第3話『人はストーカーと共存出来るか?』

 「もお我慢できませぇぇぇんっ」


 昼過ぎ、人気がまばらな社員食堂。

 西城輝美の前で、同じ売り場で働く派遣社員が悔し泣きをしている


「最初っから最後まで、あの人のミスじゃないですか。いいえ、ミスなんてカタカナじゃないですよ、過失とか怠惰ですよ。それで、どうして店長の怠惰を私がひっかぶるんですか!」

「私もそれは分かっている、売り場の皆も分かっているわよミノリちゃん。あなたは間違っていない、今回のお客様からのクレーム原因は、元は全てあの店長の過失と怠惰だって」


「テルさんや、他の皆さんは分かって下さっているとは知っています!」


 大久百貨店九階文具売り場「筆記ラボ」の、文具メーカー派遣社員である日南山ミノリは、涙を拭いた。


「でも、私が一番分かって欲しいのはあの店長なんです!」

「……」

「だってそうじゃないですか! 本人に自覚が全くないんだもん!」


 ――事の起こりは、売り場に持ち込まれた一本の『モンブラン』万年筆の修理だった。

 ドイツ製の名門メーカーの万年筆である。叔父から譲り受けたこの万年筆のペン先の修理をと、持ち込んできたのは、大北香澄店長の「オトモダチ」だった。


 ペン先が痛んでいたので、交換することになった。万年筆のペン先は10年から30

年は使い続けることは出来るが、落としたりして歪むこともある。

 受付をしたのは当然大北店長で、万年筆の修理手配は、メーカー派遣社員の日南山ミノリである。


 万年筆のペン先は無事に交換完了、現品も百貨店に送られてきたので、後はお客に連絡して引き取りに来て頂くはずだったが。

 客に連絡しようとしたミノリを、大北店長は止めた。


「あ、アナタじゃダメダメ、あの人私のお客だから、私が連絡しなきゃ」


 そして、こうも言ったという。


「だって、キヤマさんてば、モンブランの修理をわざわざここに持ち込んだのは、私の顔見たさと声の聞きたさの口実だって、そう言っていたもん。期待裏切っちゃ悪いでしょ」


 確かに通常10分で済む修理の受付を、1時間にわたって店長相手にデレデレと一人占めにしていた男客である。

 分かりました、お願いしますとミノリはあっさり引き下がる。

 ……そして、そのモンブランは依頼主のキヤマ氏に連絡しないままで半年放置された。


 見事なクレームにつながってしまった。

 厳重注意を受けてしまったのは、何故かミノリだった。


「あの人、私になんて言ったと思いますか! 自分で頭をこつんと叩いて、えへっごめーん、わすれてたぁですよ! なんですかそれは!」


 人間火炎放射器と化したミノリの炎を、輝美は受け止めた。


「勤務ローテーションは、売り場の皆より自分の予定優先! だって私、お誘い多いから、時間のやりくりが大変で仕方ないのよ、あなたたち協力してって、それが店長の言葉ですか!」


 その後も吹き上がる大北店長への不平不満と糾弾、なぜ店長の業者への連絡ミスに担当への引継ぎミスを、発注ミスを私たちが残業してまでカバーするんだとか、そのくせ本人は、責任者のくせに何があっても絶対に残業しないとか、輝美にとってはミノリ以外の人々からも聞かされ続けて、耳にタコ、聞き飽きた話だった。


 ミノリの泣き言は続く。


「なんであんな人が店長しているんですか! そんな資格があの人にあるんですか? 上の人は何を考えて、あの人を店長にしたんですか! まさか美人だからですか? 下の人間は迷惑ですよ、何とかしてもらえないんですか!」


