第19話

「大体の所は了解したというか―――」

 未亜のマンションに入った岩田が、コーヒー片手に言った。

「アレを見れば、大体何が起きたかはわかる」

「はぁ……」

「謎の血痕の件、お前が何かしでかしたんだろう。そう聞きに来たんだが、聞くまでもなかったな」

「俺を任意同行でもしますか?」

「現役の近衛騎士、しかも元お仲間を?」

 岩田はジロリと南雲を睨むようにして言った。

「そういう冗談は好まん」

「そうでしたね」

「いずれにせよ、ああいうのが来たということは、何かを狙ってのことだ」

「……」

「率直に聞く」

 岩田はコーヒーカップを机の上に置いた。

「敵の狙いはお前か?」

「狙いがはっきりしません」

「……」

 岩田と理沙が目配せしたのに、南雲は気づかない。

「はっきり言って、この事件は裏がかなり深いです。そのうち、いえ、もう……俺達では手に負えないことに」

「南雲」

「はい?」

「容疑者隠匿の罪は、決して軽くないぞ?」

 岩田がポケットから取り出したのは、数枚の写真だ。

「隣のマンションの防犯カメラに撮られていた」

 そこに映し出されるのは、並んで歩く一組の男女。

 村上速人と霧島那由他の二人。

「この二人が乗ったエレベーターがこの階へ。つまり、この部屋に来たことは調べが付いている」

「さすがですね」

 内心で南雲は舌を巻いていた。

 捜査に関しては敏腕で知られたこの二人の腕は、決して鈍ってはいない。

「あいつらが誰で、自分が何をしているのかわかっているんだろうな」

「―――わかってますよ」

「今、あいつらはどこにいる?」

「もう、逃亡しました。今、どこにいるか全く見当も」

「―――聞いただけだ」

 岩田はタバコに火をつけようとして止めた。

「お嬢ちゃん」

「信楽未亜です」

「ん?気に入らなかったか?南雲さん所の若奥様とでも?」

「からかわないでください!」

 キャビネットから灰皿を出しながら、未亜が言った。

「ここに来た目的は、誘導尋問のためですか?」

「ああ。はっきりいえばそうだ」

 岩田はライターでタバコに火をつけながら言った。

「殺人事件のヤマのホシを、何故お前等がかくまっていたのか。それが不思議だったんだ」

「もしかして、俺を逮捕するつもりだったのでは?」

「それも選択肢の内にはあった」

 岩田は悪びれる様子もなく言った。

「だが―――あんなモノに追われているとなれば、警察の手に余る」

「見逃してくれると?」

「容疑者には無実を証明しろとだけ伝えろ」

「―――つまり」

 未亜が呆れたように言った。

「警察では保護することさえ出来ません。自力でなんとかして、事が一段落した暁には、是非、無実の証明となるものをご用意の上、警察に出頭してくださいってことですか?」

「上手いな」

 岩田は言った。

「南雲、お前の嫁はたいしたもんだ」

「警視正!」

「俺は警部だ。―――部下を死なせた無能な、そうなっている」

「あんたはスケープゴートにされただけだ!」

「それが組織というものさ」

 達観したような岩田に見切りをつけ、助けを求めるように理沙を見た南雲だが、頼みの理沙もまた、悲しそうな顔で俯いていた。

「あのなぁ。南雲」

 岩田はぽつりと言った。

「この世の中、責任をとらせる者ととらされる者と二通りだ。俺達だけじゃない。今、こうやっている時だって、世界のどこかで、何かの責任をとらされている気の毒な連中はいるのさ」

 岩田のその言葉は、あながち外れてはいなかった。


 その頃、宮城では、近衛騎士団の幹部達が緊急招集されていた。

 「宮殿に侵入者を許したこの不手際、申し開きの余地はなく」

 居並ぶ近衛幹部の先頭で樟葉がうなだれながら、そう上奏する。

 居並ぶ幹部全員が床に跪き、刀剣を腰から外し、その前に置く。

 

 裁可を仰ぐ姿勢。

 自らの罪を認める姿勢。

 命を預ける姿勢。

 

 慚愧。

 無念。

 怒り。

 

 これらが心中でないまぜになった樟葉は震える声で続ける。

 

「かの三宮事件に続き、万乗の君を危機にさらした我らが罪、如何様にも……しかれども」

 

 皇室近衛騎士団。

 極東最強の戦闘能力を誇る騎士団。


 それは何のために存在するか?


