第13話 田原 美佳④


「田原先生!女の子は良いけど、男の人にそんなに近づいたらダメだよ!」


 珍しく尖った声を出すゆめに、田原はびっくりして目を丸くする。


「どっ…どうしたの?ゆめちゃん」


 戸惑う田原にゆめはプンッと頬を膨らませる。そして、


「だって勘違いしちゃうじゃん!」


 と言って腕を組む。


「勘違い?誰が?」


 何でわからないの?と言いたげなゆめの頬をツンツンと突きながら、田原は首を傾げる。ゆめはさらにぷく~っと頬を膨らませると、頬を突いてくる指をぺしぺしと叩く。


「そんなの瀬波先生に決まってるじゃん!」

「??瀬波先生?何で?」


 きょとんとしている田原に、「えっ?」とゆめは動きを止める。


「だって…付き合ってるんじゃないの?瀬波先生と」

「!?」


 ビクッと肩を跳ね上げた田原は、丸い瞳を零れ落ちそうな程大きく見開く。あわあわと動きだす口と、みるみる赤くなっていく顔。図星だ!と確信したゆめは、“興味津々”と書かれた瞳を輝かせる。


「やっぱり付き合ってるんだ!」

「あっ!いやっ、違うの!付き合ってないの!って言うか、な…なんで“付き合ってる”って事になるの!?」


 プイッとそっぽを向いた田原は、視線を彷徨わせながらスタスタと歩き出す。

 ドスン!と音を立てて椅子に座り、デスクのペンに手を伸ばす。が、スルッと手から滑り落ち、コロコロと床に転がっていく。

 明らかな動揺っぷりにニヤリと笑ったゆめは、転がったペンを拾い、満面の笑みで田原に手渡す。


「この前の日曜日、街で瀬波先生と田原先生が一緒に本屋に居るところを見たって沙羅が言ってたの!ね、ね!デートしてたんでしょ!?」


 パッと視線をそらした田原を追うように、椅子の背に手を付いて顔を覗きこむ。「うっ」と喉を詰まらせた田原は、ぶんぶんと大きく頭を振った。


「たっ、たまたま目的が同じだったから一緒に出かけただけで…」

「やっぱりデートじゃん~!」

「!!も~!違うんだってばぁ」


 きゃ~!と一人で盛り上がるゆめに、田原はがっくりと項垂れる。

 まったくもう。一度ヒートアップすると、全然人の話を聞かなくなるんだから。

 いつもゆめの暴走を止めてくれる沙羅や凜々花を恋しく思いながら、ずーん…と肩を落とす。その一方で、休日に二人でいるところを見られたら、付き合ってると思われてしまうのも当然か…とも思う。

 田原は口元に手を当て、「う~…」と唸る。そして意を決したように息を吐くと「ゆめちゃん」と口を開いた。


「なに?」

「瀬波先生とは本当に付き合ってないんだけど」

「えっ!?うん」


 否定に驚きつつも、神妙な声を聞き逃さないよう田原に耳を寄せる。


「私が瀬波先生のことを好きなのは、本当」


 人差し指を口に当て、「内緒だよ」と首を傾ける。

 長い睫毛が恥ずかしそうに瞬き、柔らかな頬が真っ赤に染まる。その頬を撫でるようにさらりと髪が流れる様は、まるで少女漫画のワンシーンだ。

 ドキッと胸を高鳴らせたゆめは、思わず口を覆いながらコクコクと頷く。何故か熱ってしまった自分の頬に手を添えながら、ゆめは「ほぅ…」と熱い息を吐く。

 

「せ、先生ってさ…」

「?」

「ボディタッチが多かったり、人との距離バグってるなって思うことが多いけどさ」

「バ……うん」

「好きな人には、好き好きアピール全開でいかないんだね。沙羅に言われるまで、瀬波先生と田原先生がどうとか考えたことなかったもん」


 ちらりと伺うように見るゆめに、田原は気恥ずかしそうに身を捩る。


「そうだね…いつもみたいに気にせずいけたらいいんだけどね…。実際は、瀬波先生と話が合うように一生懸命漫画の勉強をしたり…休日のデートに誘うのが精いっぱいだよ」


 「尾沢先生相手なら全然緊張しないんだけどねっ」と言うと、ゆめはアハハと笑う。ふふ、と田原もつられて笑うが、思い出したように口を開く。


「あっ、あのね。この学校って職場恋愛禁止なの」

「!そうなんだ」

「もし瀬波先生とうまくいったとしても、バレちゃったら、どっちかが別な学校に飛ばされちゃうのね」

「ぅえっ!うん」

「だから、周りの人達には内緒にしてて欲しいの。私が瀬波先生と出かけてたことも、私が瀬波先生を好きってことも」


 千葉君も、お願い。と手を合わせる。小さく頷く方泉の横で、ゆめは首が取れそうな程何度も頷く。

 