 そうよねえ、と輝美も遠くを見た。

 百貨店は女性が圧倒的に多いが、上層部は圧倒的な男社会だ。

 そうすると、あの大北の美貌は武器である。何しろ「ド級」の美女なのだ。

 例えるなら、若き日の岩下志麻と若尾文子を足して二で割った、小津安二郎の映画ヒロイン級美女である。


 しかも声はマリリン・モンロー。

 あの顔で、あのかすれた甘い声で「何で赤信号を渡らないの?」と耳元で囁かれたら、どんな男でも迷わずに車道へ向かって全力疾走するだろう。

『人徳も能力もないくせに、女の武器を使って成り上がった』そう思われても無理はない。


 しかし。


「ミノリちゃん」


 静かに問うた。


「じゃあキミは店長みたいな、あんな女になりたい?」

「え?」

「アホだぞあれは」


 輝美は簡潔に述べた。例え陰でも部下が上司を「アホ」呼ばわりするのは、後ろめたさや罪悪感がつきものだが、あの大北店長に限ってそれはない。


「給料日五日前には、財布の中に300円しか入っていない40過ぎの女だぞ」

「え?」

 さんびゃくえん? とミノリが呆けたのも無理はない。小遣い日前の中学生の財布以下の金額である。


「でも店長なら……収入はそれなり……」

「マンションの家賃もそうだけど、化粧品とか衣服代にエステとお金が大変なのよ、あの人は。言っておくけどね、字面は単純だけど、内情は私たちの想像を上回るからね。例えばあの人は、全自動洗濯機にはボタンが多いから使えないって、洗濯が出来ないのよ。下着からブラウス、ハンカチからバスタオルまで全てクリーニング屋、ストッキングはそれが出来ないから使い捨て。クリーニング代だけで万単位とか」


「……」

「貯金なんてないって。食べるにも困る月があるらしいわ」

「……え?」


「まあ食費は……男性におごってもらえるかもだけど、でも店長、たまに社員食堂でお昼の定食を晩御飯用にテイクアウトしているからね。ホントは規則違反だけど」


 社員食堂の食費は、給料から天引きである。


「財布に300円でも、クレジットカードがあれば当面しのげるでしょうよ。でも店長はクレジットカードが作れないの。カード会社の審査に通る通らないの問題じゃなくて、審査の段階にすら到達出来ないのよ」


「……」


「クレジットカードの申込書って、引き落とし預金口座の使用印を押す必要があるでしょ、その印鑑がどれだか分からないんだって」


 使用印と違う印鑑を押せば申込は受理されず、申込書はカード会社から返送されてくる。


「でも、今は印鑑分からなくても、ネットで申し込めますけど」

「あの人、申し込みの入力フォーマットに入力が出来ないの。半角とか全角とか間違えたら、送信前に赤字でエラー出るじゃない? それを何度もやり直している内に、自分の存在が否定されている気がして、もうカード要らないってパソコンの前で泣いちゃったんだと」


 ミノリの怒りが消えていく。

 怒りの熱が冷めていき、やがて「まさかそんな」と青ざめた怯えに変化していく。

 輝美は頷いた。

 そう、あれは「美人ゆえに甘やかされた結果のアホ」ではない。


 成れの果てではない、元がアホなのだ。

 神様はあの「アホ」大北香澄が、この世界で生きていくための唯一の武器として、あの美貌をお与えになったのである。


 頭の中は三才児なのだ。自分は何をしても許されて、存在を愛されて当然というのは己の美貌を自覚した確信犯ではなく、幼児の万能感である。

 販売業より、ホステスとか水商売に行けばよかったのに、そう思ったこともあるが撤回した。水商売は美貌プラス頭の回転が必要な接客業だ。しかし、大北店長は回転させるそのものがない。


