KISS契約〈後編〉
花麒麟ヒイロは、まるで休むことを知らない働きアリのように、いつも忙しなく働いていた。
『今日は仕事から手を離せそうにないんだ。すまないが、軽食を作ってオフィスまで届けてくれないか?』
タヅナは電話でそう告げられ、ヒイロのオフィスへと出向いたこともあった。
「あれっ? マリアさん?」
「お待ちしておりました。社長の元までご案内いたします」
教科棟を出てきたところでマリアに出会い、白いリムジンに乗せられてやってきたのは、入学式の日にも見たオフィスビルだ。流線形の壁面が、太陽の光を滑らかに反射している。
ビルの玄関口から入り、社員証で開場する自動改札機のような入場口を通り、様々な芸術的モニュメントの並んだ横に広い廊下を渡ってドアを開くと、無数の座席が設置されている劇場型ホールに辿り着いた。
すでに会場内には、首から写真付きIDのストラップを下げた何人もの大人たちが着席していた。
英語で何かをまくし立てながら行き来している大人もいれば、大型カメラや映像モニターなどの撮影機材を操作している大人もいる。ほとんどの関係者らしき人物は外国人のようだ。
タヅナはマリアの後ろについていくと、会場の中段中央の席へと案内された。
「あの……僕、花麒麟さんにお弁当を届けにきただけなんですけど――」
「花麒麟の方から、『私が仕事をしているところをタヅナさんに見せてほしい』と頼まれまして――そろそろプレゼンが始まります。お静かに」
軽快な音楽――これまた『Mr.スカーレット』の劇中曲――がホールに響き、タイトな黒いスーツに白いカッターシャツ、黒いネクタイという服装を、スポットライトが照らしている。
ヒイロ・ハナキリンはステージ中央まで歩いていくと、沸き立つ歓声に満足そうな微笑みで応え、自分に注目している観衆たちを見渡した。
『(スマートフォンは、手のひらサイズに収めた、画期的なコンピューターデバイスだ。これ一つあれば私たちは天気予報を調べたり、映画を観たり、仕事の資料を作成したり、なんでも出来てしまう)』
ボストンアクセントの流暢な英語で、ヒイロは聴衆へと語りかけた。
その場に立ち上がり、両手で一眼レフカメラを構えたメディア関係者たちは、まるで競い合うかのようにして、ヒイロの顔面へとフラッシュを浴びせていた。
『(ところが便利であるがゆえに、私たちはこの小さなスマートフォンから手が放せなくなってしまった。「歩きスマホ」は社会問題になっているし、何より操作している姿が美しくない)』
その表情には不安や恐れの色など見えず、ただ確固たる自信があるのみ。
『(これから私たちは、このデバイスによって未来を知ることになる。紹介しよう――これがその、〈
ヒイロはトレードマークの黒眼鏡を外し、それを高く掲げた。
背景のスライドが眼鏡型デバイスの画像に切り替わるとともに、どよめきの嵐が会場を揺らし、フラッシュの連射が彼女の全身へと浴びせかけられた。
『(空間上に浮かぶARパネルには、指紋一つ残らない。Prophecyをかければ、経路案内も株取引も、アートだって思いのまま)』
ヒイロは身振り手振りを交えながら、いかにこの新製品が革新的であるかを過不足なく述べていく。
そしてその度に、感嘆と興奮の入り混じった歓声が、ホール内に反響するのだった。
「(さぁ、私たちの視界を、未来へとアップデートしよう)」
彼女はスタンディングオベーションの中、颯爽と会場をあとにした。
「タヅナさん、移動しましょう」
「は、はい……」
ホールでのプレゼンテーションが終わるや否や、タヅナはマリアの後ろを小走りでついていき、人混みをかき分けながらホールを出て、狭い関係者用通路を進んでいった。緋色は一足先に階段を降りていき、下の階の会議室へと入っていったようだ。
次の仕事はインタビュー取材だった。どうやら1週間後に出版を控えた書籍の、プロモーション記事を用意することになったらしい。
女性編集者との挨拶もそこそこに、記者が緋色に問いかけた。
「どうすれば日本の女性たちは、あなたのように成功できますか?」
「その答えこそ、この本の中に書かれている」
緋色はデスクの上に置いてあった本に、人差し指でコツコツと叩いた。
「つまり、『三倍速で生きよう』と?」
「他人の三倍努力して三倍失敗し、三倍改善すれば三倍成功できる。それは女性でも男性でも、日本人でも外国人でも変わらない」