「ゆめ、絶対言わない!沙羅にも、『付き合ってないんだって』って、言っとくね!」


 グッと拳を握るゆめに、田原はふわりと微笑む。


「ふふ、ありがとう。…なーんて、OKされる前提で話しちゃってるけど…ね。フラれたらどうしようね」


 「その時は千葉君、慰めてくれる~?」と、可愛らしく小首を傾げる。すると、ゆめが田原にぎゅうっと抱き着いた。お道化る田原が、どこか不安そうに見えて。


「大丈夫だよ!こんなに可愛いくて優しい先生をフる人なんて居ないよ!」

 

 と言うと、ゆめは腕の力をぎゅっと強めた。いつもみんなの恋愛の後押しをしてくれる大好きなお姉さんを、自分が勇気づけてあげたくて。


「ゆめちゃん…」


 驚いた田原は目をぱちくりさせる。そして、


「ありがとう、頑張るねっ」


 と、声を弾ませると、嬉しさが滲んだ瞳を優しく細めた。

 心なしか明るくなった表情で、田原はゆめの頭をぽんぽんと撫でる。


「…よしっ。そろそろ仕事に戻ろうかなっ。校長先生から出された宿題やらないと!」


 腕を離したゆめの頭をもう一度撫でて、田原はくるりと背を向ける。


「宿題?先生でも宿題ってあるの?」


 大人なのに?とたれ目を丸くして、ゆめが尋ねる。


「残念だけど、社会人になっても沢山あるんだよ~。ちなみに今日は“保健だより”」

「あっ、もしかしてそれ、今月のやつ!?」


 田原が指差すデスクの方へ、ゆめは嬉しそうに走り寄る。

 教科書や専門書、ファイルや新聞、漫画雑誌が並べられたデスクの真ん中に、書きかけのプリントがシャープペンで押さえられている。


「今月のイラストはアジサイだ~。先生が書く保健だよりって超可愛いし、季節に合わせた美容豆知識が載ってるから、大好きなんだ~」


 デスクに手を付いてまじまじとプリントを眺める。真剣に文字を追う姿に、田原も自然と笑みが零れる。


「ありがとっ。でも、いつも誤字脱字が多いって校長先生に怒られちゃって」

「うん。確かに誤字脱字が多いよね」

「えっ!そうなの?手書きだからかなぁ…自分じゃ全然気づかないんだよねぇ」


 なんでだろう?と首を傾げる田原に、なんでだろうね?とゆめが首を傾げる。

 

「そう言えば校長と田原先生って仲良くないよね」


 三限目終了までの残り10分を保健室で過ごすと決めたらしい。

 再び椅子に戻ったゆめは、テーブルに頬杖を突き、ペンを走らせる田原を見つめる。


「仲良くないって言うかぁ…嫌われてはいるよねぇ、校長先生に」

「え~っ、なになに?二人に何があったの?」

「…なんでそんなにワクワクしてるの?」


 絶対にゆめは今、満面の笑みを浮かべているだろう。と、振り返らなくても分かる程嬉々とした声に、田原は思わず苦笑いする。

 「理由ねぇ…」と言い、斜め上を見て考え込む田原。その後ろ姿を、方泉は眼鏡のブリッジを押し上げながら見つめる。


「多分だけどぉ」

「うん」

「初めて会った時に『校長先生って、バブリーダンスめちゃくちゃ上手そうですね』って言ったからかな」

「……うわぁ」


 「絶対地雷のやつじゃん…」と呟くと、「あっ、やっぱりダメだったかな?」と田原はあっけらかんと言う。


「でも私、お世辞とか嘘って言えないんだもん」


 手を動かしながら、てへっと小首を傾げる。その全く気にしていない様子を見て、ゆめは深刻な表情で顎に手を添える。


「嘘がないのは先生の良い所だけどさぁ…」

「うん?」

「昔、校長先生のことおばさん扱いして、クビになった人が居るって聞いた事あるよ。…ゆめは先生に辞めてほしくないから、絶対絶対気を付けてね」


 むにゅっと下唇をつき出して、不安そうな瞳を田原に向ける。


「や~ん。心配してくれるの?ありがとう」


 しかし、ゆめの言葉をちゃんと聞いているのか、いないのか。振り返った田原は、胸元で両手を握りしめ、ゆめの可愛さに身悶えている。


「も~っ、何で喜んでるの?ゆめの言った事ちゃんと聞いてた!?」


 もちもちの頬がぷくっと膨らみ、伸びた足がばたばたと泳ぐ。む~…と唸るゆめを、田原は緩み切った眼差しで見つめる。


「だってぇ、そのお口が赤ちゃんみたいで可愛いんだもん~」


 「可愛いでちゅね~」とニコニコする田原に、ゆめのたれ目は糸のように細くなる。


「もー!ゆめは本当に心配してるのにっ!」

「ごめんごめん。分かってるよ~。校長先生に失礼な事言わないように気を付けるんでしょ?」


 お気楽そうに笑う田原をゆめは不満気な顔でじっとりと見る。すると、田原は


「そんなに心配しなくても、本当に大丈夫だよっ」


 と言って頬にピースを当てた。


「…何でそんなにはっきりと言い切れるの?」


 ゆめの片眉が訝し気に上がる。

 艶やかな唇を弧にした田原は


「実は私、校長先生の弱みを握ってるんだっ」


 と言うと、嬉しそうに笑った。


「えーっ!弱点!?なになにっ、どんなの?」


 「知りたい知りたーい!」とはしゃぐゆめを視界の端に捉えながら、方泉は静かに息を吸う。

 ”校長の弱み”と、確かに田原は言った。

 脅迫文に書いていた“あのこと”と何か関係があるのだろうか。

 勿体ぶって悩むふりをする田原の腕を、ゆめがぶんぶんと大きく揺する。方泉は腰に当てた氷嚢を膝の上に置き、二人の会話に耳を傾ける。

 

