婚活バトルロイアル〈前編〉

 出港した超大型クルーザーの窓から見えるのは、キラキラとした東京の夜景だ。

 船内には、優雅な曲調のクラシック音楽を奏でる数名の演奏家たちのほか、2人のウェイターが控えていた。


 どう少なく見積もっても100名は乗れそうな広さだったが、手綱と緋色を除いて、乗客は他に見当たらなかった。

 手綱が通されたのは、向かい合わせに椅子が置かれた、丸いテーブル席だ。学校の教室ほどの広さの空間には、その白いクロスの敷かれたテーブル一つしか置かれていなかった。

 もちろん向かい側の席に座っていたのは花麒麟緋色で、彼女は深紅のドレスを身に纏っていた。腰から下にかけて大きく縦にスリットが入っており、歩くたびに筋肉で締まった太ももが垣間見える。その胸元は大きくV字型に開かれており、胸の谷間が強調されていた。


 普段と同じく、ヘアスタイルは7対3に分けたショートボブカットだったものの、いつもとは違って、目元には黒フレームのスマートグラスをかけていないようだ。

 眼鏡をかけていない緋色の素顔は、最近よく一緒にいることの多い手綱にとっても新鮮で、いくらか表情が穏やかになったように見えた。


「さすがにここまで来れば、誰にも邪魔されることはないだろう。今夜、君とここでディナーを楽しむために貸し切りにしてもらったんだ」


「すごい……ですね……」


「私は君に、感謝してもし足りないくらいの恩があるんだよ。おかげで私の心身の健康状態は回復したし、マネジメントを見直すキッカケにもなった。君は、私の命の恩人だ」


「そんな……大げさですよ。わぁ、すごい豪華な料理……」


 ウェイターが運んできたのは、〈12種類の前菜の盛り合わせ〉だ。彩り豊かな野菜やお肉が、一口サイズのミニチュア料理となって可愛く並んでいる。


「今夜のディナークルーズは私の気持ちだ。遠慮せずに楽しんでくれた方が、私も嬉しい。君の腕には及ばないと思うが、たまには他人の作った料理を食べるのもいいだろう?」


「いえいえ、そんな……嬉しいです。いただきます」


 何種類も刻んだ野菜や濃厚な魚介エキスを包んだテリーヌは、噛むたびにいろいろな味や食感が楽しめる至高の一品だった。


「んー! 美味しーい!」


 最近、手綱は授業で簡単に作れる家庭料理ばかりを作っていたから、この洋風コース料理はとても新鮮だった。たまに手の込んだ料理を食べると、創作意欲が湧いてくる。


「かっ、完璧です……。美味しすぎます……」

「そうか、それなら良かった」


 次から次へと運ばれてくるコース料理を口に運ぶたびに、驚きと遊び心に満ちた創造的な味が、手綱の舌の上で踊った。

 メインの魚料理や肉料理なども絶品で、何をどう発想したらこんな料理が作れるのかと感動するとともに、完全に自信を失ってしまった。こんなに美味しい料理、僕に作れるはずがない。


「ところで君は幼い頃、高級ホテルの料理長を目指していたそうだな」

「ええっ!? なっ、なんでそのこと知ってるんですかぁ?」


「実は君に内緒で、ご実家に住む君のお姉様とお爺様に会ってきたんだ」

「エ゛ッ!!」


 大丈夫だったかな? あの、地獄の魔王みたいに気性の荒い鐙お姉ちゃんと会って、喧嘩にならなかったかな? 厩お爺ちゃんも、人の好き嫌いが激しい方だし……。


「2人とも、君のことを心配していたよ。学校での君の姿を映した動画を見せると喜んでいた。たまには帰ってきて、顔を見せてほしいそうだ」

「そうですか……」


 大丈夫……だったのかな?

