異世界転移〈前編〉

 真っ暗闇に、今までの俺の人生の光景が、ふわっと瞬いては消えていく。


 頭全体がジンジンと痛んでいたが、ぼんやりと考えることが出来るくらいには意識が回復してきていた。

 あの時、俺の視界の外から飛んできたのは、おそらく至近距離から飛んできたサッカーボールだろう。その衝撃で俺は、座っていたプラスチックチェアごと背中から倒れて、後頭部を硬い土のグラウンドに打ち付けたに違いない。


 死んだのか?

 ――――いや、鼓動がある。心臓は動いてる。

 もしかして俺、まだ生きてる?


 うっすら目を開けてみると、ぼやけた視界の中に、見知らぬ天井が見えた。ゆっくりと上半身を起こし、目をこすって周りを見渡してみる。

 床には青いカーペットが敷かれ、壁伝いには青いカーテンが引かれてあった。子供部屋のような、およそ10畳ほどの広さの部屋は、明らかに学校の保健室でも病院でもなく、やたらと生活感のある部屋だった。


 俺が寝ているベッドがあり、勉強机があり、壁にはゲームのキャラクターが描かれたポスターが貼ってある。天井には見慣れないデザインの照明。ベッドも机も、なぜか通常のものより、一回り以上は大きく見えた。


 ポスターに写っていたキャラクターは、鎧をまとった戦士のコスプレをしていて、両手で斜めに大剣を振り下ろしていた。

 視線を棚の方へ移すと、また妙なものを見つけた。ゲームに出てくるような――ちょうどあのポスターに写っているものと同じような――黒い大剣。長さは自分の背丈ほどありそうだ。


「ここ……どこ?」


 掛け布団を剥がし、ベッドから軽くふらつきながら立ち上がると、やけに肌寒さを感じた。下を見ると俺はパンツしか履いてない。まさしくパンツ一丁。


 いや、そんなことより――


「ん? んんんん!?」


 おかしい。手の甲が、両腕が……いや、それだけじゃない。腹も、太腿も、足先も、体中のほとんどの部位の皮膚が、抹茶アイスのような薄い緑色に染まっていた。

 強めに擦ってみても、塗料は取れそうにない。ボディペインティングされてるとかじゃなくて、元からこういう皮膚の色だったみたいな感じだ。


 それに、立ち上がってから気付いたけど、目線の高さも明らかに低い。何センチくらいだろう? 20センチくらいか? もしかして俺、少し背が縮んだ? そんな馬鹿な。


「はぁ? 何これ?」


 いくら目をで擦ってみても大きさは変わらない。つまり視界がボヤけてたんじゃなくて、本当に変わってしまったみたいな――


 真横から何者かの視線を感じて右に振り向くと、全身を映せるサイズの縦長の鏡が立て掛けてあった。

 ふと見ると、緑色の顔で、赤い眼をした、金色トゲトゲヘアーの少年が、こちらに驚いたような顔を向けているのに気が付いた。


「はぁあ??」


 彼は、目の前で起こっている事態が信じられないというような顔をして呟いた。いや、彼と呼ぶのは適切じゃない。呟いたのは間違いなく、鏡に映っている“俺”だ。


 “俺”は、パンツ一丁姿の、緑色の肌をした、赤眼の少年になっていた。


「はあああああああっ!?」


 まじまじと鏡を見つめてみたところで、まじまじと見返してくる“俺”が映るだけだった。

 そいつの耳の先は尖っていて、瞳は赤い。パッと見で金髪だと思っていた髪の色は、どちらかと言えば真っ黄色に近かった。しかも、まるでアニメやマンガに出てくるような、ツンツンヘアー。寝癖でこうなったとは思えないような、セットされた髪型だ。


 どちらかと言えばイケメンのような、キリッとした童顔には、どこか見覚えがある。

 そうだ。俺がドラキラで使ってるキャラもまさにこんな顔や姿形のゴブリンだった。でもなんか、よく見ると幼すぎる気もするな。少年とか青年というよりも、まだ●ン毛も生えてなさそうな子供って感じ。


 そしてまた意外だったのは、自分の声だ。


「ア゛ー、ア゛ー、ウンッ! この声って、俺のだよな? いや、ちょっと高い?」


 たしか、声変わりする前の俺の声はこんな感じだった。久しぶりに聞くけど違和感もないし、まず間違いないだろう。

 ゴクリと、口の中に溜まっていた唾液の塊を飲み干す。背中から垂れていく汗は、服の中をくぐって垂直に落ちていった。


 身に付けていたパンツも俺のものじゃない。民族衣装のような紋様が描かれた、薄い生地で作られたベージュ色のブリーフだ。

 中身を見ると、やっぱりチ●毛は生えていなかった。しかも剃られていたんじゃなくて、そもそも息子のサイズがジュニアサイズになっている。

 そういや、このパンツの紋様にも見覚えがあるな。それも最近だ。そうだ、このパンツは……いや、まさか。でもそれならこの顔にも、この肌や眼の色にも、棚に立てかけてある黒い大剣にも説明がつく。


 立ち上がり、その剣を右手に持ってみる。見た目の重々しさとは裏腹に、意外と軽く持ち上げられた。剣道の竹刀くらいの重さだ。

 刃の部分は硬質なゴムに近い弾力性があり、明らかに金属製ではなかった。刀身を指でなぞってみると、丸みを帯びていて、ニンジンすら切れなさそうな代物だということがわかった。


