第2話 私のスレスレに突き落ちた、ひしゃげた人体を見下ろしたまま、私は白目を剥いた。


   *


 その瞬間。私の中にあった僅かな灯火――生きる糧とも言うべき唯一の標が、途絶した。

 闇を照らした微かな光が、もう何処にあったのかも分からぬ程に、そこには漠々とした暗黒だけが垂れていた。


「喋れないんじゃ無かったのかよこのメスガキぃ、ヒィイいアハハハ! 良い声で鳴いてんじゃあねぇかよぉ!」

「綺麗な声してやがる! 泣き叫ばせるのが楽しみになって来たぁ、ヒィヒヒヒヒ」


 行く宛など無かった。もう何も無かった。この生涯に縋りつく理由も、抗うだけの精魂も。


「ああああひゃはははっははあああああッ! ううピィいいい!」

「おいボルガノ、もうたまんねぇよ! つまみ食いしちまおう、ゲェえひひひ!」


 空っぽだ。何もない。空虚。がらんどう――虚空。

 私の心にはもう何も無い。全てが破滅したのと同じだ。

 汚物と見紛うこんな世界で、もう一秒だって息をしていたくなんて無かった。


「そりゃあいいやあ最高だぁああ!」

「よっほおおおお!! ほほいほいほい!! うぉはああああッ!!」


 暗雲立ち込める砂丘の空をただ見上げながら、男達は醜い声をあげて鼻の下を伸ばしている。障害物も何もない、こんな砂地のど真ん中で事に及ぼうとしているのか、それが彼らを余計に興奮させているかのように、荒々しい手つきが私の衣服を剥ぎ取り始める。

 強引に体を引き上げられるまま、私は目前の醜怪を見ないように、瞳を伏せた。男達が喜ぶと思ったから、怖くて、悲しくて、堪らなかったけれど、声は上げなかった。


「――――ッ!」


 伏せた私のまつ毛の先に、ジークの亡骸が映り込んだ。彼そっくりに作られた精巧な人形に、早くも砂塵が降り積もっている。この世界を表す無秩序な風は、冷たく吹き荒れ全てを塗り潰そうとしている。

 はしゃぐゲス共の声が私を揺する。ハゲ頭が激しく左右に揺れて、その後ろで赤髪は手を打っていた。


「ロリータロリータロリータ〜、ふふふん!」

「ウッヒョおぉおお 手付かずのガキなんて貴重だぜぇ、全員ハイドさんが壊しちまうんだからよぉ!」


 襟を、袖を引きちぎられながらも、私はせねてもの抵抗を示そうと、何もかもを諦め切ったかのように振る舞った。けれど肌を露わにされていく程に平静を保てなくなって、唇を噛んだまま、最後にはどうしようも無くなって涙を流した。静かに嗚咽する私の姿は、やはり男達を燃え上がらせて苛烈にしていった。

 眉を弛緩させた醜い素顔。紅潮したアホ面、欲望に支配された陳腐な衝動。

 くだらない、くだらない。男なんて、この世界の男なんてみんな、穢らわしい。

 私に触るな。醜いその手で、汚いその欲情で。地獄の亡者共。

 こんな世界、燃えてしまえ。


「ピッピッピ! ピッピッピ! ピッピッピッピッ」

「ボルガノ! ボルガノ!」


 ふざけた音頭で私の衣服を剥いでいった男達。彼らの薄汚れた手が私の胸元に手を掛けたその時――ドルンと轟くバイクの轟音に気付く。けれど哀れなハゲ頭と赤髪は、興奮し切って周りの音など聞こえていない様だった。


「何をしているのです」

「――ハァッ?!! ハッッ!! ボ、ボルガノ!!」


 赤髪の方は、その集団を率いてきた巨大なアメリカンバイクの巨漢に気付き、目を飛び出さんばかりに驚愕として、騒ぎ立てるのを止めた。けれど、未だ私の服を脱がすことに夢中な様子のハゲ頭は、何処までバカなのか、上機嫌に鼻歌を歌うことを止めないでいる。耳を塞ぎたくなる様な無数のバイクの轟音に、何故気付く事が出来ないのだろう?

