魔王の激励〈後編〉
母である
「これからは、私が手綱のお母さんだから」
鐙は春から3年生を迎えるはずだった大学を休学し、夜の世界へと飛び込んだ。
母と祖父の抱えていた借金を返すため、まだ小学校に入ったばかりの手綱や、一家の生活費を稼ぐために、死に物狂いで働いた。
家事の多くは手綱が担い、多額の負債を抱えていた祖父の厩は予算内での食堂経営に承諾した。
一家の稼ぎ手である鐙に、逆らえる者などいなかった。
その独裁者ぶりが窺えるエピソードには事欠かない。たとえば手綱が小学4年生の頃、宿題で書いた作文を鐙が読んだ時のことだ。
「[僕の将来の夢は、おじいちゃんのような、三ツ星ホテルの総料理長です]……か。甘々だな」
「そんなぁ、手綱の夢をおーえんしてあげようよぉ」
いつだって純は手綱の味方をしてくれたが、鐙に対してその加勢は無きに等しいものだった。
「料理人なんて低賃金、長時間、重労働でキッツい仕事だぞ? しかもホテルの料理長になるまで、何十年間も修行しないといけないのに、根性無しのお前に出来んのか?」
「じゃあ、やめようかな」
「えっ? やめちゃうの!?」
「そうだっ!」
慌てた様子で2階への階段を駆け上がり、駆け戻ってきた鐙の手には1冊の本が握られていた。
「これだ!」
「『超ヒモ理論』?」
「この世の中には、とんでもねぇ大金持ちがいる。それこそ、犬小屋感覚で三ツ星ホテルを買えるような連中さ。手綱はそういう大富豪の娘と結婚すればいい。そうすれば自分のペースで仕事が出来るし、ホテルを買収してもらえば、料理長にだってなれるぞ!」
「そうなの!?」
「そうなれるよう、私が鍛えてやろう。タヅナ! 今から作文をこう書き直せ! [僕の将来の夢は、大富豪の娘のヒモになることです]ってな!」
その日、愛内家に〈超ヒモ部〉と呼ばれるモテ男育成機関が設立された。
学校から帰ってから鐙がキャバクラに出勤する夕方までの間、手綱が超一流のヒモへと成長するための、ありとあらゆる訓練や授業が始まったのだ。
それは、名門野球部のスパルタ顧問が指導する過酷な練習のようだった。
「お前は女のパパになれ」
「話を聴いて、気持ちを察しろ」
「偉ぶるな。女性を立てろ」
「かと言って卑屈にはなるなよ。強者の立場から堂々と思いやるんだ」
「女友達に見られても恥ずかしくない男になれ」
「清潔感! 身だしなみ! スキンケア!」
その頃、ホストやナンパ師の飲み仲間が多かった鐙は、彼らへの聞き込み調査を重ね、独自に開発した女性攻略マニュアルを弟の骨の髄にまで刷り込んだ。
女性との上手な会話の進め方、些細な言葉の背後にある隠された本音の類推法、距離感の詰め方と空け方、言葉の駆け引きによる緊張感の演出法などなど。
そういった対女性用コミュニケーションノウハウの数々を、手綱は小学4年生から中学3年生になるまで、みっちり学んでいったはずなのだが――
「手綱くんは良い人なんだけどなぁ〜」
「友達のままでいようね」
「弟に欲しいタイプかも」
「ごめん、男として見れないわー」
などと言われ、バレンタインデーに身内以外からもらえたチョコの数はゼロ。
女の子に告白された回数もゼロ。
鐙の命令で、クリスマスにフリーの女の子をデートに誘ってみてもフラれてしまい、彼女いない歴=年齢の記録は現在も更新中。
「今年もチョコゼロでしたぁ〜」
「ごめんなさい」
「なんだと?」
鐙のモテ男育成ノウハウにより、手綱は一流ホスト並の心遣いや甘い言葉の数々を身に付けることが出来た。
