第4章(3)

 世界の裏側。

 総一郎は確かにそう言った。

 萩野一生は辺りを眺める。三人の記憶が雑然と埋まった、青い砂漠。巨大なサカナたちが頭上を泳いでいく。

 静謐で、優雅で、郷愁を誘う光景だ。

 英梨と総一郎は、この空間について話をしている。一生は自分が加わる必要を感じなかった。

 階層に入り込んでから、迷惑しか掛けていない。一生がいなければ、もしかしたら英梨も総一郎も早々に桜子と合流し、階層が落とされる前に脱出できたのかもしれない。

 そんな思いが頭をよぎる。

 ――そして、こんな場所で最期を迎える、と。

 一生は乾いた笑いを漏らした。

「ここは墓場みたいだ」

 突然、一生の隣に、渦が巻き起こる。一生は立ち上がったものの、身構える気も起きない。あらゆることに疲れすぎてしまった。

 砂は溶け合い、混ざり合って、一人の女性になる。

「――姉さん」

 萩野夏実は、弟の顔を正面から見つめた。

「こういうの、形而上的に悲しい、って言うのかしらね」

 一生は何も言えない。

 こうやって話しているのは、姉自身なのだろうか。それとも、自分の内側が、姉の形を模しているだけなのだろうか。

 でも、本質はそこではないのかもしれない。

「手紙、よろしくね」

 夏実が言う。

 一生は首を振る。

「無理だよ。ここから出られっこない」

「大丈夫。あなたにできることは何?」

 自分にできること。

 何もない、と一生は即答したかった。

 でも、その時間を与えずに、姉はまた砂となって、散っていった。後には、何も残らない。

 一生は、呆然とその場に取り残された。


 総一郎と英梨は、ひとまず、この地の果てまで――膜のあるところまで歩いてみることにしたようだ。

 一生は力なく、その後を追う。

 膜は遥か彼方にあるように見えたが、歩いてみると数十分でたどり着くことができた。

 淡いベールの向こうに、受付の明かりが見える。

 総一郎が、膜を押したり持ち上げたりするがびくともしない。砂を掘ってみたものの埒が明かず、こちらも望み薄だと分かった。

 一生は膜の前に立ち、ぼんやりと向こう側の景色を見ていた。

 うっすら、自分の影が反射している。

 いつかと同じように、その虚像へ囁く。

「気分はどう?」

 向こう側の自分が妙に上ずった声で答えた。

『最低だよ』

「そりゃあそうだ」

 向こう側の自分が首を振ってみせる。

『それで、俺はどうすればいい? 協力するか?』

「協力って?」

『脱出の手伝いをするのかってこと』

 一生は眉をしかめてみせる。自分はどこまで壊れているのだろう? 総一郎と英梨も、怪訝な顔でこちらを見ている。

「お前、誰だよ?」

 向こう側の自分は、すたすたと奥へ行ってしまう。

 一生は自分の身体を見下ろす。足は動いていないし、移動もしていない。

 ――何が起こっている?

 向こう側の自分は、アヒル顔の女に何やら話し掛けている。ふんふんと首を振ってからこちらを振り向き、手で大きくバツを作った。

『脱出の方法を聞こうと思ったけど、無理だわ。会話のできる状態じゃなかった』

「そりゃそうだろう」

『でもジュース買ってもらった』

 得意げに缶ジュースを振って見せる。一生はものも言えない。

『他に聞けそうなやつっている?』

「いないと思う。診察室の方にゴーヤみたいな先生がいたけど、それも会話になるかどうか」

『ゴーヤ? やべえ、超会いてえ。行ってみるわ』

 向こう側の自分は、また姿を消す。

 英梨が「さっきから、何が起こっているの?」と聞いてくる。だが、一生にもよく分からない。

「僕も、何が何だか……」

「どうして向こう側にも一生君がいるのかしら。分身?」

「まさか」

 どうやら自分だけの妄想でも何でもなく、英梨や総一郎にも、向こう側でちょこまかと動く一生の姿が見えているようだ。

「これは、僕の想像だけど」

 総一郎が言う。

「あれは、一生君がコントロールしているサカナみたいなものなんじゃないかねえ」

「サカナ?」

 言っている間に、向こう側の一生が戻って来る。

『これ貸してもらえた』

 メスを何本かちらつかせる。

『これで膜を裂いて、出てこられないかな』

 総一郎が腕を組む。

「それならうまくいくかもねえ。ただ一つ、問題がある」

 一生が振り向いて、「問題?」と聞き返す。

「この『裏側』は、僕らの内側が混ざり合って存在している――縦糸と横糸みたいにねえ。だから、この空間に誰もいなくなったらどうなる?」

 英梨が、「この空間そのものが――」と呟く。

「そう。この空間そのものが消し飛ぶ可能性が高い。そうすると、脱出は不可能になる」

 英梨がその後を引き受けた。

「つまり、誰か一人は残らないといけないってことね」

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