第9話 へんだね


 手の中にある、ずしりとした白い物体を眺める。

 白くて、つぶつぶしていて、木みたいで、野菜っていうのは改めて見てみると、本当に不思議な形をしている。なにがどうなってこんな形に進化することを選んだのだろう、こいつは。


「……」


 カリフラワーって、そういえばほとんど使ったことのない食材だ、と気がついて、今の時代は便利だよなあ、としみじみ思う。ちょっとネットで調べればレシピなんていくらでも出てくるもの。

 ジャガイモと一緒にポテトサラダにしてもいいし、そこにツナを混ぜたりしてもいい。ジャガイモの代わりにアボカドを使うレシピなんてものもある。キノコとバターとニンニクで炒めてもいいし、ピクルスにするなんて方法もあるらしい。


「……ん」


 と、そんな風に私がカリフラワーとにらみ合いをしていると、何やら視線を感じる。

 見ると、鎌倉さんが真剣な表情でこちらを眺めていた。

 キッチンの隅にある椅子に座って、その肘掛けに頬杖をついて、なんか、こう、じいっと見てくる。

 気づいた私の目線と、思ったよりも鋭い鎌倉さんのそれがぴったり合ってしまって、でも向こうが全然逸らそうとしないので、怯んだ私は逃げるようにまな板の前に向きなおった。


「ど、どうしたの?」

「なにが?」

「いやなんか、じっと見てくるから。暇なら手伝ってよ」

「いやあ、夜野ちゃんの手際が良すぎて、手伝う隙がないなって」

「そんな大げさな」

「大げさじゃないよ。夜野ちゃん、料理が好きなんだねえ」

「……」


 彼女にしみじみとそう言われて、はた、と私の手が止まる。

 好き……なんだろうか。私は、料理が。

 だってこんな風にキッチンに立って料理をするなんて、本当に久しぶりのことだ。具体的に言えば、小学六年生のとき以来。

 母親とのことがあってから、私のなかで料理というものが何となくタブーになってしまっていたけど、本当に好きなら、別に一人でも気にせず料理をするんじゃないのかな。


「……」


 でも、こうして久しぶりにキッチンに立ってみて、ブランクがあるにも関わらず案外すらすらと動く自分の手元を見て、料理をすること自体には特になんの抵抗も感じていない自分に気がつく。

 場所も相手も違うからだろうか。そもそも鎌倉さんの家で料理をする、というこの提案だって私から持ちかけたんだし。


「……そう見える?」

「なんか生き生きしてるよ。楽しそう」

「……」

 

 そうなんだろうか。

 でも、鎌倉さんがそう言うならそうなのかもしれない。

 確かに、こんな風にカリフラワーについてあれこれ思案している時間は新鮮だし、このやたらと切れ味のいい包丁でジャガイモの皮をすらすらと剥いている感触は爽快だ。これをレンジでチンしている間に、こっちの野菜の皮剥きをして下味をつけて、みたいな計画を立てて、それがうまくはまれば、よし、と思う。


 そんな私の様子を、楽しそう、って言われたら――そうなのかもしれない。


「……うーん」

「ね、ねえ、夜野ちゃん」

「ん?」

「えっとね……ちょっとお願いがあるんだけどさ」

「なに?」


 お願い、と言われて目線を戻してみると、鎌倉さんはさっきまでの真剣な目線を伏せて、なんだか話しにくそうにしている。

 頬杖も解いて、両手の指を身体の前で合わせて、その様子を言葉に表すとしたら、なんかもじもじしている、って感じ。

 そんな彼女の様子をどこかで見たことがあるような、と思って。

 ああ、私に話しかけてきたときか、と思い出す。


「どうしたの?」

「その、もしよければなんだけど、あのさ、エプロンとか、着てみない?」

「……エプロン?」

「ほ、ほら、制服汚しちゃったら大変じゃん?そういうあれだから、全然特にまったく深い意味はないんだけどさ」

「別にいいけど」


 何を言い出すかと思えば。


「……その『いいけど』は、『別に着ても構わない』っていう意味の、『いいけど』?」

「そうだね、せっかく貸してもらえるなら」

「よし」

「……よし?」

「あ、いや、なんでもない。じゃあ取ってくるね」


 そう言うと、鎌倉さんはキッチンの扉を開いて、そそくさと出ていった。

 その頭上をぱあっ、と明るくして、嬉しそう、といった様子で。

 一体なんだというのか。

 私がエプロンをつけたらなにかいいことでもあるんだろうか。


「おまたせー」


 ほんの三十秒も経たずに舞い戻ってきた鎌倉さんの手には、宣言通りにエプロンが握られている。焦げ茶色の生地に、ピンク色の花のワンポイントが刺繍されているという、ちょっと洒落たデザイン。新品同然で、ほとんど使われた形跡もない。

 手渡されて着てみると、ちょうどいいサイズだった。

 別に自分でできるのに、鎌倉さんはわざわざ後ろに回って背中のリボンを結んでくれる。

「ありがとう」、と一応お礼を言う。


「うん、やっぱりよく似合う」

「そうかな」

「そうだよ、とっても普通で、いい感じ」

「……それって誉めてる?」

「すっごい誉めてる」


 見て、と鎌倉さんはキッチンを指差す。


「ここさ、他の部屋に比べて普通でしょ?」

「確かに」


 それはここに入ったときに思ったことだ。

 わざわざリビングと別の部屋になるように扉で仕切られたこのキッチンは、玄関やリビングの異文化ぶりと比べて、至って普通の部屋だった。

 中の設備は整っている――IHのコンロは三口もあるし、収納は多いし、冷蔵庫は大きいし、食洗機なんてものもある――けど、なんていうか、特別なこだわりを感じない。

 わざわざ燭台の形を模した出力の小さなライトを設置してみたり、バラの装飾を散りばめてみたり、座りにくそうなへんてこ椅子を置いてみたり、幻想的な光を上から降らせてみたり――そういう生活よりも世界観のほうを重視したような工夫がなく、焦げ茶色の床も白い壁も、この部屋では普通の床と壁だ。