 すると、数十のバイクを背後に引き連れたまま、先頭の男はバイクを置いて歩き始めた。

 外の世界に疎い私でも、背に鉛の様な斧を背負ったその男の事を知らぬ訳が無かった。


「随分と……楽しそうですね。私のを辱めて、貴方……」

「アァンダァア?!! 楽しいに決まってんだろうがクソゲボがぁ! 見てわからねぇのかよ、ハゲェエ!」

「……ハゲ?」


 私に夢中で振り返る事も忘れているハゲ頭。そんな男の背後に佇んでいる、優に三メートルを越えた巨人を認め、私はそのバカでかい黒のハットのつばに影を落とされていた。

 逆光となり、表情も窺い知れない恐ろしき男――この世界を支配するを前に私は呆気に取られ、取り巻きに囲まれ始めた赤髪は、ガタガタと鳴る奥歯に指を噛ませたまま、膝から崩れ落ちて失禁していた。

 この状況に気付いていないのは、人を見る事もせずに“ハゲ”と呼び付けるの、ただ一人である。


「ボルガ……ッボルガノぉぉぉ、ヒィィいい!!」

「んぁ?」


 ようやくと尋常ではない仲間の声に気付いたか、ハゲ頭はゆっくりと振り返り、次の瞬間にガタンと顎を落とした。そこに佇み巨大な影を落とす男が、この世にを生み出した張本人、彼らが属する“リッテンハイド”の悍ましき頭目――アリエル・フォン・ハイド、その人であるという真実をまざまざと見せ付けられて。

 地を這う様な掠れ声が、品位と冷酷を同居させながら囁き漏らされる。


「貴方は私を愚弄しましたか? 由緒正しきハイド家の、誉れ高きこの血統を」

「ハビぃ……びゅ…………っぁわ」

「ハゲ……? 私の父の事を言っている? あぁ、確かに父は晩年に、病に伏せて毛髪を抜け落とした……そうか、そうなのか。罵倒した……それは私の偉大なる父を、父を愛した親愛なる母を、そこから産み落とされた私とその兄弟達をッ、蔑んだと……っ」


 瞬きも忘れ、乾いた目元に涙を垂らして口をパクつかせたハゲ頭。あろう事か愚かな彼らは、私という奴隷を彼の前に貢ぐその前に、つまみ食いしようとしたのだ。つまる所それは、リッテンハイドという巨大組織に反逆したのと同じなのである。

 ハットの下で、わらわら蠢く灰色の長髪。

 ここは力が物を言う野生世界。裏切り者の辿る結末は当然――


「酷い……ナンテ酷い……ドウシテソンナニ酷い事を言うンダアナタは――ッッ!!!」

「――あぁァァァア゛ビィイイイゥアアアァァア――……」


 憤慨したアリエルの莫大なる斧が、ハゲ頭の顔面を押し潰し、薪割りでもするかの様に頭蓋を叩き割った。

 命に対して、僅かな躊躇もなく振り下ろされた鉄塊が、血の噴水の原点となりながら、血飛沫を散らし、赤く濡れる。

 私のスレスレに突き落ちた、ひしゃげた人体を見下ろしたまま、私は白目を剥いた。

 仰向けになった視線の先で、赤髪が悲鳴を上げているのが見えた。彼もまた、これより死の祭壇に乗せられるのであろう。

 どうでもいい。心も動かない。もう何も見たく無かった。

 このまま、薄れゆく意識が私を死に連れていってくれたら、それで良い。

 そしたら少しだけ、天使の存在を信じよう。

 胸に確かに赤き魔石を握り込み、私の意識は黒に塗り染められる――


「なんと……美しい。これは運命、神の思し召し。こんな形で出逢えるとは……我が運命の花嫁」


 巨大な影が私を覆い尽くした。乾いた笑い声を上げながら、ヒックヒックと喉を上下させて。

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