30分ほどでインタビューを終えると、すかさず緋色は隣の会議室へと移動し、手綱たちも早歩きで彼女についていった。
次に入った白い壁の部屋には、何百もの白いふちのメガネが、横長のデスクの上に整然と並べられていた。その会議室では、十数名の外国人社員らがヒイロの登場を待っていた。
「(まだまだ重くて耳が疲れるな。10パーセント以上の軽量化をしてくれ)」
「(イマジナリーパネルの挙動も不安定だ。指示通りのテストをしたのか?)」
「(駆動時間は“最低”10時間だ。無理なら設計から見直せ)」
白フレームのメガネをかけた社員たちは、ヒイロの口からマシンガンのように放たれる指示を聞き取りながら、ピアノの早弾きのようなエアタイピングジェスチャーでメモを取っていく。
手綱にはそれらの英語が全く聞き取れなかったが、とにかく部下に不満を伝えてるのだろうなと想像していた。
その会議が終わっても緋色と会話を挟む余裕もなく、手綱は緋色とマリアと3人で部屋を出ると、ちょうどやってきたエレベーターの中へと入っていった。
マリアの美しいブロンドのロングヘアーが風に靡き、狭い空間に華やかな香りが広がる。
「本日のスケジュールをリマインド致します。12時30分より1階ラウンジにてランチミーティング、13時より弊社役員との経営会議、同30分にはハナキリン社商品開発部との共同研究会議に移り、15時10分から環太平洋環境学会とのシンポジウム打ち合わせ、16時から弊社人事部との――」
手綱は、延々と続くようなスケジュールを聞いていると吐き気を催してしまい、思わず口元に手をやった。
いつも花麒麟さんはこんな風に働いてたの? 学校での授業とは別に? この仕事量だって尋常じゃないのに。
こんな生活を続けてたら、働きすぎで死んじゃうよ。
「遅くとも18時20分には、本社からカルフォルニア支社までPJにて――」
1つ下の階でエレベーターが止まると、マリアの言葉が途切れた。
いや、正確には、乗り込んできた1人の若い男性社員の姿を見て、マリアは口をつぐんだのだ。
「(これは、これは。ジーニアス様と最後のご挨拶が出来るとは)」
その男性は、アロハシャツをパツンパツンに膨らませた、筋肉質の外国人だった。
ボディビルダーのように隆起した両腕のせいで、抱えられた大きいはずのダンボール箱が小さく見える。
肌の色は日に焼けた褐色で、目の色は青い。アロハシャツの胸元にサングラスを差しているせいで、サーファーのようにも見えた。
この人、どっかで見たことがあるような……。
彼と会ったことがある気がしていた手綱は、ここ1ヶ月ほどの記憶を辿ってみた。
そうだ!! この男の人、入学式の日にビルに迷い込んだ僕に、笑顔で話しかけてくれた人だ!
「(このクソ忙しい時期に辞められて良かったな、ペドロ。これで毎日ベビーシッターが出来るぞ)」
緋色は、後ろの壁に背中を預けて腕を組んだまま、彼の目をまっすぐに見つめていた。
「(おやおや、俺は『しばらく休みをくれ』って言っただけだ。ブチギレて辞めさせたのは、どっかの脳筋CEOだろ)」
「(我が社の技術を流出させてみろ。次に会う時は法廷だ)」
「(心配すんなって。あのプログラムはお前と俺以外には扱えないよ。アディオス、アミーゴ!)」
その男は仰々しく片手を振りながら、その男は建物の1階で降りていった。
マリアもそのマッチョな男性に続いて歩きだそうとしたのだが、その歩みをふと止めて振り返った。
「どうされました?」
緋色はまだ、腕を組んだまま壁際に立っていた。
「マリア、ランチミーティングはキャンセルだ。少し車で休みたい」
「承知致しました。それでは12時50分に御連絡を差し上げますので」
マリアがお辞儀をし、エレベーターのドアが閉まったところで、緋色は急に胸を押さえて背中を丸めた。
「ごほっ、ごほっ!」
手綱は咳き込む緋色に駆け寄った。見上げると、そこには死人のような血色の悪い顔があった。
「だっ、だっ、だっ、大丈夫ですか!?」
「心配ない、いつものことだ」
緋色は、まるで全力疾走でもしてきたかのように肩を上下しながら息を切らせ、背中を丸めて、みぞおちのあたりを右手で押さえている。
どう見たって大丈夫そうには見えない。
もしかしたら、何か病気にかかってるのかもしれない。
いや、それとも……。
エレベーターのドアが地下1階で開くと、そこは何台もの車が並んでいるビルの駐車場になっていた。