「しょうがないなぁ~」

「!!教えてくれるの!?」


 キラキラと目を輝かせるゆめに、田原は人差し指を口に当てる。


「…内緒だよ?」


 そう、静かに囁く田原の声に方泉も耳を澄ませる。


「実はね」


 と、柔らかな唇が動いた時。

 コンコンと誰かが扉をノックした。


「失礼します」


 返事を待たずして、ガラガラガラ…と開いた扉に、三人がパッと顔を向ける。その瞬間、田原とゆめは「ヒィッ!」と肩をびくつかせた。


「……ごみを回収しにきました」


 ボソッと紡がれる低い声が、静かな保健室にかろうじて響く。

 入り口の天井に擦れそうなボサボサ頭。もさっとした髪の隙間から覗く鉛のような瞳は、華やかな保健室には異質すぎて浮いている。


「さっきゆめの事睨んでた人だ…」


 生物室の前で騒いだ時に睨んできた、清掃員の男の人。

 あの時の緊張感を思い出し、ゴクッとゆめの喉が鳴る。

 男は方泉、ゆめ、田原を一人ずつ見つめると、大きなゴミ袋を持ったままのっそりと足を踏み入れた。


「……回収します」

「あっ、はい…ありがとうございます…」


 デスクの隣に置いてあったゴミ箱を持ち上げ、袋の中で逆さまにする。そして、コトンと元の場所にごみ箱を戻すと、一つ咳払いをした。


「…失礼しました」


 微かに鼓膜を震わせるくらいの小声で頭を下げると、男は静かに部屋を出た。

 シーン…と静寂に包まれた室内で、恐る恐るゆめが口を開く。


「…田原先生。あんな人、清掃員さんに居たっけ?」

「…う~ん、見た事ない…けど、どこかで会ったことがあるような、ないような…」

「え~っ、もしあんなにインパクトがある人に会ってたら、絶対忘れなくない?」

「確かに…」


 勘違いかな…と首を傾げる田原に、「あの人怖い~」とゆめが抱き着く。

 方泉はチラッと時計を確認すると、椅子から腰を上げた。


「田原先生、これ、ありがとうございました」


 田原に氷嚢を手渡し、ぺこりとお辞儀をする。


「どういたしまして。痛みはない?」

「はい。すっかり良くなりました」


 方泉はニコッと微笑むと、ぶるぶると震えるゆめに視線を向けた。


「工藤さん、次の授業って何かな?」

「次はー…古典です!」

「古典なら教室かな?」

「はい、そうです!」

「そっか、ありがとう。じゃあ僕、先に教室に戻ってるね」


 方泉はもう一度田原に頭を下げると、保健室を後にした。


 爽やかな風が吹き抜ける廊下に、うっすらと授業の声が響いてる。

 歩き出そうとする方泉。その細い肩を、ポンと誰かが叩いた。


「!!」


 驚いた方泉が振り返る。すると


「あの…」


 と、ボソボソと口を動かし目をギョロつかせる男が、目の前に立っていた。

 “清掃員の人”だ…と心の中で呟きながら、方泉は「なんですか?」と尋ねる。


「…ハンカチ、落としましたよ」


 スッと下から差し出される手。そこには方泉のハンカチが握られている。


「ありがとうございます」


 軽く微笑み、受け取ろうと手を伸ばす。しかし、ハンカチに触れる寸前で、男は再び「あの…」と口を開く。チラリと顔を窺い見た方泉は、男の目を見た瞬間ピタッと動きを止めた。


「…この血…怪我、したんですか?」


 淡々とした口調。とは裏腹に、男はハンカチに付いた丸い染みを鋭い眼差しで見つめている。怒りのような狂気のような。何ともいえない圧迫感に、方泉は瞬きを忘れる。


「…ボールが鼻に当たって、鼻血が出ただけです」


 一呼吸置き、方泉は静かに答える。男は方泉の鼻に目をやると、「そうですか…」と呟いた。


「ありがとうございました」


 と言ってハンカチを受け取ると、男は宙に浮いた自分の掌を見つめる。そして僅かに頭を下げると、廊下の端に置いていたゴミ袋を持ち、のそのそと歩いて行った。

 “見るからに怪しい清掃員”の遠ざかる背を見ながら、「はぁ」と息を吐く。いつの間にか強張っていた肩からフッと力を抜くと、方泉は皺の寄ったハンカチを広げて畳みなおした。

 あの清掃員も気になるが、もうすぐ四限目が始まってしまう。

 方泉は横目で男を見つつも、キュッと靴音を鳴らし身を翻した。


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