第30話 桑名の翁
***
京都から
エアコンの効きの悪い、座り心地も悪い英国車だが、若い頃に形を気に入ってから大枚叩いて修理しつつここまで相棒として乗りこなしてきている。立派な古女房だ。
人間の女房の方は不在である。
否、生きてはいるのだ。児童書専門の書店を勤め上げて、定年退職を迎えた六十の誕生日の朝。二人で食卓を囲んでいると、
その時のアレは、とてもとても真っすぐな瞳をしていた。
そうして国を飛び出してから早三年、たまに手紙を送ってくるので息災である事は伝わるのだが、全くいい笑顔の写真ばかりを同封してくるので杉内は笑ってしまっている。
自分も随分と好き勝手をしてきたほうだから、妻が自由にやっているのは喜ばしかった。娘も嫁いで久しくすっかり年を取ったし、孫も来年には大学受験を控えている。順風満帆の人生行路と言って差支えはなさそうだ。
――多少、普通とは毛色が異なるだろうが。
追い越し車線を大型トラックが高速で追い抜いて行く。杉内の愛車など風圧で飛ばされんばかりに揺れた。明らかな速度違反に行儀悪く舌打ちをするが、すぐに視線を自身の前方に向け直す。高速道路の運転は一瞬の油断が命取りになるからだ。しかし不快は不快で留まっている。「馬鹿野郎が」と乱暴な口調で吐き捨て気を取り直した。
コートとニット帽は無造作に後部座席に放り投げてあった。周りに人の目がある時であれば身綺麗にも振舞うが、自分一人となれば、まあ大概ぞんざいにする。黒革の小型トランクだけは助手席に置いていた。中に入れてあるのは話題の最新ミステリ小説だった。
杉内の愛車が走るのは名神高速である。これに乗れば京都・桑名間なぞ一時間半程度で到着できる。無論混んでいなければの話だが。
向かうは
英国人、ジョサイア・コンドルの建築した、水色の美しい洋館と和館とをくっつけた由緒正しい国の重要文化財である。雪の美称を当てたのかと思いきや、実際は建築を依頼した
桑名の名の由来もまた様々あれど、その異称として江戸期に用いられた
六華に到着した杉内は、駐車場に車を停め、半ば億劫そうに「ばたん」と扉を閉めた。例のキャメルのコートを羽織り、ニット帽はポケットの中に無造作に突っ込んだ。
六華も九華も揖斐川沿いにある。対岸にはなばなの里があるから、かの有名な高所に上がる望遠アトラクションであるアイランド富士がよく見える。
とことこといつもの調子で歩を進める。向かうのは和館の最奥にある一番蔵である。
中には入らない。壁の一部に向かい、大きく息を一つ吸い込んだ。
ゆっくりと
――ぱん!
音高らかに一つ、打たれた
杉内の目は、何時もの如く、蔵の壁と青空が消えゆくのをはっきりと捕らえていた。次いで、それまでとはまるで違う景色が現れる。
そこは、
杉内の頭上には練色の天が広がっている。
わずかに黄味がかったその空には、所々に
そしてそんな天の下には、巨大な寝殿造りの母屋が堂々と翼を広げ地に伏している。
平等院も
溜息がてらとことこ近付いてゆくと、こちらの訪いに気付いたらしい。杉内の顔を見て男はにやりと笑んだ。
「よう」
軽快な調子で片手をあげて見せる。まったくもって筋骨たくましい
老爺は短く刈り上げた白髪に白い肌をしている。瞳の色だけが薄い翡翠色。にやりと右頬を歪めて笑うその身には
「よう、じゃないよ。相変わらずだらしない
「お前も今じゃ立派な爺じゃねぇか。見た目だけなら俺より爺だろうが」
「言ってろ」
――まったく、
「首尾は?
じっと、真っ直ぐに見つめる眼に、杉内は軽く首肯しつつ「上々だ」と返した。
その瞳だけが薄っすらと翡翠色を帯びて見えるのは、この老爺が
優れた知能を持つものの発する「説法」――つまり理論理屈を食わねば死ぬのだ。自然、知能の優れた者の
「
呼ばわる老爺の手が杉内の肩に伸びる。ゆっくりと引き寄せられる。杉内は慣れたもので抵抗もしない。
杉内の左のこめかみに、老爺の唇が触れる。
次の瞬間、触れたその場に冷たい何かが走った。
これが、この老爺の命脈を繋ぐ「食事」なのである。
人並外れた知識と知能を持つ杉内に蓄えられた「説法」と引き換えに、杉内はこの鬼神を使役してよいという契約を果たしている。
桑名の
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