第5話 降臨。汚物の掃討を開始する、偉大なる天使*挿絵あり

   *


 私が放り込まれたその部屋は、一言に言って、拷問部屋にしか思えなかった。

 打ち捨てられたコンテナをそのまま監禁部屋としてあるらしく、赤錆び塗れの壁は分厚いスチールで、扉の部分は鉄格子になっていた。振り返ると、中央にはキングサイズのベッドがあり、黄ばんだシーツには無数の血痕があった。壁には鎖や拘束具が立て掛けてあり、それぞれに使用された形跡があって、不潔極まりなかった。

 やはり何処にも逃げ場などは無く、私は部屋の隅にうずくまって、脈打つ心臓に目を見開いていた。


 ――死にたい。死んでしまいたい。ジークの居ない世界に、もう希望なんてちっとも残されてはいないんだ。私のように、力のない民はひたすらに搾取されるだけ。遊ぼれて食い物にされるだけ。奴らのバイクの音を聞いたら、下品な笑い声を聞いたら、一目散に身を潜めてガタガタ震えている事しか出来ない。リッテンハイドの荒くれ者共の暴力の前に、為す術なんか無い。秩序も、倫理も、道徳さえもが取り払われた世界で、私達はアイツラに弄ばれる為に生きている様なものなんだ。


「……ぅ…………ぁ」


 壁から垂れた太い鎖に私の目が向いた。おあつらえ向きに、輪っかになって固定されているのに気付く。そこに積み上がったタイヤに乗れば、丁度この首が引っ掛かる程度の高さに……


 ――きっと、そうしてしまえば終わりは一瞬なのだろう。だけどきっと……痛いのだろう。悲しくて、辛くて、苦しいのだろう。自死は天使信仰に置いて最も罪深き大罪だ。私の魂は宙を彷徨い、楽園へと行くことも叶わないだろう。つまりそれは、天へと羽ばたいたジークとの、一生の離別を意味している。

 どうして私がそんな事をしないといけないのだろう。私達が一体何をしたと言うのだろう。どうしてこんなに辛いのだろう。

 ……ねぇ、ジーク。


 けれどやっぱり、この身を穢され、死ぬことも許されずに玩具にされ続ける位なら、私は――


 パンクしたタイヤの上に足を掛けたその時、「ヒヒヒ」と嫌な笑い声に気付く。扉の前に誰か居る。鉄格子の向こう側で、赤い輝きが左右に揺れていた。


「なぁんだい、死んじまうのかい? アリエルさんが怒り狂っちまうじゃあねぇか、ヒヒ、俺は知らねぇけどよ」

「……!」


 ジークのタリスマンをぶら下げた、あの鼻ピアスの紫髪が、革ジャンの肩で鼻をかみながら、イヤらしい目付きで私を見下ろしていた。男は天使信仰の赤い石を鉄格子の隙間から突き出し、ブラブラとさせ始める。


「壊される前にお前の顔を見に来たんだ、俺って情深い男だろう? え?」

「……っ!」


 必死に飛び付こうとした私だったが、男はヒョイと石を括ったヒモを引き上げ、私に舌を突き出した。


「それだよぉ、それそれ。その顔を見に来たんだ。この石ころはお前の親父との最後の繋がりだもんなぁ……せめて命の間際位、握り締めていたいよなぁあ……イヒヒ」

「っ!」

「俺ってよぅ、人の心をグリグリ踏み潰すのが大好きなんだぁ、ソイツが苦悶に満ちた顔でそのまま死んでいくのを見るとぉ……あぁあっ、嬉しくなっちまうヨォ! お前が弱くて健気で痛々しい程にぃ……うぅブヒヒ、堪らねぇ!」


 私は男を睨み付けるが、そいつはブルルと身震いしたかと思うと、頬を赤らめながら涎を垂らし始めた。瞳なんか弓形になって、性根も相当にひん曲がっている事がわかる。


「死ぬなよアリアぁ、可愛いアリア……アリエルさんの言いなりになってたらぁ、すぐには殺されねぇぜ? 生きていたらこの石ころを取り戻すチャンスが来るかも。そうじゃねぇかな?」