 本当に、美貌しかないのだあの人は。

 テルさん、すみませんと、ミノリが頭を下げた。


「あの大北店長の下で、こうやって私たちの話を聞くテルさんの立場のほうが大変なんですよね」

「気にするな、ミノリちゃん。でも店長以外は常識と良識の人しかいないから、ありがたいわ」


 輝美は虚ろに笑う。


「それに、あの店長のためにいちいち涙流していたら、脱水症状起こすわよ」


 そう、そしてあの店長の思考回路の仕組みにいちいち驚いていたら、想像力が狂って頭が壊れてしまう。

 輝美は、今朝の売り場での会話を思い出していた。


 ――午前中、売り場は空いていた。

 この日はフジワラ氏が来店していた。飲食店を経営しているとかで、平日の午前中に顔を見せることが多い。


「万年筆とは、この世で一番洗練された筆記具だと思うのですよ」


 フジワラ氏は、売り場のガラスケースを眺めながら、滔々と大北香澄店長へ万年筆への愛を語っていた。

 香澄、そして輝美も笑顔であいづちを打ちながら接客をしていた。


 万年筆コレクターのフジワラ氏は、大北店長のファンでもあった。万年筆を買うときは必ずここで買ってくれる、有り難い上得意だった。


「万年筆は、書くためだけの文具ではありません、人から人へ受け継がれる美しさを持ちながら、物を書く機能性まで備えている! なんと素晴らしい」

「その通りですわ」


 にっこりと香澄が頷く。


「おお」


 フジワラ氏は店長の微笑に深く感嘆した。

 古き日本映画の清純なヒロインのごとき姿に、客が見惚れている間に、輝美はさりげなく商品をケースから出した。


「それは……アウロラの限定品、万華鏡(カレイドスコーピオ)……なんて美しい」


 淡いグリーンとブルーが混じる、万華鏡を覗いたような幻想的な色合いだった。


「ええ、仰る通りです」


 ほほ笑みながら香澄は万年筆を手に取る。

 イタリア製の万年筆だった。大理石調のデザインが美しい。


「さあ……手に取って、良くご覧になって……」


 香澄が甘い声で、白い手袋をつけた手をフジワラ氏に差し出す。まるで「手を握って下さいな」とでも言わんばかりの風情に、フジワラ氏が桃色の空気に包まれた。

「見事だ」ペンではなくて香澄を見つめ、語り続ける。


「万年筆は……文字を書くための芸術品です。もしくは「芸術品で文字を書く」のです。僕は、日記を書くのは必ず万年筆をと決めています。手紙も良いですが、万年筆は日記を書くのが一番似合う。一日を表現するインクの濃淡や抑揚、なんといっても紙を滑るペン先の感触に、文字を描くインクの流れが何ともいえない。一日の締めくくりにぴったりのペンと思うのです」


「まあステキ、毎日日記をお書きなんですね」

「ええ、帳簿はエクセルですが、日記は手書きです……ここでの貴女との語らいも全て……」

「ステキ、わたくしの事も書いてくださっているのね……万年筆で」

「その通りです……今日からこのカレイドスコーピオで貴女を書きます……」


 ――かくして、フジワラ氏は十万円ほどの万年筆をその場でお買い上げになった。

 フジワラ氏を見送りながら、ふふふと輝美は内心ほくそ笑み、香澄を横目で見た。

 これで今月の売り上げノルマは果たした。

 そして、さりげなく香澄に話しかける。


「日記を毎日なんて、その根気はすごいですよね。面倒くさくないのかな」

「根気? 要らないわよそんなもん」

「へえ、店長、日記なんか毎日書いているんですか?」


 意外だった。輝美は感心したが。


「うん、私じゃないけど、誰かが私の日記を書いてくれているのよ」

「ああ、フジワラさんみたいにね」

「ううん、フジワラさんじゃなくて。顔も知らない人」


 文章的に、おかしくないか? しかしその意味を、輝美は考え直した。

 それでもやはり意味はこうなった。


「えーと、店長の一日を見知らぬ誰かが日記として書いている、という事ですか」 

「ええ、そうよ。毎朝ポストに、私の事を書いた日記が入っているわ」

「……」

「あ、でもどちらかといえば、手紙かな……あのね、今朝もそれが入っていたから、出かけにバッグに入れたの。見せてあげるから、ちょっと待っててね、ロッカーから取ってくる」


 数分後。


「はいこれ」


 安っぽい便せん書かれた鉛筆の文字に、輝美はのっけからぶっ飛ばされた。


『あなたの崇拝者より、我が女神香澄へ』


 気分は、ギャラクティカマグナムで場外である。


『〇月〇日。香澄、僕は、今日もあなたを見つめる。貴女は九時の電車に乗り、店の通用口へ。そして僕は開店と同時に貴女のいる売り場へと向かう……見果てぬ夢よ、永遠にこおりつきセピア色の化石となれ』


 文章は続く。


『貴女は美しい。しかし、百合は己の美しさの意味も、そして価値すら知らない。その無知さと純粋さが、この僕を惹きつけてやまない。それは甘き毒薬、悪魔の美酒、天使の罠だ、誰かこの男に救済を……しかし、私はあなたのために、その救済をはねつけよう』


 場外へぶっ飛ばされた後、落下したところをペガサス流星拳。

 崇拝者は、筆記ラボの売り場に立つ香澄の美しさを、気高さを称え、訪れる男性客に憎悪をぶつける。


『お願いだ、貴女のその美しさを、腐りはてた野獣のごとき男どもへ安売りしないでくれ。春の女神のごとき貴女の微笑は、眼差しは、あんなすだれ禿に施すものではない。そんな俗なものではないのだ。その神のつくりもうた天の工芸品のごとき美しい手を、あの歩く肉まんへ差し出さないでくれ。貴女のその仕草が、哀れで下賤な男どもに施しを与える、女神の行為だとしても、貴女の崇拝者たる僕は許す事は出来ない。青白い炎に身を焼かれる思いだ』