 自らの飼い主である天皇を護るため。


 そのための存在。


 自らを飼えるたった一人のための存在。


 彼らは猫でなく、狗だ。


 近衛騎士が自らを「天皇の狗」、「壬生狼」と呼ぶのはそのため。


 それが近衛騎士の誇り。


 その誇るべき地位にいながら、樟葉達は主君の身を危険にさらした。


 同じ宮城にいながら、主君の安全を確保し、敵の攻撃を阻止したのが、居合わせた宮中女官団の女官と、主君の飼い猫では、その身が存在する意味はない。


「どうか、責は、わが首一つにて」

 樟葉はそう言って深々と頭を下げる。


「……死んで、どうするのですか?饗庭中将」

 玉座に座る日菜子が冷たく言う。

 

「……はっ?」

 思わず頭を上げかけた樟葉には、その意味がわからない。


「死んでその責務から逃れるのは、誰でも出来ます。近衛に身を置く者が、それではあまりにも軽はずみと思います。―――これも戦です。戦において犯した失態を死んで逃れることを、私は許しません」


 居並ぶ一同を睥睨する日菜子。

 とても15歳の女の子とは思えない威厳は、室内の空気を引き絞った弦のように張りつめさせる。

 

「戦人(いくさびと)の本分は失敗の折にこそみえます。腹を切って責任を逃れるか……死線を超える生命力をもって失敗を上回る武功を成すか……違いますか?」

 

「殿下……」

 顔を上げた樟葉に、日菜子は言った。


「生きて職を尽くし、功をあげなさい」


「はっ!」

「ははっ!!」

 樟葉達が一斉にそれに答える。


「しかし」

 日菜子は退室する足を止め、冷たく自らの飼犬達を見た。


「この宮殿を侵し、皇室に刃を向けた者の末路に例外があってはなりません。よろしいですね?」



(成る程ね)

 黒いドレスをきちんと着こなす日菜子を見つめながら、水瀬は思った。

(お召し替えって、このためだったのか)

 水瀬の前で日菜子の美しい黒髪が揺れ、その度に水瀬の鼻腔を甘い日菜子の香りが満たす。

(簀巻きにされたり、橘さんに殺されかかったり、散々な一日だと思っていたけど……うん。最後がこれなら、今日はいい日だね)

 思わず緩む口元を、水瀬はそっと引き締めた。



 一方、

「大姐さん」

 謁見の間から下がった樟葉を幹部達が囲む。

「……殿下のお慈悲が下った。そういうことだ」

 ほうっ。と、樟葉の口からため息が出る。

「よかったですな」

 樟葉よりベテランの幹部からそんな言葉が出る。

「三宮の時は団長以下」

「言うな」

 樟葉は、その続きが聞きたくなかった。

 あの時、腹を切ったのは樟葉の祖父だ。

 一族の汚点とさえ言える失態。

 それをこんな所で聞きたいとは思わない。

「ご無礼を」

 いいかけた幹部は口を閉ざしたが、

「しかし、大姐さん」

 別な幹部が不思議そうな顔で樟葉に訊ねた。

「水瀬ん所の坊が、何故玉座の脇へ?」

「あいつは日菜子殿下直属だし、あいつ一人が、唯一事前に異変を感知した」

 樟葉は面白くないという顔で言った。

「対応が遅れたのは、テレポート防衛システムに邪魔されたせいで、直に殿下の元へ駆けつけられなかったからだ。つまり、ここ(宮城)でなければ、敵を止めていたのは間違いなくあいつだ」