 心臓の鼓動が高鳴っている。

 ふと俺は、青いカーテンの両端から漏れてきた光に気が付いた。

 そのカーテンは何か、俺の人生を一変させてしまうかのような、とんでもないものを隠してるような確信があった。


 たった数歩ほどの距離を、全力疾走しているかのように息を切らしながら歩いていき、恐る恐る青い布地へと手を伸ばす。

 そしてそれを握りしめると、一気に右端へと引いた。

 まばゆい光が網膜を刺し、思わず左手を前に向けて、目をつむる。

 手を前にかざしたまま、再びゆっくりと目を開くと、生まれてからこのかた、一度も目にしたことのないような風景が広がっていた。


「なに……これ……?」


 そこは高層ビルの最上階のように景色がよく、遥か遠くまで見渡せるような場所だった。

 ただ、その光景には、やけにリアリティが感じられなかった。


 ガラス戸のようなサッシを右にスライドして開くと、湿気を帯びた熱気に包まれた。季節は真夏か? それともここは熱帯地方か?


 素足のままベランダのような場所に1歩を踏み出す。手足の震えで思わず四つん這いに倒れてしまい、産まれたての子鹿のような歩き方で前に見える手すりまで這っていく。

 そうして俺は、ベランダの柵を震える手で掴みながら、おぼつかない脚でようやく立ち上がった。


「なんなんだよ……これ……」


 まるでゲームやアニメに出てくるような飛空挺が――それも何隻も列をなしながら――尋常ではない大きさの巨大樹の間を縫って飛んでいる。


 それらの巨大樹は高層ビル群のように林立しており、その一つ一つの部屋からは、人々が生活しているような様子が窺えた。

 地面から生えている木の高さや太さは様々で、周囲を陰で覆い尽くすようにそびえる巨大樹から、地表に密集しているような低くて太い木々も生えていた。


 視界の先、右手方向には海が見える。内側に大きく湾曲した海岸線には、水上に浮かぶ船も泊まっている。


「ここ……どこだよ……?」


 まるで超高性能なVRゴーグルで、ゲームの世界を眺めているような景色だ。でも、何かが違う。今まで俺が遊んできた、どのゲームとも違う世界のような気がする。でも、なんでだろう?


 第一印象では中世西洋風ファンタジー世界の港湾都市かとも思ったけど、『中世』や『西洋風』という言葉は、この光景には似合わないような気がした。まるで――


「うわっ!!」


 呆然と景色を眺めていた俺は突風に煽られ、のけぞって尻もちをついてしまった。

 青い鱗に覆われた、翼の生えた熊くらいの大きさの何かが――いや、あれは間違いなくドラゴンだ――目の前を水平移動していった。

 それは箱のような何かを腕に抱えながら、翼をはためかせながら、隣のベランダへと器用に着地した。よく見たら青と白のツートンカラーだ。


「あら、おはよう。オーガちゃん」


 声の主の方を見て、俺は固まった。彼女の肌は、俺以上の真緑色をしていたからだ。絵の具やペンキで塗ったような、ほうれん草のように濃い緑色をしている。

 その太り気味の中年女性の耳は“俺”と同じく尖っていた。髪の色はピンク色で、羊のようにモコモコとしたパーマが、その輪郭を覆っている。

 青白のドラゴンは抱えていた小箱を女性に渡すと、ひと鳴きして翼を広げ、ものの数秒のうちにどこかへと飛び去ってしまった。


「どうしたの? そんなところに座っちゃって。気分でも悪いの?」


 俺が首をブンブンと左右に往復させている間に、ピンク色のパーマヘアに緑色の――“俺”の肌よりもずっと濃い深緑色の――肌をした、異様な出立ちのおばさんは、微笑みながら部屋の中へと戻っていった。


 ふと俺は、海で溺れているかのような息苦しさを覚え、忘れていた呼吸を慌てて繰り返した。

 ここには吸いきれないほどの空気があるはずなのに、吸っても吸っても満たされないような気分だった。

 しばらく手すりに掴まりながら屈んで呼吸を整えていると、次第に胸の奥底から乾いた笑い声が湧き上がってきた。


「これだ……。これだよ。ようやく俺の番が回ってきたんだ」


 こういう展開は、WEB小説で何度も読んだことがある。

 現実世界に絶望した主人公が、見知らぬ異世界へと飛ばされ、その地でもう一度人生をやり直す物語のジャンルを、俺は知っている。


 後ろに大の字の形で寝転びながら空を見上げると、四方八方に飛んでいく様々な色や模様をしたドラゴンたちの姿が見えた。

 ここは、俺の見知った世界じゃない。

 どこだか知らないけど、俺が絶望していた世界なんかとは、時空間の異なった世界だ。

 俺の魂は、この異世界へと移って、この子供ゴブリンの体に宿ったんだ。


 呼吸が整ってくると、割れるような頭痛もいくらかマシになっていた。

 胸の内から込み上がってきた感情は、嬉しさと清々しさが半々で混じり合う、蒸し暑い真夏に冷たいハチミツレモンサイダーを飲み干したあとのような爽快感だった。


「そうか、これが異世界転移ってやつか……」

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