第4章(1)
階層の落下は目まぐるしかった。
空間全体が波打ち、総一郎たちの身体が大きく回転する。
総一郎は、思わず腕で頭を守った。その隙間から、モップやシーツが同様に回転しているのが見える。
モップとシーツは絡まり合い、癒着し、一つの粘土のような物体となった。その中心に牙の並んだ口が開き、おぎゃあという鳴き声が発せられる。総一郎を見つけたのか、俊敏な動きで迫って来た。
噛みつかれてはかなわないと、両足でその物体を押しのける。
空間の変質が著しい。それに、降下の衝撃が激しすぎる。これは――。
「階層六に落ちただけじゃなさそうだねえ」
相変わらず荒波に揉まれながら、ぼんやりとそう口にする。
モップの化け物がまた向かってきたので、再度蹴り上げて退けた。それはそのまま回転しながら、病室の奥まで流されていく。
さらに数十秒揉まれただろうか、ようやく波が落ち着き、総一郎の両脚が地面についた。
周囲の緑色はさらに深みを増し、数歩先を見通すにも苦労する有様だ。
ベッドや椅子が先ほどよりも高い位置を漂っている。のんびりしていると、変質したそれらにかじられかねない。
「萩野君。本樫さん。無事かい?」
声を掛ける。くぐもって、泡立つように震える音としてそれは聞こえた。
「私は無事。そちらに行くわ」
「ぼ、僕もです」
やがて緑色のベールから、英梨の姿が現れる。その後ろに、青ざめた顔の一生も見える。
「前人未到の階層ね。たぶん、六どころじゃあないわ」
「おそらく、さらに三つ、四つは降ろされたねえ」
「まずいわね」
英梨が舌打ちする。
「この階層の加速度は、やはり異常よ。このままだと、数分もしないうちに階層がさらに下がる。正直、脱出することは――」
「ま、絶望的だねえ」
総一郎は飄々と答えてみせる。空間はおそらく歪み、ねじ曲がっているはずだ。どの通路を行けば玄関にたどり着けるのかも――そもそも玄関にたどり着くための通路が残っているのかも分からない。
「とにかく、移動しましょう。ここにいると、その辺の瓦礫や何かが、すぐにモンスター化するはずだから」
三人は移動を始める。
背後の階段を上るが、上も下もないほどに波打っていることに加え、大きく左にカーブしているために、どこへ向かっているのかも心もとない。
「これ、どこかにはつながっているのよね?」
「そう信じたいねえ」
ずしん、という震動が再び三人を襲う。
「うそ、早すぎる」
英梨が絶望的な声を上げる。
総一郎が一生の肩を掴み、壁から引き離した。
「頭を抱えて、ひたすら丸くなるといい。壁が変質すると危険だから、なるべく空間の中央にいるように」
「は、はいぃ」
一生は言われた通りの姿勢をとる。
三人は再び、大きなうねりと、さらに深い濁りの中へ呑まれる。
気が付くと、平らな場所にいた。
先ほどまで空間を覆っていた深緑色は影を潜め、真っ青な光が辺りを包んでいる。
とても広い場所だ。地面は青い砂で覆われ、それがどこまでも続いている。所々に、見覚えのある物からそうでない物までが埋もれていた。総一郎は、そのうちの一つを手に取ってみる。
如雨露だ。
総一郎が、家を後にするまで手にしていた如雨露。
英梨と一生は、総一郎のすぐそばに倒れている。呼吸をしているから、そのうち目覚めるだろう。
上方を、巨大なサカナが泳いでいく。様々なサカナたちが融合したのか、クジラを思わせる巨体をうねらせ、総一郎たちには目もくれずに悠々と泳ぎ去る。
遥か彼方に、巨大な膜が見える。どうやら、総一郎たちのいる空間は、繭のように覆われているらしい。
半透明の膜を透かして、先ほどまで総一郎たちのいた病院内部が見える。
受付、ソファ、自販機、アヒル顔の女。
「ほんまにあったんや」
階層は落ちるだけ落ちた。ここが最果ての地だ。
美矢の残したイラストを思い出す。袋状の何かが口を下にして中央から沈んでいく、裏返りかけた靴下のような図。
青い砂が、ゆっくり舞い上がった。
それは溶け合い、一つの形となる。
女性の姿。
「――美矢」
総一郎は手を伸ばす。
美矢も手を伸ばし、二人の掌が重なる。
「君の仮説は正しかったみたいだ」
美矢は微笑んで、頷く。
「君は、美矢なのかねえ。それとも、僕の中にある『美矢』なのかねえ」
美矢は首をゆっくりと振る。それから、一言だけ、
「生きて」
そうして、また青い砂となって散っていく。
総一郎は、その欠片たちがたゆたい、地面に舞い落ちるところまでを目で追った。
「ここはどこ? ほら、起きて」
英梨が目を覚ましたらしい。一生も揺り起こされたようだ。
総一郎は掌に残った砂を眺め、ゆっくりと払い落とす。
「二人とも、お目覚めかねえ」
「ええ。こんな階層初めてよ。どういうことなの?」
総一郎は、砂の中から取り出した如雨露を掲げてみせる。
「これは、僕の記憶」
そして顎をしゃくり、砂に埋まっているカップやゲーム機を示して見せる。
一生が「僕の記憶も混じっています」と言う。
「私のもあるわ」
総一郎は「その通り」と頷く。
「どうやら、ここにいる全員の記憶が混じり合っているらしい」
それから、この地の果てを指さした。英梨と一生も、膜の向こうに病院内部が見えることに気付いたらしい。
「説明が難しいねえ。とにかく僕らは、内側の奥底まで沈み込んで、たどり着いたんだよ――世界の『裏側』に」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。