「……おや?」

 その幹部は、一つ思い当たることがあった。

「ということは、坊がさっさと我々に通報していれば、我々はあそこで頭を下げずにいられたのでは?」

「そこまで単純ではないが……とにかく、敵の手かがりを探し出せ!涼宮!」

 水瀬専属CPO(戦術士官)という、気の毒な立場の涼宮中尉が敬礼する。

「はいっ!」

「明日でいい。水瀬を私の所へ連れてこい。復唱はいらん」

「はいっ!」

「で?坊をどうするつもりで?」

「あいつに聞くのが一番手っ取り早い気がする。ついでに連絡義務違反で殴る」

「なら、すぐにでも」

「やめておけ」

 謁見の間に戻ろうとした幹部を樟葉は止めた。

「下手に行けば手打ちにされるぞ。それより、ルシフェルの回収を急げ。許可があるまで独房入りだ」

「は?坊が、何故?」

 樟葉は納得できないという顔で言った。

「日菜子殿下が手放しはしないよ―――下手すれば一晩」



「功績とは言い難い不始末ですね」

 場所は控えの間。

 日菜子の入る時間を見計らっていたのだろう、テーブルの上には暖かい湯気をあげるティーカップが2セット、用意してあった。

 もう10時近くだ。

 早く殿下にお休みいただかなければと思う水瀬は、

「申し訳ありません」

 深々と頭を下げる。

 室内にいるのは水瀬と日菜子だけ。

 栗須はついさっき、一礼の後ドアから姿を消した。

 水瀬が気になるのは、その時、

 カチャ

 確かに外から鍵がかけられたこと。

 その意図が掴めない。

 それが気がかりだった。


「そうです。反省なさい」

 前を歩いていた日菜子がくるりと身を翻した。

「はい」

「反省してますか?」

 日菜子は、のぞき込むようにして水瀬の顔を見つめる。

 水瀬の視界一杯に日菜子の顔が入り、その吐息が肌をくすぐる。

「し、してます」

 赤くなる顔を悟られまいとしながら、水瀬はそう答えるのが精一杯だ。

「よろしい」

 クスッ。とイタズラっぽく笑う日菜子が、水瀬に言う。

「そこに座りなさい。立ち続けで疲れたでしょう?」

「いえ、お構いなく」

「お茶もありますよ?」

「いえ」

「……私が誘っているのですが?」

 誘いを続けて断られた日菜子は、少しムッとした顔で言った。

「あ……は、はい」

 水瀬はそそくさと肘掛けのない椅子に座ってから気づいた。

「あの……この椅子って、皇族専用では?」

「そうですよ?」

 慌てて立ち上がろうとする水瀬の肩を日菜子ががっしりと掴む。

「ですから、私が座るんです」

「えっ?」

 何を?そう聞こうとした水瀬の膝の上に日菜子が腰を下ろした。

 水瀬の太股に日菜子の柔らかい感触が甘い電撃のように走った。

「ほら。これで問題ありません」

「僕は人間椅子ですか?」

「私は、悪くないです」

 クスクス笑う日菜子は、水瀬にしなだれかかって、その胸に顔を埋めた。

「……」

 水瀬は斬首覚悟でその手を日菜子の華奢な腰に回した。

 ピクンッ。

 腰に走った感触に、日菜子が少しだけ反応する。

 それだけで日菜子が愛おしくてならない。

 風呂上がりなのだろう、シャンプーと石けんの香り、そして日菜子のたおやかな肉体の柔らかさが水瀬の判断能力をとろけさせる。

 今、水瀬の世界に存在するのは、日菜子だけ。

 それが至高の歓喜となって水瀬を捉えて放さない。

「ふふっ」

 日菜子が水瀬の耳元で甘い声をささやいた。

「こうして二人っきりなんて、ホワイトデー以来ですね」

「あの桜の花、きれいでしたね」

「また、一緒に見に行きたいです」

 日菜子の吐息が首筋にかかり、くすぐったいが、やめて欲しくない。

 もっと、話して欲しい。

 そう願う水瀬は腰に回した手に知らずと力を込めてしまう。

 それがイヤなのか、日菜子は水瀬の膝の上で体を何度か動かした。

「……水瀬?」

「はい」

「何か、お尻に当たるのですが、何か持っています?」

「い、いろいろと……」

「そうですか」

「そうです」

 水瀬は赤面しながらそれだけを言った。

 欲望に正直すぎる体が恨めしい。

「備えは怠りなし……ですか?」

「そう、思ってください」

「?……とにかく、聞かせていただきましょう」

「はい?」

「何があったのですか?」

「……不明、では答えになりませんね?―――んっ!?」

 水瀬は、一瞬、我が身に何が起きたかわからなかった。

 水瀬がわかることは、せいぜい、日菜子の顔が、これ以上ないくらい近くに見えること。

 そして、自分の唇が塞がれたこと。

 その程度……いや、それだけで十分だ。

「うそをついた罰です」

 クスクス笑う日菜子が言った。

「嘘をつく度にこうなります」

 笑いながらも頬を赤らめ、目を潤ませる日菜子を、

(抱きしめたい)