 鐙お姉ちゃんから週1くらいで連絡は来てたけど、『疲れた』だとか『忙しい』だとか理由を付けて、入学してから一度も家に帰ってない。

 そうだ。今度、休暇申請して純と一緒に帰ろう。ようやく学校生活にも慣れてきたし、家族にも会いたいし。


「さて、私はそろそろ、君の本心を知りたくなってきた。君は、なぜあの学校に入学したんだ? 料理や家事のスキルアップを目指すためか? それとも、金持ちの女性と結婚するためか?」

「ええっと、キッカケは、鐙お姉ちゃんからこの学校を勧められたからです――」


 手綱は緋色にこれまでの経緯を話した。お金持ちの女性のヒモになるため、特訓を受けていたこと。鐙お姉ちゃんがどこかで花花専高の情報を聞いてきたこと。そして、問答無用でこの学校に入れさせられたことを。


「なるほど、そういうことか。あの、目元が笑っていない君のお姉様が、何か隠しているとは思ったんだ。ならば話は早い。私が君のお姉様の条件に合う手頃な独身イケメンを何人か探して、紹介てあげよう」

「ほっ、本当ですか!? 助かります!」


「いや、礼には及ばない。君は私と、我が社を救った救世主なんだ。それくらいのことはさせてくれ」

「ありがとうございます……」


 思わず手綱の目に涙が浮かんだ。

 やっと、鐙お姉ちゃんが結婚できるかもしれない。理想が高すぎて、誰とも交際が長続きしなかった鐙お姉ちゃんに、ようやく春が訪れるかもしれない。

 花麒麟さんはお金持ちの男の人をたくさん知ってそうだし、その中で背の高いイケメンの人を紹介してくれたら、鐙お姉ちゃんも満足してくれるんじゃないかなぁ。


「ところで君には、誰か好きな人や、結婚を考えている人はいるのか?」

「いっ、いやぁ……どうでしょう。まだなんとも言えないというか……」


 手綱は手元で赤い液体の入ったワイングラスを回して揺らした。もちろん中に入っていたのは赤ワインではなく、果汁100%グレープジュースだ。


「そもそも君は、どんな女性が好みなんだ? 差し障りがなければ教えてほしい」


 どうしよう……。花麒麟さんは、なんで僕にそんなことを聞いてくるんだろう?

 これも、何かのテストなのかな? 僕は試されてるのかな? でも、何を?


「僕は……そんな、『誰かを選べる』というような立場ではないので。『僕みたいな人でもいい』って言ってくれる人がいたら、ありがたいんですけど……」


 手綱は特に正解のような答えを思い付けなかったので、本心を素直に話してしまった。

 すると緋色の顔が曇りだし、疑ってくるような目線を手綱へと向けてきた。


「君は、君自身の能力や市場価値を過小評価しているな」

「……はい?」


 緋色は立ち上がり、膝の上に置いていたナプキンをテーブルの上に置いた。


「私は君のことが好きだよ。『将来、手綱と結婚したら、どんな家庭を築けるかな?』と想像してしまうくらいにはね」

「……え?」


 テーブルを周って歩いてきた緋色は、手綱の背後をとった。


「いつもとは逆に、『君をヨシヨシしたらどうなるかな?』と想像してみたりもする」

「……へ?」


 そして緋色は、手綱の耳元に唇を近付けてきた。

「今夜、私にヨシヨシされてみないか?」


 船室でのディナーを終えると、先を行く緋色の手に導かれるようにして螺旋階段を上がり、手綱はクルーザーの天辺部の甲板に出てきた。

 ぬるい潮風が吹いてきて、顔を撫でていく。


 イルミネーションのような電飾が手すりに巻き付けられ、白い光が瞬いていたおかげで、夜の海上が仄かに照らされている。

 展望デッキの中央には、なぜかキングサイズのベッドが置かれており、それはベッドサイドからの暖色の間接照明によって淡く照らされていた。


「私は、手綱と添い寝しながらヨシヨシしたい」


 潮風に髪を煽られている緋色は、どこからか持ってきたスケッチブックを広げると、そこに書かれた文字を「そのまま読み上げてほしい」とでも言いたげに、指先で差していた。


「僕も、花麒麟さんから……えっと、添い寝でヨシヨシされたい、です」


 ポンポーンとSEが鳴る。どうやら手綱の知らないうちに、今の光景を撮影していたらしい。


「合意成立だな。それでは靴を脱いで、そのベッドの上に寝転がってほしい」


 手綱は緋色から言われるがままに革靴を脱ぎ、白いベッドシーツの上に膝を立てると、体が前のめりに沈み込んだ。学校の宿舎で使われているマットレスとは比べものにならないくらいに柔らかい。

