本当のさいわいの話


本当のさいわいとは何かと所長へ問いかけてみた。


 彼は靑珊瑚の飼育箱を机の上へ戻した後こちらを振り返り、思案顔で顎を撫でた。考え込んで十秒ほどののち、深い靑色の目が暫く伏せられたのち私の方を見る。その目にはいつもの静けさはなく、どこか困惑が混じっていた。

「本当のさいわいか。中々難しい質問じゃないか」

 すぐに答えが返ってくると思っていたというのに、所長は言葉を濁して悩んでいた。とても珍しい姿だ。思わずお前でも悩むのだなと言えばしかめっ面を返された。

「私を何だと思っているだ」

「世界のすべてを知っているような男」

「馬鹿を言え、私はまだ端すら見ていない」

 ソファーの向かい側に座った所長は暫く難しい顔をしたままだったが、ふいに柔らかい表情に変わる。

「……そうだな、淹れ立ての美味しいコーヒーとそれに合う菓子が毎日食えればいい。それが私の本当のさいわいだ」

 随分と簡単な事に本当の幸いを使うのだなと言えば肩を竦めて笑われてしまった。微かに傾げた首と連動してモノクルから吊り下げられた青い八面体の結晶が揺れる。

「昨日と僅かに違う毎日が延々と続く中で歩みを止め、全てから離れて至福の時間が取れる。これ以上のさいわいは無いぞ」

 ああ、それはごもっともだ。これは一本取られてしまったなと思いながら彼の『本当のさいわい』を叶えてやるために部屋を出てキッチンへと向かった。

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