「えーと、この日のすだれ禿って、ペリカンのスーベレーンお買上げのヤマダ様で、肉まんはデュポンのデフィのカトウ様ですか」

「ええ、お客様の特徴をよく見ているわねえ」

「このお二人は、超お得意様ですよ!」


 確かに、商品の受け渡しついでに手を握るような輩ではあったが、定期的に数万円単位の買い物をして下さる客である。スケベでもリターンは大きい。


「しかも『悪しき資本主義の泥濘の中で、ただ一つ美しく光り輝くダイヤであり、可憐な白百合である貴女を守りたい、汚れた男たちから貴女を遠ざけ、守りたい』そんなこと抜かすくらいなら、ペンの一本でも買え! 客を店長から遠ざけたいのなら、代わりにコイツが売り上げに貢献するのが筋ってものです! おまけに、この世界を破壊し、貴女と新しい帝国を作りあげ、楽園を』とはなんですか、テロ願望?……て、ちょっと待て!」


 思わず輝美は香澄を見た。


「これアナタ日記とか手紙っていうんですか!」

「ま、手紙でもあり日記でもあり、だってほら、私の行動とか、接客したお客様のことを細かく書いているの。最近郵便受けに入っているのよ」

「ちっがっう!」


 怒鳴りかけたが、場所が売り場であったため、条件反射的に声が低くなったのは販売員の訓練の賜物だった。


「そう怒らないでよテルちゃん。この人、売上には貢献できなくても、私自身に貢献を捧げているのよ」

「……何ですそれ」

「家に帰ったら、部屋がキレイになっているの。彼、他の人たちみたいに、私のためにプレゼントするお金は無いのよきっと……だから私という女神に労働力を提供しているのね。ほら、寄進できない信者って、教会に奉仕活動とか労働力を提供するじゃない?」


 カオスに心が吸い込まれた。

 意識外で、香澄の声が聞こえる。


「ゴミや紙屑をそこにうっちゃってても、ちゃんと拾ってゴミ箱の中に入れてくれるの。お洋服とか、タオルとかも、その辺りに放っておけばね、洗濯してアイロンまでかけてくれているのよ。私の代わりに、この「崇拝者」が陰ながら洗濯機を使いこなして、お部屋の掃除とかしてくれているのよ。もうクリーニング屋さんへ行かなくて良くなったの!」


「……」

「『この妖しき美の人口楽園に、私はこの身を捧げる』メモがあったの」


 鍵、と輝美は口を動かした。


「店長のマンション、オートロック……」

「うん、そう。マンションの八階でね、管理人さんも毎日ちゃんといてオートロック。女の独り暮らしだから、防犯には気を使って、ちょっと家賃が高いけど」

「いやその……それなのにどうして賊に侵入されたんです?」


「分かんない。でもね、ちょっと前にどこかでキーホルダーつけたまま、鍵を落としちゃったことがあったの。ショックだったわあ、だってキーホルダーはグッチだったのよ」

「……」


「それがね、無くしたと思ったその日に、私の家のポストの中に入っていたの! キーホルダーにネームも入っていないのに、なんで私のだって分かったのかなって不思議だったけど、でも戻って来たからいいわって。だってグッチはお気に入りだし」

「……ツウホウしてください」


 我ながら遠い声だった。


「え?」

「どう考えてもどこから見てもどの角度から検証しても、これは不法侵入でしょう! 八階も防犯も何も、木っ端みじんに何しているんですかアナタ! 警察に通報です! この変態、絶対にボードレール唱えながら店長の使用済み下着あさってストッキングの匂い嗅いでシーツに包まってトイレの便器に体こすりつけてますって!」


「て、て、ててテルちゃんたら下品!」


 香澄が両手を口に当てて、ひぃぃと悲鳴を漏らした。そして、何かを振り払うように、イヤイヤと顔を振る。


「だってこれ、ドロボウじゃないもん! 何も取られてないし、通報なんて出来ないわ……だってそれに……便利なんだもん!」

「はあああああ?」


「だって、私お洗濯もお掃除も苦手なのよ? でも家に帰ったら…虫とかカビとか、床に変なキノコとか、色んなものが生えていたり飛んでいたり……今まで私、部屋を見るのもつらくて、悲しかったのよっ……テルちゃんには理解できて?」