それにより、クラスの女子たちと仲良くなることには成功したのだが、いざデートに誘う段階になると、なぜか彼女たちの手綱への態度は急変し、毎度毎度、断られてしまったのだ。
小学4年生の春から中学3年生の夏まで、手綱は2人の姉が見定めた100名を超える(成人を含む)
「もう無理だよ。やめようよ、こんなこと」
「無理じゃない! クソッ、理論は完璧のはずなのに……。まぁいい、次だ。次のターゲットは――」
手綱と純が中学3年生の夏休みに、家の食堂で涼んでいたときのこと。例のごとく鐙が2階から駆け下りてきて、こう言い放った。
「手綱、純、お前らの入る高校が決まったぞ!」
「えっ?」「はぁ?」
鎧は、テーブルの上にバンッと叩きつけるようにして、入学パンフレットを置いた。
「〈花麒麟花君専門高等学校〉というところだ。なんでも、金持ちと結婚できる学校らしい。男も入れるってよ。お前らここに入れ」
『えーっ!?』
「お前ら忘れたのか? 私に対する返事は、『はい』か『イエス』だ」
手綱「……はい」純「……イエス」
このように愛内家は完全なる独裁制であり、全ての権利は鐙に帰属していた。
戸籍上は家長である厩ですら、鐙には全く刃向かうことが出来ない。
そして、入学式の日の朝に至る。
「正座しろ」
『はいっ!』
絶対君主によって店内へと連れ戻された家族三名が、冷たい床の上に膝をついた。
鐙は椅子を引き寄せ、ふんぞり返るようにして座り、豊満な胸の前で腕を組んだ。
「よし、最終確認だ。タヅナ、今お前は、私にいくら借金がある?」
「1億5千万円です」
「違う。1億5千13万円(1万円未満切り上げ)だ。私たちの母上が亡くなってから、お前の学費、食費、家賃、光熱費、医療費、その他一切の生活費は、私が働いて稼いだ金で支払った。その恩を忘れたのか?」
「重々承知しております、鐙お姉様」
「それで、その莫大な借金を返すために、お前には何が出来る?」
「資産家の女性と結婚することです」
「そうだ、それが最低限のノルマだ。加えて、そのセレブの親戚筋にあたるイケメン大富豪を私に紹介するところまでが、今回のお前のミッションとなる」
言い渡された条件は3つ。お金持ち、イケメン、身長180センチ以上。
イケメンかどうかの判定は、その都度に写真や映像で判定されるとのこと。
「なにも、こんな子供にそんな――」
「黙れジジィッ!! この店の借金を返してやったのは誰だッ!!」
「はっ、鐙様で御座います」
すかさず土下座する70代男性の姿が、そこにあった。
ホテルの料理長を引退後、採算度外視で食堂経営を続けた末路がこれである。料理の腕は世界が認めるほどであったが、厩は致命的なまでに経理が苦手だった。
「私は体にガタがきてるんだ。もう夜の世界では働けないんだよ……」
その声に先ほどまでの覇気はなく、ただただ打ちひしがれている29歳の女性がいた。
手綱は姉の手を握った。亡くなった母の代わりに、自分を育ててくれた恩人の両手を。
「僕、頑張ってみるよ」
鐙は一転して微笑み返し、力強く弟を抱きしめた。
「私の可愛い可愛いタヅナ」
誰よりも手慣れた手つきで、手綱は頭をヨシヨシされた。シリコンで増築されたGカップが顔面に押し付けられて、息が詰まりそうになっても必死に堪えた。
思い返せば小学生の頃から、保護者は鐙お姉ちゃんだった。授業参観も、三者面談も、キラキラしたキャバクラのドレスのままやって来たんだっけ――
「ウグッッッ!!」
手綱の綺麗な思い出の回想は、生命の危機を感じるような下腹部への鈍痛によって幕を閉じた。
手綱は血走った両眼を見開きながら、ハァハァと息を荒くさせた。
