさ?」

 相撲取りも、ベッドの上で胡坐をかいた。ベッドが、ギギギギギと耳障りな音を立てた。


 ぼそりと、野依が呟いた。

「.....運動」

「は?何?」

 ネズミ男が、野依の方に顔を突き出した。

「...学生運動...」

 野依が、言い直した。

「なあ、あんた、学生じゃないだろ。それにイマドキ、そんなの意味あるのかよ?」

 相撲取りが、膝の上に肘を乗せながら言った。やはり、ベッドが苦しそうに軋んだ。このベッド、潰れるんじゃないか?それはそうと、意味あるのか、だと?神聖な学生運動が?何を言っている?

「ここにある、えーと、ガリ版てやつぅ?これを使って手書きのビラ刷って、寮の学生部屋に勝手に放り込むのが、学生運動なんですかねぇ」

 机の上のガリ版を顎で指して、ニヤニヤしながらネズミ男が言った。その顔を見ると殺意が沸いた。

「あなたの配るビラって、『日帝』だの『打倒!』だの勇ましい言葉のオンパレードですけど、うちの寮生は、多分、誰も読んでないですよ。すぐにゴミ箱へ直行ですよ。紙の無駄。環境にも優しくない。SDGsに反してますよ。第一、成田空港に反対って、どういう意味ですか?さっぱり意味わかんないんですけど」

 ガリ版の方を見ながら、杉山が言った。


 野依は、失望していた。最近の若者には、神聖なる革命活動の意義が理解されない。何故だ。

 必死に勉強して入った大学。田舎で育った純朴な自分には、見るもの全てが新鮮に感じられた。そんな時に聞いたアジ演説に、大いに感銘を受けたのだ。目から鱗が落ちる思いだった。ああ、なんと、自分は無知だった事か。何も知らずにヌクヌク生きて来た事か。   

 早速、学生運動に参加した。マルクスを熟読し、勉強会に参加し、ゲバ棒を振り回して機動隊とも戦った。希望に満ちた青春の日々だった。充実していた。いつまでもこんな毎日が続くと思っていた。


「野依さん?もしもし?あのー、聞いてます?」

 杉山は、野依の顔を下から覗き込みながら言った。野依は沈黙したまま目を逸らした。

「何か別の事考えてたでしょ?今、僕ら、あなたのために集まってるんですよ。もう少し真剣に考えてほしいんですけどぉ」

 今すぐゲバ棒を叩き込みたくなるようなニヤケ顔で、ネズミ男が毒づいた。

 真剣だと?冗談じゃない。自分は、いつだって真剣だ。野依は激しく心の中で思っていた。


 思えば、この学生寮に居た住民達も、かつては大半が自分の仲間だった。キラキラと輝いていた日々。

 しかし、そんな仲間達は、卒業と共に就職して去っていった。新しく学生運動を始めようとする新入生も、年々、減っていった。

 自分は減っていく仲間のまとめ役として、身を粉にして頑張っていた。そのため、可能な限り留年を繰り返し、それも限界になり学籍を抹消されても、この学生寮で活動を続けて来た。戦ってきたのだ。

 実家からの仕送りは、とっくに送られて来なくなった。両親は既に他界し、兄弟からも親戚からも縁を切られた。それでも、ずっと頑張って来た。

 こんなノンポリ学生ばかりの世の中になったのは、何故だ。何故だ。どいつもこいつも、資本家の犬ばかりだ。自分は、こんな世の中を作るために頑張って来たんじゃないんだ!

「...革命を成しとげる」

 ぼそりと野依は言った。

「は?」

 ハトが豆鉄砲食らったような顔の杉山。

「革命?」

 相撲取りの眼も、点になっている。

「ちょっと、ちょっとぉ」

 さらにニヤニヤ顔になる、ネズミ男。

「あの...。失礼ですけど、野依さんて、歳はいくつですか?」

 あきれたような声で、杉山が聞く。

「なあ、見た感じ、俺らの親よりも年上だよな?」

 相撲取りが言う。

「今ちょっとスマホで調べたけど、学生運動が盛んだったのが1968年から1970年。今から、50年以上前。その頃に学生だったんなら、70過ぎかなぁ」

 スマホを弄りながら、ネズミ男が言う。

「70代...」

 相撲取りが唸った。

 杉山が、溜息をつきながら言った。

「それって、大学の教授も定年退職してる年齢ですよね。だったら、もう年金もらってるでしょう?それで生活できるんじゃないですか?」

「なあ、杉山。年金てのは、先に払ってなきゃ、貰えないぞ」

 相撲取りが首を振りながら言う。

「それは、もちろん知ってる。...え!?野依さん、今まで払って来なかった?」

 驚いて声を上げる杉山。

「払ってたと思うの?逆に、なぜそう思ってたのか、聞きたいよぉ、杉山...」

 楽しそうにニヤニヤ笑うネズミ男。

「そうか...。年金は、もらってないんですか、野依さん。今までの生活費は、どうしてたんですか?この学生寮の寮費も光熱費も払ってなかったけど、食費は?どこからの収入だったんです?」