 ベッドの奥の方まで這っていくと、枕がないことに気が付いた。

 困っていた手綱の頭の下に滑り込んできたのは、緋色の左腕だった。


「腕枕をしてあげよう」


 張りのある――細くて頼りない手綱の腕とは対照的に――筋肉質な腕が、手綱の右耳を擦って伸びていった。

 その腕に、横向きで頭を置くと、緋色の顔が――濡れた瞳が迫ってきていた。メガネはすでに外されていた。

 伸びてきた右手が、手綱の頭頂部に優しく触れた。


「ヨシ、ヨシ」


 その、たった二往復の愛撫で、手綱は背すじに電流が走ったかのような痺れを感じ、思わずピクンッと体が痙攣した。

 心臓の動悸がトクトクトクトクと速くなっていく。息が荒くなる。頭がボーッとして、眉間のあたりが熱くなっていく。


「手綱、今までありがとう。君のおかげで私は、大事なものと、そうでないものとがわかるようになった――」


 その手は何度も何度も手綱の頭の上を撫で下ろし、その指は髪の毛の間を擦り抜けながら、頭皮を優しく刺激していった。

 緊張すると同時に、心が穏やかになっていくような不思議な感覚に、手綱は浸った。


「それに手綱は、私の話をよく聞いてくれた」

「聞いただけですよ」


「それで充分だったんだ。今となっては雑談の内容なんて覚えてはいないが、君が真剣に私の話を聞いてくれたことが嬉しかった。とても癒やされたんだ」


 緋色の吐息が、潮の香りを含んで吹きかかる。

 頭を撫でられるたびに意識が揺らいで、眠気と幸福感の混じり合い、ねっとりとした恍惚感に満たされる。


「私のワガママに付き合ってくれた。こんな私の相手をするのは、さぞかし大変だっただろう?」

「いえ、そんなことは……」


「君は私のことを心配してくれた。私の苦労をわかろうとして、思い遣ってくれた。君に頭を撫でてもらっている間、私がどれだけの幸福を感じていたか」


 いつしか手綱の瞳には水の膜が張られ、視界は霞んでいた。

 想いは、伝わったのかな? 祈りは、届いたのかな?


「早くに母親を亡くした君は、家の掃除や洗濯、ご飯の支度などの家事をしたり、お店の手伝いを手伝ってきた。聞けば半年前まで、亡くなられたお婆様の介護までしていたそうじゃないか。学業が疎かになってしまったのは仕方のないことだ。君は、学校の勉強以外で、たくさんのことを頑張ってきたんだから――」


 ジュワッと目頭が潤う。

 そんなこと、今まで誰からも褒められたことなかった。

 お母さんもお父さんもいないし、お姉ちゃんもお爺ちゃんも仕事で大変だから、僕が頑張らなきゃって、ずっと思ってた。

 目頭から、目尻から、溜まりに溜まっていた涙が、滴り落ちていく。鼻水をすすると、ズルズルズルッと、ラーメンでもすするような音がした。


「君は、多くの人に気を配って、多くの人を手助けしてきた。私は君に、そろそろ報われてほしいと思っている」


 しゃっくりも止まらない。目元を擦っても擦っても涙が溢れてきた。まるで、涙腺の蛇口が壊れてしまったみたいだ。


「今まで君は、たくさん苦労をしてきた。これから君は、たくさん幸せになるべきだ」


 手綱の目元の大氾濫が、ハンカチで拭い取られた。

 視界が開けると、目の前には自分と同じように濡れた瞳を輝かせている人がいた。 


「私は手綱のことが大好きだ。君のことを、心から尊敬している」


 頭を撫でてくれていた手が、肩に触れた。

 緋色の顔が、互いの鼻先が触れそうになる距離にまで近付いてきた。


「私は君と、結婚を見据えた交際がしたい。君と特別な関係になりたいんだ」

「でも、僕は……まだ……」


「卒業までは、あの学校にいてもいい。だからこの交際関係は、2人だけの秘密にしよう――」


 肩に触れていた手が離れ、そっと、左の頬が包まれた。

 唇に引かれた紅いグロスが、光を反射して艶めいている。


「もし、私の告白を受け入れてくれるなら、私の唇にキスをしてくれないか?」

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