「いいか? そこらへんのクソザコ女とガキ作ってみろ? このキンタマ潰すかんな」
その股間への圧迫感は、それが冗談ではないということを意味していた。
「あい、わかりまひあ……」
「純ッ!!」
「はっ!」
さながら殿様お抱えの忍者のように、純が主人の前にひざまずく。
「お前にタダメシ食わせてやったのは、このときのためだ。わかってるな?」
「はっ! 弟君にクソザコ女が近付かぬよう、見張っておきますっ!」
敬礼ポーズに凛々しい表情で、純は主人の要請に応えた。
「よろしい。では出発したまえ。私のイヌが車を出している」
店に面している道路には黒塗りのワゴン車が1台停まっており、その脇には黒いサングラスに黒いスーツ姿の金髪の男性が立っていた。
ちなみに鐙の言う『イヌ』とは、彼女が抱えている黒服の男たちのことである。手綱と純が家を空けているときの家事は、彼らが代わりにやってくれることになっているらしい。
手綱と純が乗り込むと、黒塗りのワゴン車は駅に向かって走りだした。
「ばいばーい」
手綱は後部座席に膝立ちしながら、遠ざかっていく家族2人と1匹が見えなくなるまで手を振った。
そして寂しい気持ちに浸りながら前を向いて座り直すと、手綱は右隣にいた純に肩を抱き寄せられた。
「怖かったねぇ、もう大丈夫だからねぇ。あんな借金一億とか、絶対に嘘だよ」
手綱は純の胸に抱きしめられながら、それでも胸が熱くなっていくのを感じていた。
たしかに理不尽な命令は多々あった。でもそんな仕打ちを受けていてもなお、お金以外でも様々なサポートやアドバイスをしてくれた鎧への感謝の念でいっぱいになっていた。
「鐙お姉ちゃん、入ったばかりの大学を中退して、僕らのことを養ってくれたでしょ? 本当は大学で勉強して、天文学者になりたかったはずなのに。付き合ってた彼氏とも別れて、夜の仕事を始めてさ……」
――「これからは、私が手綱のお母さんだからね」
悲壮感を押し殺しながら、目に涙の膜を張りながら、一家を背負う覚悟を決めた鐙のあのときの笑顔は、今でも手綱の脳裏に焼き付いている。
「いろんな人からのプロポーズを断り続けたのも、僕らが高校卒業するのを待ってくれたからだと思う」
素行や言動はめちゃくちゃだけど、鐙お姉ちゃんは責任感が強かった。そういうところは、お母さんによく似てる。
勉強もスポーツも出来ない、何の才能も無い、女性にもモテない僕のことを心配してくれていたから、いろんなことを僕に教えてくれたんだ。
「だから僕は、いっぱい苦労してきた鐙お姉ちゃんに、いっぱい楽させてあげたいんだ。僕を貰ってくれる人がいなくても、鐙お姉ちゃんを貰ってくれる人は見つけなきゃね」
手綱は純に頭を撫でられた。
「だぁれも手綱を貰ってくれなかったら、アタシが貰ってあげるから」
「ふふっ、ありがと」
純の過保護っぷりには手綱も困っていたが、いつも鐙の横暴な振る舞いから守ってくれることには感謝していた。血縁は無くとも、頼りになって、嫌になるくらい世話をやいてくれる2番目の姉だ。
バックミラー越しに見えたドライバーのサングラスの端から、涙が伝っていた。
手綱はなんとなく恥ずかしい気持ちになって、窓の先へと目を向けた。
すると、車道の両側にどこまでも並んでいる桜の木々は、それぞれが美しさを競い合うようにして、爛々と咲き誇っていた。
無慈悲な春風に吹かれ、大きく枝をしならせながらも、せっかく咲かせた花びらを散らせまいと、必死に堪えているように見えた。
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