 真顔で杉山が尋ねる。

「...それは、カンパで...」

 低い声で、野依が呟く。それと両親が他界した時に、コッソリ振り込んでもらった遺産もあるが。

「生活費を出してくれる人が居るって事ですか?なら、その人達と一緒に生活できませんか?」

 杉山が言った。

「いや、杉山、そりゃ無理だろ。親戚でも家族でもないんだから。なあ」

 相撲取りが言った。

 こっちは賃金を稼ぐという世俗的な行為を放棄してきたのだ。かつては、大学の仲間達以外にも、我々の考えに賛同し、カンパを募ってくれていた者達が居た。しかし、その額も人数も徐々に減っていき、活動費どころか自分の生活費に充てるだけで、ギリギリなのだ。

 こっちは、ただ革命のために、人生を投げ出して頑張って来たのだ。今も頑張っているのだ。わずかな金額もケチるようになるとは、とんでもない恩知らずどもだ。世俗の垢に染められて、汚い大人になってしまったのだ。そうだ、大人は狡くて汚い。

 自分は革命家なのだ。額に汗して働くというプチブルジョア行為は、下々の連中のやる事だ。奴らは、野依のために金を払うのは、当然の義務だ。かつて共に戦った同志ならば、なおさらだ。

 とは言え、未だカンパを続けてくれる同志達でも、住処を提供してもらうのは難しいだろう。彼らも貧しい老人たちなのだ。資本主義の犠牲者だ。まったく、この国にはマトモなセーフティーネットも無いのか。今更ここを出て、どこに住めと言うのだ。

 そもそも実家の他は、この学生寮にしか住んだことのない野依だ。どうすればアパートが借りられるのか、全く知らない。学生運動に見切りをつけて収入を得るにしても、どんな仕事ができる?いつもビラを刷っているから、チラシの文章やガリ版の扱いには自信がある。しかし、昨今は「ワープロ」だか「マイコン」だかで書類を作成すると聞く。ガリ版の出番は無いのである。マイコンか。全く使えないな。

「この場合、生活保護が一番、現実的じゃないかなぁ。どうです、野依さん。明日、皆で一緒に市役所まで、受給の説明を聞きに行きませんかぁ?」

 ネズミ男は、相変わらずニヤニヤしている。この状況、何が楽しいのだ?

 何という侮辱か。若者達よ、君らは、権力の手先なのか?老人たちがカンパ出来なくなったら、君たちがカンパする番ではないのか?君たちが、毎日ヌクヌクと過ごしていられるのは、誰のおかげか分かっているのか!我々、活動家が頑張ってきたからなのだぞ!

「うーん、生活保護ね。確かに、それがいいかも」

 腕組みしながら、杉山が言う。

「それしかないだろう。なあ、明日、朝飯食ったら、皆で行くか。ちょうど俺、明日の1限目は講義ないんだよ」

 そう言いながら、相撲取りは立ち上がった。

「決まりだねぇ」

 ネズミ男も立ち上がった。

「日本って、良い国だよね」

 最後に、杉山も立ち上がった。

 何を言っているのか。こいつらは。俺の意見を全く聞かずに、話を終わらせてしまった。今、俺は革命を成し遂げると宣言したではないか。それについて何も意見を言わないのか?俺を哀れな老人だと思っているのか?...いや、彼らには、老人に見えているのかもしれない。確かに俺は、彼らよりも年長だ。しかし、心はいつも革命の炎が燃え盛っているのだ。そもそも、こいつら、年長者に対する礼儀が、全くなっとらん!

