第16話 はなれる


 昔、小学生になる前のこと。

 母親と二人で旅行に行ったことがある。

 電車やバスを乗り継いで、地名は覚えていないけど、どこかの山の奥の小さな温泉宿に泊まったのだ。

 旅行なんて滅多にできるものじゃないんだから、もっと色々な景色を覚えておけばよかったと今なら思うけど、当時の私は知らない場所にいるのが怖くて、早く帰りたいと思いながら、ずっと母親の側から離れなかった。

 だから覚えているのは母親のことについて。

 その時履いていたジーンスの色やシワの感じとか、いつもつけていた指輪を外した左手のこととか、そういうの。


「お母さんね、お父さんと離れることにしたの」


 小部屋の広縁ひろえんにある椅子に座って、窓から夜の景色を眺めながら母はそう言った。膝の上に私を乗せて、ぽつり、とした小さな声で。


 私はなにも言わなかった。


 離婚、という単語は知らなかったけど、その意味はわかったからだ。

 母の左頬には赤紫のあざが残っていた。

 直接手を上げられたのはその時が初めてのことだった(私が見ている範囲では)はずだけど、父と母が一緒にいることはもう限界だということは、普段の様子から、幼い私にもわかっていた。

 

「ごめんね」


 そう言って謝ってくるので、


「だいじょうぶ」


 と私は答えた。

 母は少しだけ笑って、


「圭子は本当に手のかからない、いい子ね」


 と言った。

 その表情がなぜだか寂しそうに見えたのを、私は今でも覚えている。

 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る