「……っ」

「アリエルさんは優しいだろぉ? そして偉大な男だぁ……法も何も無くなっちまったこの世界に、新たな秩序をもたらしたんだぜぇ? 力という野蛮一つでぇ、この世界の王になったんだ、誰もアリエルさんには逆らえねぇんだよぉ。さしずめお前は、王妃になれるって訳だぁ、悪い話しでもねぇだろ? ヒヒヒ、あんな獣男に引き千切れるまで好き勝手されて、一言でも意にそぐわねぇ事を言ったら訳のわからねぇイチャモンつけて殺されるなんて、俺なら御免だけどねぇ」


 また、私の前に赤い宝石が吊り下げられる。この男もまた狂ってるんだ。私の心をいたぶって、苦しむ姿を見る為だけにこんな事をつづけるんだ。みんな狂ってる。この世界の住人たちは全員。


「だかさぁ、まだ生きていてくれよぉ、お願いだよぉアリア……ほら、これ返してあげるから」

「……!」

「ダメー!!! ヒィうふふふヒヒヒハフっ!」


 空を切った私の手……赤の煌めきが薄汚い男の手に戻っていった。残虐めいた男の視線が、その時何かを閃いたかの様に鈍く光った。そうしてまた赤い石が鉄格子から突き出されて来た。


「オシッコしろよ」


 男の口から漏れたのは、何処まで下品を極めるのかと言うほどに、低劣なものだった。


「尿だ! 尿を見せろって言ってんダ!! 尿尿尿尿ッッ尿を見せやがれ!!」

「…………っ!?」

「そこのベッドの上でオシッコをしろって言ってんダヨォ! 右側だ、そうだ、丁度枕のところにしろ! うぅふひひひ、そこはあの獣野郎が顔を埋める定位置だ! そこにお前がションベン引っ掛けてたら、なんて言うかなぁ!」

「!」

「早くしろよぉ!! 尿だ尿尿!! そしたらこの石ころを今ここで返してやるぜ、とっととやりやがれ! オシッコして見せるんだよぉ!」


 凄んだかと思うと、腹を抑えて笑い始めた紫髪のゲス男。今わかった。こいつらのアリエルへの忠誠心はまるで上辺だけだ。力で抑えつけられて、仕方がなく従ってるんだ。

 だからその分、私達への仕打ちは残酷になって、コイツラから人の心を奪い去ってしまった。


「どらぁぁあ!! この石ころが大切なんだろうが、それとも今ここでに砕いてやろうか?!」

「ぅ……」

「そうだぁ……そう……ヒヒヒ……オシッコみせろぉオシッコ!!」


 鼻先を震わせた私は従う他が無く、ベッドの上に立って、下着を下ろした。


「うふふふヒヒヒ!」


 鉄格子に飛び付いて、私の下腹部を一転凝視する紫髪の男……あと少し屈めば全てが見える。盛り上がって来たのか、バンバンバンバン鉄格子を叩いて奇声を発する声が聞こえる。


「ウホオオオオオオ!!」


 血眼のアホ面を確認したその瞬間――私は丸めた下着を男の顔面に投げ付け、そして矢の如く駆けてタリスマンに飛び付いた――


「ウナァァアア!! このクソガキ、見せろって言ったのはストリップじゃねぇ、オシッコだ!!」

「……っ…………ッ」


 鉄格子を挟み、引っ張り合いになる赤い魔石。だがやはり、男の力の方がずっと強い。それでも私も必死に食らいついてその手を離さない。


「離せゲボオオ!!」

「ぃ…………タ――ッ」


 もう片方の手で私の髪を引っ掴み、ブチブチ引き千切っていく紫髪の男。シッチャカメッチャカになりながらも、私は全身全霊で抗い続けた。


「コイツがぁあ、俺様に逆らうんじゃねぇえ!」


 男が懐から、キラリと輝く鋭利を取り出したのに私は気付いた。そして何の迷いもなく、私の脳天へとナイフの切先が降り落ちてきた――


 ――死ぬ……。死ねる? 刃物で一気に脳を貫かれて。ジークと同じ様に、おんなじ風に……死ねる。

 そんな風に思うと同時に、こんな風にも考えた。走馬灯の様に、ジークとの日々だけを思い起こしながら……




 ――死にたくない。

 もっと色んな事を知りたい。美味しいものを食べたい。綺麗なものを見たい。知らないところに行ってみたい。勉強がしたい。人に優しくしたい。両親に会いたい。恋をしてみたい。

 ……もっと生きていたい。


 ――どうして死ななくちゃいけないの?

