幸せ配達人 【一話完結】

大枝 岳志

幸せ配達人 【一話完結】

 音のない夜を、真っ直ぐ進んでいる。自宅にいると聞いていたはずの届け主の男は今日は不在だったらしく東京へ引き返したものの、夕方になってから板橋を越えた辺りで折り返しの連絡が入った。

 まるで信じられないといった様子が電話の声から見え隠れして、本当にうちで合っているのかと、何度も聞かれてしまった。合っている、と伝えた途端に人とは実に現金なもので、家でずっと待っているから夜中でも何でもとにかく届けに来てくれと男は声を弾ませた。


 俺は普通の公務員とは異なる特殊公務員という扱いで、やっている業務は「幸せ配達人」だ。国が選出した家庭に、たった一枚の便箋を届けに行く。選ばれた家庭に訪れる喜びは必然的に幸せとなり、手のつけられない病死や事故死以外の全ての労苦から解き放たれるのだと言われている。

 宝クジが廃止になって以降始まったこの制度でどれだけの家庭が救われたのかは分からないが、数多くの家庭に幸せが訪れたのは確かだろう。

 選ばれたからと言って、それをわざわざ公表したり、自慢したりする馬鹿な奴はいない。何故なら、罰則があるからだ。

 だから、直接届け主と顔を合わせるのは俺らのような配達人のみとなる。通知は確実に手渡さなければならず郵送で発送は厳禁で、配達人の行動にはかなり厳しい監視の目や制限が設けられている。二十四時間に渡って現在位置は把握されているし、実働中は一時間に一度、上に連絡を入れる規則になっている。

 それでも、塀の中で暮らしているよりはよっぽどマシだ。無論、少しでも規則を破ろうものなら、すぐに塀の中へ逆戻りだ。

 だけど、今でも俺はこの仕事に志願して良かったと本気で思っている。昼夜問わず、ルートを逆算しながらハンドルを握っている。考えながら行動するということは、つまり、自由ということだ。


 東北へ向かうにつれ、開け放たれた窓から入る風が冷たくなって行く。長く続いていた雨が上がり、空気が冷え込んだせいもあるのだろう。高速道路の壁の隙間から見える景色は何処まで行っても真っ暗で、時折小さな街の灯りが目に入る程度だ。その灯りも、決して平行ではなく、山に沿って点々と輝いているのが見て分かる。

 ラジオは娯楽と認定されているが、居眠り防止の為にも運転中の拝聴を推奨されている。

 だけど、こんな静かな夜はかえって何の音も聞きたくなくなるから不思議だ。


 真っ直ぐな道は、何処まで進んでも暗いままだ。  

 その暗闇に浮かぶのは、瞼の裏に焼き付いたまま離れない過去の映像達だ。

 人を不幸にしたとは、今でも思ってはいない。

 不幸な人間を、俺はただ始末しただけだ。

 この身に不幸が降り掛からない為に、命を守る為に、あぁするしか他に無かった。

 結婚を目前に控えていた俺は、彼女の身を守ろうと必死だった。元々出会った場所が運悪く、俺達が初めて出会ったのは工業団地に隣接するように建てられたソープランドだった。

 ただの遊びが繰り返すうちに本気になってしまい、仕事場に囲われたまま逃げ場のなくなっていた彼女を救い出す為、文字通り必死になった。

 胴元の男は彼女のことを決して手放そうとはせず、俺のことを知るとすぐに関係を破綻させようとして来た。

 当時俺が勤めていた職場までガラの悪い若い連中が押し掛けたり、夜中に嫌がらせをされたりもした。

 それでも奴らの目をくぐり抜けて逢瀬のような時間を繰り返していた俺と彼女だったが、ついに奴らに捕まってしまった。

 燻んだピンク色の壁に置かれたソファに、黄色い柄シャツを着た胴元の男は座っていた。自らの股間を弄りながら、粘着質な蛇を思わせるような目で、俺を見下していた。

 指を詰め、もう二度と会わないことを約束するか、それとも山に埋められるかの二択を迫られた。

 俺は間髪入れずに、第三の答えを選択した。その結果、胴元の男は死んで俺は捕まり、それから彼女と会うことは二度となかった。


 蛇のような細い目が見開いたまま、何か言いたげに最期まで俺を眺めていた。

 このままこいつは死ぬんだな、そう思うと本当に一瞬だけ、俺は胴元の男に対して優しい気持ちになれた気がした。

 その気持ちが呪いのように今でも、心の隅々に媚びりついている。

 更生という名の水で洗えば洗うほど拡散し、決して流れ出ることはなく、心の内側にいつまでも残っている気がするのだ。

 あの時感じた優しさとは裏腹に、それはこの世界で最も薄汚れた醜い感情だと、今では感じている。


 アクセルを踏み込んでスピードを上げてみるが、俺の他に車線上にはトラック一台すら姿を見せようとはしない。  

 反対側の上り車線を時々大型トレーラーが擦れ違うだけで、まるで無人の世界を走っているような気分になって来る。

 冷たい風を頬に受けながら、煙草に火を点ける。

 こうして煙草を燻らすことの出来る時間が存在していることすら、俺にとってはとても上出来な日常なんだと、そう思える。


 無音の夜を走っていると、届け主の男から電話が入る。ナビの応答ボタンを押すと、外の暗闇とはまるで正反対の明るく、喜びが溢れるのを抑え切れない様子の男の声が、花火のように車内で花を咲かせる。