 至って普通のキッチンだ。


「だからお気に入りの場所だったんだよね、昔から」

 

  鎌倉さんはそう続ける。


「ね、うちの母親さ、今は別の家で暮らしてるんだけどさ、なんでだと思う?」

「……なんでって、それは」


 答えにくいことを訊いてくる。

 向こうから言ってくれないかな、と思ってみても、向こうも黙ったままなので観念する。


「その、別居とか、離婚とか、そういう家庭の事情……ってやつじゃないの」

「ぶぶー、違います」


 そんな理由でなにかを決める人じゃないんだよ――鎌倉さんは苦笑混じりの口調で言う。


「家庭というより、個人の事情かな」

「個人?」

「うん、あのね、『』、んだって」

「……え?」

「この家に、んだって。だから今はもっと田舎にある空き家を買い取って、そこをリフォームして住むんだって。ここを建てるときにちょっと凝りすぎちゃったから、次はもっと分かりやすい王道のコンセプトで、落ち着ける空間を造りたいんだとか」

「……それは」

「へんでしょ?」

「へんだね」


 私が同意すると、鎌倉さんはなぜか嬉しそうに「そう、へんなんだよ」、と繰り返した。


「とにかく『家庭』、とか『母親』、とは無縁の人でさ。家事とか育児も人任せだったし。一緒にこの家に住んでたときでも、直接話したことなんて数えるぐらいしかないし、それも私にはわからない建築の話だし。いまだにあの人が私にとってのなんなのか、よくわかってないんだよね」

「……」

「だからさ、直接訊いてみたことがあるんだよ」

「……なにを?」

「『なんで私を産んだのか』ってことを」

「……」

「だって、そうじゃん。そんなに私と関わりたくないならさ、最初から産まなければいいだけの話だし。別に憎んでるとかじゃなくてさ、純粋に疑問に思ったんだよね。だから訊いてみたの。私が中学生のときだったかな、あの人がこの家を出ていくときに、直接」

「……」

「そしたらあの人、なんて言ったと思う?」

「……わかんない」

「『義務だから』って」

「……」


 その時ちょうど鍋が吹き溢れそうになったので、慌ててコンロのスイッチを切った。

 鎌倉さんは苦笑いを浮かべている。彼女の言う通り、その表情からは「憎しみ」とか「悲しみ」とかそういう感情は読み取れない。

 ただ、やっぱりその笑顔は歪んで見えた。


「……義務って?」

「『女性として生まれて、経済的な余裕もある以上、』、って言って出てったの」

「……」

「正直だよねえ。そんなの誤魔化せばいいのにさ……まあ、あの人にとってはそれが当たり前のことで、誤魔化す理由もなかったんだろうけど」

「……」

「ね、へんでしょ?」

「へんだね」


 私が同意すると、鎌倉さんはまた嬉しそうに「そうなんだよ」、と言った。


「……でもさ、私、その答えを聞いてなんか妙に納得しちゃってさ」

「納得?」

「うん、『なんだ、最初から私にお母さんなんていなかったんだ』、って。なんか妙に気持ちが軽くなっちゃって、気持ち悪かったな」

「……あの、ちなみに、お父さんは?」

「……母親以上に話したことがない。ほとんど姿も見ないし」

「……そう」


 じゃあ結局、現状鎌倉さんはこの家で独り暮らしをしているってことか。

 うちって基本的に個人主義だから――という言葉が思い出される。

 個人主義にしたって程があると思うけど、まあ、家庭の形はそれぞれで、外から見ただけでは計り知ることのできない事情をその内に抱えているもんだ、っていうことは、私にはよく分かってる。

 普通、というものに憧れる彼女の気持ちも、残念ながら少し分かる。

 

「でもさ、私は別に不幸、って訳じゃないんだよ。経済的には何一つ不自由もないし。そんなのむしろ恵まれてると思うし」


 だから、なにもかも望むのは贅沢なんだよね――

 そんな風に、まるで言い聞かせるように話す鎌倉さんの様子を見る。


「……お母さん、いなかったんだ?」

「……いなかったね。でもさ、よく考えたら、それってやっぱりへんなんだよね。別に死に別れたってわけでもないし、離婚したとかそういう話でもないのにさ」

「でも、んでしょ?」

ねえ」

「……それって、へんだね」

「……へんだよ」

「……ふふ」


 不謹慎だと思うけど、私は笑ってしまった。

 しかし鎌倉さんも笑っている。なんだか嬉しそうにしている。

 へん、と言われて喜ぶなんて、それこそ変な話だと思うけど。

 今の彼女の笑顔は、歪んでいない、本当の笑顔だということはわかった。


「まあでも、嫌なことばっかり、ってわけじゃないけどね」

「そう?」

「そうだよ、ほら……エプロン似合ってるし」

「……ん?」

「な、なんでもない」


 そう言って鎌倉さんはそっぽを向いてしまう。

 私は「なんの話?」、と追求しようとして、やめた。

 炊飯器が電子音を立てて、私たちに炊飯完了のお知らせを告げてきた。

 



 





















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