 ――どうして世界は、こんなにも悲惨なの?


 銀の煌めきが脳に突き立つその直前だった――

 


「――ナァッ?!! うぼぇああ!!?」

「――ふ、――フゥ……っ」

 

 が男を突き飛ばして、ジークの赤い石が私の手元に収まっていた。


「テメ……この、何しやがった、もう許さねぇ!」


 ひっくり返った男は革ジャンを脱ぎ捨て、ガリガリの体にナイフの一本を持って、鉄格子の錠を外していった。訳も分からず私は怯え、手元に取り返した石を握り締める――

 怯えた私の様相を見て得意になった男は、自分の立場がまた上になったと思い上がって、ナイフと共に飛び上がった。


「オシッコじゃなくて、ハラワタブチマケてやるよぉ!!」




 ――



 ――爆ぜる赤の暴発。視界を埋め尽くす魔力の奔流。その時、その瞬間、混沌の世に、カオスというべき世界の末期に、



 



「見ていたぞ……感じていたぞ……クックック」



「――――ハゥううっ??!! はにゃ、はにゃにゃァー!!! おま、おまおまおま??!! 何処から、ナンデぇえ?!!」


 闇よりいでて、真正面より男の首を締め上げていった暗黒のかいな


「あぎゃぁパァァァあ、死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死、死死死死死ッ!!」


 その“天使”は、この時代にそぐわない、きらびやかな衣装に身を包んでいた。

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 遥かな世界より現れた、栄華を極めた時代の高貴。揺蕩う闇に舞い上がる美しき黒髪。その前髪はポイントで赤く、その下には細かな装飾の散りばめられた仮面がある。


「革命を願うお前のが、この俺を呼び醒ましたのだ、女」


 黒に染まりし不可視の腕が、男を吊り上げ、ナイフを振り下ろさせる暇もなく絞め落とした。男に触れた手をハンカチーフで拭いながら、顎を上げ、斜めにした黒き仮面が光に照らされる。

 彼の所作の一つ一つは気品に満ち溢れて、圧倒的なる存在感と、高潔の気迫が私に強制的に理解させる。

 ――彼こそが、私達が信仰し、崇め奉って来た“天使”その人であると。遥かな世界の魔法の国より、神話の存在がそこに降臨した事を。


「薄汚れた世界だ……息をするのも躊躇われる。ふぅむ、なれば創り変えようか」


 その背に赤きヒレの如き翼が開いた。

 

「汚物の様なこの世界を、この俺の眼下に相応しき、華々しい栄光へ」

 

 天に示された一本の指を仰ぎ、呆気に取られた私は理解する。闇の爆風に髪を掻き混ぜられるまま、世界が生まれ変わっていくこの開闢かいびゃくの瞬間に打ち震えながら。

 

 ――この男が世界にそぐわないんじゃない。


 、この男にそぐわないんだ。


「世は全て、王たる俺の為に。人も文明も家畜も奴隷も……“悪”も」


 ――瞬きをしたその瞬間、私を捕らえ、閉じ込めていたトレーラーが破裂していた。革命を告げる爆音と共に、キラキラと舞う光の粒子が天使を照らし、私に振り返る。


「革命のファンファーレを拝聴させてやる、女」


 ――その天使は、あらゆる技能に置いて、になる才を有する。

 王たるべくして生まれた彼は、天賦の才にて全てをするも、あらゆる分野に置いて、決して一番にはなり得なかった。

 全てが出来るも、突出した“個”を欠落させた彼、

 魔法の楽園より来たりし天使の名は――


「この――ギルリート・ヴァルフレアがな」

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