 そんな欲望を必死に押さえこむのに、人生最大級の内面的激戦を繰り広げる水瀬は思った。

 もったいないなんてもんじゃない。

 これは罰じゃなくて、ご褒美だ、と。


「ちなみに正解すると?」

「同じです」

 水瀬の期待は、あっさりとかわされた。

「……もっと、いいことしていただけるとか、そういうのはないんですか?」

「し、してほしいんですか?」

「え、えっと……」

 そう面と向かって聞き返されると、水瀬もどう答えていいかわからない。

「ど、どうなんでしょうね……」

「わ、私も」

 日菜子も恥ずかしげに答えた。

「どうしていいか、わかりませんし、もっといいことって、何ですか?だ、第一」

 その目は少しだけ恨めしそうな光を放つ。

「こ、こういうのは、殿方がリードするものだと聞きましたが?」

「……あ、僕ですか?」

「そうです。当然です!」

「でも」

 水瀬は困ったという顔で言った。

「罰とか正解とか決めるのは殿下ですから、リードのしようが」

「あっ」

 そう言われると、日菜子も返す言葉がない。

「そ、そうですよね?」

「ちなみに」

 水瀬は少しだけ、期待を込めて言った。

「今のは、正解ですか?」

「……」

 虚をつかれた日菜子は、目をぱちくりさせた後、微笑みながら言った。

「はい♪」


 南雲達の前に現れた村上と霧島のカップル。

 その周囲で起きる、南雲を巻き込んだ不可思議な襲撃事件。

 獄族が絡んでいるのは、現場証拠から間違いない。

 二人の命を狙う人物と、女官達が確認した、日菜子襲撃者の特徴が合致している。

「その二人と南雲大尉、そして私を獄族が狙っていていると?」

「正解です」

 互いの質問に正解してもしなくても、とにかく問いに答えさえすればキス。

 水瀬と日菜子の間で世にも不思議なご褒美合戦が繰り広げられていた。

「んっ……ハァッ……」

 何度目かわからないキス。

 その度に、日菜子は水瀬が愛おしくなってくる。

 にじまないリップの開発者に勲章くらい送りたい気分で、水瀬と口づけを交わす日菜子は、吐息が熱くうわずってくるのを押さえられない。


 水瀬は続ける。

 霧島那由他の祖父が、孫娘と引き替えに、何かを何者かと取引した。

 しかし、その契約が果たされないままに霧島は殺された。

 霧島は死して尚、契約の遂行を求められ、獄族の仲間にされたのだろうと。


「つまり」

 日菜子は首を傾げた途端、

「んっ!?」

 水瀬に口を塞がれた。

 長く、甘く、優しい口づけ。

 体が芯からしびれ、頭がぼうっとする。

「……はぁ」

 唇を離されても残るしびれるような心地よさに身を預けた後、ようやくに日菜子は言った。

「ず、ずるいです」

「え?」

「私は、まだ何も言っていません。る、ルール違反です」

「ご、ごめんなさい。……その」

 水瀬が赤面しながら言った。

「殿下の仕草があんまりに可愛くて、つい」

「……」

 日菜子は、水瀬の胸に顔を埋めながら、

「つ、つまり」

 少しだけ強い調子で言った。

 そうでもしなければ、もう理性が保たない。


「それはおかしい。そういいたいのです」

「えっ?」


 トクトクトクトク

 日菜子の耳に不思議な音がした。

 時計のような規則正しい音。

 少し早いが、どこかで聞いたような懐かしい、不思議と安心する音。

(あっ……)

 日菜子はその音を聞きながら、目を閉じた。

 水瀬の心臓の音だった。


「どういうことですか?」

「三人が狙われるのは、何となくでもわかります」

「はい」

「それでどうして、私が狙われるのですか?私とそのお二人とは全くの無関係でしょう?もし関係があったとしても、その二人を手にかけるのをやめ、この宮城へリスクを犯してまで侵入し、私を狙う。そこが納得できません」

「確かに」

 そう。日菜子のいう通りだ。

 日菜子を狙うなら、公務で外出中でも狙えばいい。

 それなのに、わざわざ宮城へ侵入してまで殺そうとする。

 普通のことではない。

 本来の狙いを放置して、日菜子をそこまでして狙う理由は?

