チェッカーマン

朝比奈 志門

第1話

ウェブ小説には、「テンプレ」と呼ばれる作品が無数に存在する。

なぜか。

ひとえにそれが読者に求められるからだ。


どこかで見たような世界観、どこかで見たようなキャラクター、どこかで見たようなツカミ、どこかで見たような展開——。


そういう「いかに多く数字を稼ぐか」に特化した作品というのは、うんざりするほどある。

確かに「テンプレ」というのはシナリオ学上優れているところもあり、下手な展開で綴られるより安心感はある。

だが、そればかりがランキングに載るというのはコンテンツとしてなんとも味気がない。

葛藤の末、とってつけたようなオリジナリティが求められるようになってきている気がしなくもないが——。


とにかく、「何が効率的に数字を取れるか」という法則が可視化されることで、創作者の脳内は大きく変わってしまったと思う。


確認する人《チェッカーマン》の喪失、すなわち「読者としての自分」の喪失である。

難しいことは分からず、ただぼんやりと作品を眺め、「面白い」か「面白くない」かのみを判断する読者としての自分。

もちろんこういった客観性というのは完全なゼロにはならず、どう足掻いても無意識下には存在するのだろうが、

作品を書けば書くほど、経験を積めば積むほど、その存在感は薄くなるように感じる。


筆者は売れた作品に対してもしばしば「小手先で書いたような作品だな」「無個性な作品だな」「自分で面白いと思って書いてるのかな」などという感想を抱くが、

こういったものが生み出されるのは、チェッカーマンの喪失ないし希薄化が原因だろう。


売れた作品、面白いと思った作品を分析し、「何が面白いと感じさせているのか」を特定する作業は、再現性を高める上で非常に重要だと感じる。

だが、それに倣って作品を作ったところで真に「面白い作品」を生み出せるかといったら、必ずしもそうではない。

それは「面白い」という感情が、あまりにも沢山の、複合的な要素の組み合わせの結果だからだ。


だからこそチェッカーマンがいる。

有象無象の好みの傾向から弾き出された法則(こうすれば必ず売れる! というような)を信用しすぎていては、オリジナリティは消える。

彼はオリジナリティの根源なのだ。


売れたいあまり、数字が欲しいあまり、チェッカーマン(読者としての自分、自分の感性)を抑圧し、有象無象の好みに合わせるのは悲しい行為だと思う。

これは有象無象に配慮するなという極端な主張ではない。

どこをまず優先的に重視するかという、程度問題の話だ。


まず彼——チェッカーマンを「これは面白い! これは必ず売れる!」と唸らせることが、創作者として正しくあるべき姿なのかと思ったり。自戒を込めて。

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チェッカーマン 朝比奈 志門 @shin_sorakawa

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