 言い返そうとして顔を上げたら、夜の窓ガラスに映った自分の顔が目に入った。

老人の顔だ。

 この部屋には鏡が無い。普段、鏡を見る習慣もない。久しぶりに自分の顔をじっくりと見た。

 短い髪の毛は、まばらで白い。目は窪み、頬は弛んでいる。前歯が二本抜けているが、保険証が無いので、治療もせず、そのままになっている。

これは...野依の顔だ。老人だ。まるで、玉手箱を開けたような気分だ。

 そうか。

 浦島太郎は、玉手箱を開けたから老人になったのではない。

 おそらく、自分が老人だと自覚したから老いたのだろう。

 竜宮城で長い長い時間を過ごす間に、失った年月の代償があまりに大きかった事に気付いたのだろう。

 そうだ。自分は、もう学生ではない。

 この学生寮を出たところで、何ができる?何もできない。何の技能も無い。もう、どこかで働く事も無理だろう。

 そんな当たり前の事に、今、気付いた。たった今、気付いた。衝撃で思考が停止した。


 三人の若者は、まだ何かしゃべっている。何の話だろうか。頭に全く入ってこない。

 人の気も知らずに。

 こいつらは、何ができる?今からなら、何でもできる。

 もう何もできない自分より、よほど恵まれているではないか。

 もう、どうでもいい。

 どこかから入ってきた蛾が、薄暗い蛍光灯の周りをパタパタと飛んでいる。

 白い蛾だ。

 昔を思い出す。初めて純白のヘルメットを被った日。身が引き締まる思いだった。

 そのヘルメットは、今も部屋の隅にある。かなり色褪せたが、それは自分の革命の歴史だ。

 話し合ってる三人を尻目に、野依は、ゆらりと立ち上がり、ヘルメットと棍棒を手に取った。

「そう...。この白いヘルメットを被って...。このゲバ棒を構えて...。僕は、戦士だった。いや、今も戦士だ!」

「ぷっ」

 野依の独白を聞いて、思わず、ネズミ男が噴き出した。

「笑うな!」

 バキッ!

 野依に棒でブン殴られ、ネズミ男は頭から血を流し倒れた。

「並河!」

 杉山が並河に駆け寄る。

「おい!野依さん!あんた、自分が何したか分かってるのか!」

 相撲取りは、野依に詰め寄る。瞬間、野依のゲバ棒スイング。

 バキッ!

 棒で顔面を殴られ、吹っ飛ぶ相撲取り。肥満体でも、これは堪らない。

「うおおおおおお!!!!」

 雄叫びを上げ、ゲバ棒を滅茶苦茶に振り回す野依。

 部屋の中の物が、次々と破壊される。

「ちょ、危ない!ちょっと、野依さん」

 杉山は、顔面蒼白になりながら、部屋の出口に向かう。

「逃がすか!!!」

 バキッ!バキッ!バキッ!

 何度も棒を打ち下ろされて、血まみれになる杉山。

「うおおおおお!!!革命! 破壊! 打倒! 権力!!! うおおおおお!!!!

誰が出ていくかあぁぁ!勝ち取る!勝ち取る!正当な権利だ!取り壊しなんて止めてやるぅ!俺は革命家だあぁぁ!!!」


 叫びながら、野依は、血まみれの棒を振り回し続ける。天井の蛍光灯も叩き割られたが、窓からの月明かりは、返り血で真っ赤になった老人を照らしていた。老革命家の絶叫は、いつまでも夜空に響き渡っていた。


・・・・・・


「野依さん?野依さん、聞いてます?」

 杉山は野依の顔を覗き込んで尋ねる。

「どうしたの、野依さん?下向いてぶつぶつ言ってるけど」

 と、相撲取り。

「野依さん、何ニヤニヤしてるの?」

 ネズミ男が訊く。

「はっ!」

 野依は、我に返った。

「野依さん、白昼夢みてた?いや、今は夜中か。白昼夢とは言わないか。とりあえず、ヨダレ拭いて」

 真顔になったネズミ男が言った。

「とにかく、伝えましたからね。明日の朝、また来ます。みんなで一緒に市役所に行きましょう。僕らも出来る限りサポートしますから」

 杉山が締めくくった。


 部屋を出ていく3人の学生。

 スリッパのペタペタという足音が遠ざかる。

 野依は、部屋の真ん中で正座したままだ。

 学生寮の床は固くて冷たい。薄いタイル張りの床に、安っぽいカーペットが敷いてあるだけ。

 そういえば、足がしびれたな。ぼんやり思った。

 もう、寝るとするか。


 そして、寮は静けさを取り戻した。

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革命家は死なず 桜梨 @sabataro

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