 それが、わからない。

「行動が行き当たりばったりな気がするのです」

「お心当たりは?」

「私に覚えがなくても、向こうにはあるんでしょうけど」

「そんな」

「私は皇女、次期皇位継承権第一位、東宮……そんな身です。だから、私の命を狙う者なんて腐るほどいるのですよ?」

「……」

 忘れていた。

 目の前の女の子を、完全に一人の女の子としてしか見られなっていた水瀬は、自らの軽率さに、内心で舌打ちした。

「殿下と霧島那由他達では、どうあってもつながるとは思えませんし……それとも、僕は、あの二人にこだわりすぎでしょうか?」

「そうですね―――んっ」

 上を向いた日菜子の顎にそっと手をやった水瀬が塞ぐ。

「でもね?―――悠理」

「はい?」

「……はじめて名前で呼んだのですから、もう少し感情をこめて下さいな」

 不満げに言われて気づいた。

 言われてみればそうだ。

 今まで、日菜子からは「水瀬」と呼ばれていた。

 悠理。

 愛する異性として、そう呼ぶのは祷子とナターシャだけ。

 綾乃ですら呼びはしない。


 そこに水瀬は戸惑った。

 一人の女の子として扱って欲しいと願う日菜子の心はわかるし、水瀬もそうしたい。

 だが―――

 絶対に忘れてはならないこと。

 日菜子は、水瀬にとって主君である。

 その絶対の不文律が水瀬をどこかで止めていた。

「で、でも」

「もうっ!ここまでしたんですから!」

 じれたように日菜子は水瀬に言った。

 それは、日菜子が望んでも言えなかったこと。出来なかったこと。

 私を、一人の女の子として扱って欲しい。

 その一線を、日菜子は恋する一人の女の子として、自ら切り崩した。

 だから、言った。


「せめて二人っきりの時は、私がただの女の子だと認めてくださる間だけは、日菜子と呼んでください」


「で」

「日菜子です」


 キュッ。と水瀬の服を掴む手。

 すがるような目。


 水瀬には、全てが狂おしいほど愛おしくてならない。

 腰に回した手に力を込め、水瀬は日菜子を抱きしめながら言った。

「日菜子」

「はっ、はい!」

 日菜子の瞳から涙がこぼれ落ちた。


 その直後、二人どちらともなく交わされた口づけは、今までで一番激しく、長く、そして歓喜を包んでいた。


 

「話がズレましたね」

 唇を離した後、バツが悪そうに日菜子が笑い、つられて水瀬も微笑んだ。

「とにかく、霧島那由他達の身辺をもう一度洗ってみます」

「いえ。それは福井・南雲両名に任せなさい。もし必要なら、警察の……えっと、あなたが利用している女性キャリア」

「理沙さんですか?」

「そうです。彼女達に任せなさい。警察も近衛経由で動員をかけます」

「できますか?」

「あらゆる事態に備え、警視庁には宮内省から数多くのOBを送り込んでいます」

 さすが。という言葉を水瀬は飲み込んだ。

「内助の功です♪」

「ははっ……」

 もういい加減しろといいたくなる二人の口づけは、懲りずに続く。

「それより、あなたには調べて欲しい人がいます」

「誰です?」

「斬れ、とはいいません。本当はいいたいんですけど」

「?そんなに厄介な相手ですか?」

「私にとっては」

 誰だろう。

 水瀬は頭の中で何人もの皇室敵対者を思い浮かべるが、日菜子自らが口に出すほどの存在は思いつかない。

 ほとんどは、かの三宮事件の際の大量粛正で消されているはずだ。

 思いつかない。

 そんな悠理の胸に頬をすり寄せながら、日菜子は言った。

「むしろ、私より悠理にとっては、もっとですね?」

「でん……じゃない、日菜子より僕にとって?」

「ええ」

 水瀬の心臓の音を楽しむかのように水瀬の胸に顔を埋める日菜子が言った。

「これは女のカンです」

「かまいません。日菜子が必要なら……斬ります」

「ふふっ……覚悟は嬉しく思います」

「で?」

「……」

 日菜子は、しばしの沈黙の後、言った。


「瀬戸綾乃―――ここ数日中の、あの子の行動の全てを調べなさい。分単位、秒単位で」


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