フラフラと酩酊するような足取りで進む緋色が、その指先で何かを捻るようなジェスチャー動作をすると、すぐ真正面にあった車のフロントライトが点滅した。
白塗りのリムジンのドアが自動で開き、手綱は緋色のあとを追いかけるようにして車へと乗り込んだ。
緋色は横長のシートに腰をかけると、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、どこからか取り出した薬のような錠剤を流し込んでいた。
手綱は緋色の隣に座り、彼女がお腹に両手を当て、腹式呼吸に集中している姿をしばらく見守った。
1分ほどそうしていると、彼女は深く息を吐き切り、肩の力を抜くようにして両肩を落とした。
「心配かけたな、もう大丈夫だ。症状は落ち着いた」
「はぁ、良かったです……」
救急車を呼ぶようなことにならなくて良かった。
手綱は緋色の青ざめた顔を見ながら、最悪のケースになることを覚悟していた。
「そうだ! 君に頼んでいた軽食は持ってきてくれたか?」
「はい、持ってきました。どうぞ」
手綱は手提げ袋の中に入れていた、アルミホイルとラップで包んだものを緋色に差し出した。
緋色は誕生日プレゼントを開けるような子供のようにアルミホイルの外装を剥がすと、ラップに包まれたピンクの太巻きが顔を出した。
「すごいじゃないか! これぞ『スカーレット・ロール』だ!」
〈スカーレット・ロール〉とは、『Mr.スカーレット』の作中に登場する太巻き寿司のことである。
太巻きの外側は海苔ではなく、オレンジ色のとびっ子を振りかけてあり、中身は醤油に漬けたサーモンとアボカドマヨネーズが入っている。サイズも材料も分量も、全て原作漫画通りの設定でこしらえてあった。
「うーん、美味しい! ミリーもきっと、この味に癒されたに違いない。また元気が湧いてきたような気がするぞ!」
明るい声色を放った緋色とは対照的に、タヅナは暗澹たる表情を浮かべていた。
自分の作った手料理を食べて緋色が喜んでくれたことを、素直に喜べない理由があった。
「今日はさすがにハードだったな。まぁ、いつもはこれの半分ほどの仕事をこなしながら授業を受けてるから、トータルの仕事量としては同じようなものだが」
「あのぉ……これは余計なお節介かもしれませんが……」
「なんだ?」
「花麒麟さんは働きすぎではないでしょうか? 一日中お仕事で忙しいのに、学校にも通われてますし……」
手綱はその小さな手で、ズボンの生地を握りしめていた。人に自分の意見を話すのは得意じゃない。それでも、言葉が勝手に口から飛び出してしまった。
「このままのペースで仕事と学業を両立していくことなんて出来ません。いつか絶対に体を壊してしまいます……。そうなる前に――」
緋色から、彼女の人差し指を口元に当てがわれた手綱は、思わず押し黙ってしまった。
「どうすれば私は、仕事と家事と勉強のマルチタスクがこなせるだろうか?」
返ってきたのは、手綱が想像もしていないような答えだった。答えというよりも質問だ。
「……はい?」
「私は、『出来ない』という言葉が何よりも嫌いだ。部下にはいつも、『出来ない報告をするのではなく、どうやったら出来るのかを考えろ』と言っている」
「いや……でも――」
「軽食を作って届けてくれたことは感謝している。後ほど相応のポイントを振り込んでおこう。私はまた仕事に戻るが、君はこのまま車に乗っていてくれ。[目的地 花麒麟花君専門高等学校教科棟前]」
『かしこまりました。目的地に向かいます』
「えっ……あっ、えっ?」
緋色が下車すると同時に自動でドアが閉まり、スムーズな制動でリムジンが発車した。
手綱は車窓から消えていく緋色の姿を目で追いながら、眉間に皺を寄せた。
失敗した。花麒麟さんを説得することが出来なかった。いや、花麒麟さんは意志が強いから、僕なんかのアドバイスなんて聞いてくれないだろうな。
でも花麒麟さんは無理して働き過ぎている。このままじゃ花麒麟さんは、いつかきっと……。
忸怩たる想いに浸っていると、手綱のズボンの右ポケットに振動があった。
取り出した花フォンのスリーブ画面には、[桔梗月夜]からのメッセージ通知が表示されていた。
[タヅナさん、ご機嫌いかがですか? 来週の日曜日、そちらへ授業参観に伺いますので、どうぞよろしくお願いしますね。]
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