「ドライバーさん今、何処っすかね?」

「今は築館を越えた所なんで、もう間もなくお届けに上がれます」

「あぁ! 本当っすか、いやぁ、ドキドキすんなぁ……とにかく、起きて待ってますから! お気を付けて来て下さい!」

「はい。失礼します」


 ふと、誰かが言っていたことを思い出す。 


「幸せっていうのは、前からやって来るから見えるんだ。でも、不幸はいつだって後ろからやって来てな、背中を突然叩きやがるんだ」


 果たして、そうなのだろうか。これから幸せになる男の喜びようを反芻してみると、なるほどと思わざるを得ない。しかし、俺にとって便箋を渡される目の前の他人の幸せは所詮、やはりただの他人事に過ぎない。幸せだけじゃない。他人の不幸もまた同様に、やはり所詮は他人事に過ぎない。


 高速を降りて三十分ほど進んだ山間の街に、届け主の男が暮らす家はあった。寝静まっているよりも死んでいると言った方がしっくり来る街の中を進んで行く。温泉宿に隣接する丸い街灯が立ち並ぶ寂れた商店街だけがかろうじて息を潜めている生物のように感じられる他は、何処を見ても死に切った街としか思えなかった。こんな場所で暮らす人間にもやはり、幸せというのは訪れるものなのだろうか。

 他人の幸せを想像出来ない人間が不幸ならば、世の中は不幸に塗れていることになる。そんなことを考えているうちに車は届け主の男の家に辿り着いた。男の家は何処にでもあるような、真っ白で小さな一軒家だった。


 真夜中なのでインターフォンは押さず、電話を掛ける。すぐに出ますと言った数秒後に、群青の半纏を羽織った痩身の男が姿を現した。

 便箋を手に車を降り、男が立っている玄関に歩き出す。思っていたよりずっと空気が冷たく、吐く息が白くなって闇の中へ吸い込まれて行った。

 軽く会釈をして名刺を渡すと、男は頭を掻きながら満面の笑みで言った。


「いやぁ、こんなラッキーが俺にやって来るなんてなぁ。お国様々だいなぁ」

「おめでとうございます。受領のサインだけ頂けますか?」

「あい。ここに書けばいいの?」

「はい。苗字だけで構いませんので、お願いします」


 男が背を丸めて受領書にサインをすると、玄関の奥から眠たげな声と共に女が姿を現した。


「あなた……もしかしてアレ、来たの?」

「おう、届いたど。あ、うちの女房です。加奈絵っていいます」


 グレーのスウェット姿の女は私を一瞥すると小さく頭を下げ、少し困ったように届け主の男に目を遣り、半纏の裾を引っ張った。


「コーヒー、沸かす?」

「おう。頼んだ」


 ここへ向かう最中、闇の奥に浮かび続けていた映像の終焉にあの女の姿があった。

 蛇のような目が私を掴んでいたが、その力がゆっくりと抜けた矢先に、女は部屋へ飛び込んで来た。

 息を切らして、濡れたままの髪を一瞬掻き上げる。大きな二重の目で微笑んで、女は小さく笑った後、私にこんな言葉をくれた。


「もう、いいよ」


 酸化して行く血液の匂いを嗅ぎながら、私は彼女の言葉がごめん、でもありがとう、でもないことを考えていた。考えてみたが結局何の答えも見い出せず、すぐにやって来た警官に抵抗することなく手錠を掛けられた。

 女の目は投げやりだったようにも見えたし、怯えているようにも見えた。

 あの時と同じ目で、彼女は旦那となった男の半纏の裾を掴んでいた。


 届け主の男は女が家の中へ引き返していくのを振り返りながら見届けると、私の方を向いて丁寧に頭を下げた。


「なんと、お礼を言っていいもんだか。ありがとうございます」

「いえ……明日、市役所から連絡が入り、それから細かな説明と手続きとなります。それでは、どうかお幸せに」

「ドライバーさん、どこまで帰るんですか?」

「東京です」

「あっ……あの、うちの女房も東京なんですよ。あ、ちょっと待ってて下さい。疲れるでしょうから、コーヒーお持ちします。おい、加奈絵。加奈絵ー!」


 男が小走りで家の中へ引き返すのを見て、俺は車に乗り込んだ。そのままエンジンを掛け、車を発進させる。サイドミラーにコーヒーを片手に家から出て来た男の姿が見えていたが、申し訳ないとも思わなかった。

 自分でも驚いたのは、何の感慨も浮かばなかったことだった。やはり、他人の幸せは自分にとってはただの風景に過ぎないのだと実感した。


 アクセルを踏んで高速を進んでいると、ナビに上司からのメッセージが入った。


『黒崎さん、配達お疲れさまでした。あぁいう時はコーヒーを頂いて下さい。ルールではありませんが、マナーです。では、気を付けて帰って来てください』


 そのメッセージを見て、心の中で「うるせぇ」と思わず毒づいた。

 他人の幸せよりも上司の小言に心が動くのを感じると、溜息代わりの煙草に火を点けた。

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