 セリフを無くして絵だけを見れば、愛する男に不貞を疑われて詰問され、潔白を訴える恋愛映画のヒロインである。


「いやっ……この便利さを捨てるのはいやっ」


 漂白された中で、輝美は何故か思い出していた。


 ……その昔、三才だった姪の知佳が、死んだゴキブリを拾って遊んでいたので「バッチいから捨てなさい!」と叫んだ日のことを。

 そして、姪に「いやだあ」と駄々をこねられたことを。


「下手して刺されたらどうするんですか?」

「良いのよ、だっていつも違う人が刺されているもの」

「はあ?」


「それとも、そんなこと言うテルちゃんが、代わりに私の部屋を掃除してくれるの? ゴミ出しもお洗濯もしてくれるの?」

「……」

「出来ないのなら、口を挟まないで」


 香澄はそっぽを向いてしまった。

 その目に浮かぶ涙に、輝美は思った。

 ――三才児なのだ。


 例えド級美女でも、中身は三才児なのだ。

 三才児にとって重要なのは、自分が快か不快かだ。そうなると、死んだゴキブリも外国製の積み木も、全て玩具として同じカテゴリにある。

 香澄にとっては、男は「自分に優しい、都合がいい」ならそれで良いのだ。


 相手がストーカーで不法侵入者の変態でも、家事無能者の香澄の快適な生活のためには必要で、平和に共生できるのなら、それで良いではないか。

 世界はそれで平和なのだ。

 どんな形でも平和は平和だ。


 平和は尊く、壊してはならないと輝美は自分を納得させた。

 しかしあの香澄の「帝国」に入って、平気な人間がいるとは思わなかった。世の中は恐るべき、衛生の耐久性ある持ち主が存在する。

 どっちとも関わり合いになりたくないと、輝美は心の底から思った。



 小池礼二は、この世の中を生きるのに、自分は純粋過ぎるのだと思っていた。

 礼二は自分を偽るのが嫌だった。人に合わせて自分を押し殺し、言いたいことを言わずに言いたくない事を言うことは、自分への裏切りであり、汚れた迎合と精神の敗北だった。


 当然、人付き合いは悪い。礼二の評判は「変人」「協調性なし」という看板と値札だけがつけられた。が、礼二には分からない。

 自分に素直な事が、何故悪いのか。

 現に「あなたはありのままでいい」と詠う詩人がいて、彼の詩は添えられた墨画もセットで世の中に受け入れられているではないか。


「作家になろう」


 孤独を経て、礼二はそう思いついた。

 自分の純粋さは、瑞々しい感性と才能の証明だと思われた。何よりもこんな自分が就職し、社会の片隅で労働するなど何かに対する敗北だった。


「小説を書こう」


 礼二は思った。

 絵は描けなかったからだ。


「世の中の生きづらさや、理解してもらえない魂の孤独を描けるのは、俺しかいない」

 ――そう決意し、数年がたつ。

 書いた。そして投稿した。

 一次すら通らない。

 どうして落とされるのか、礼二には理解できなかった。


 応募規定の枚数不足に過多、話の途中で終わっているもの、締め切り日に間に合わなかったことはあった。だが作品には自信があった。

 一行でも読めば、応募規定など吹き飛ばせる素晴らしい作品なのだ。繊細なストーリーに瑞々しい感性、誰にも書けない天才の作品である。


 そんな作品が何故落とされるのか。投稿四回目、新人賞の一時通過者に、自分の名前がどこにも見当たらない雑誌を握りしめながら、ようやく礼二は悟った。

 選考委員にやっかまれたのだ。

 彼らはプロだ。プロなりに礼二の才能を見抜いたに違いない。


 きっと、礼二を恐怖したのだ。新人を発掘する義務感よりも、見たこともない才能の出現に怯え、保身と嫉妬の邪心のほうが勝ったのだ。

 礼二は絶望した。これこそ天才が故の悲劇だった。見出したはずの灯が、汚い世間の妬心と陰謀で消されてしまったのだ。


 しかも、結婚して出て行ったはずの姉が、二世帯同居を両親に持ち掛け、そのせいで家から追い出された。

 親が所有する、狭いワンルームマンションに押し込められた。家賃はタダでも、それ以外は自分で賄えと突き放されて、仕方なくコンビニでバイトを始めた。


 灰色の箱と暗い部屋を往復する日々。

 しかし、諦めと怠惰の中で礼二は次の光を見つけた。


 その光は「大北香澄」という。


 彼女がコンビニのレジの前に立った時、礼二はスキャナーを取り落とした。

「運命の女神」陳腐だが、これ以外の言葉が見当たらなかった。

 これほどの美女を、間近に見るのは初めてだった。


 この出会いは、運命の崇高な何かによって導かれたのだと、礼二は確信した。

 彼女こそ自分が書くべき「物語」なのだ。作家になると思いついたのは、きっと彼女との出会いを予感していたのだ。

 彼女を書かなくてはならない。


 忘れかけていた情熱が、獰猛なほどの「創作意欲」の炎が礼二を焼いた。

 礼二は、香澄を追った。

 まずは住所だった。公共料金の請求書を暗記し、香澄を待ち伏せて確認した。

 コンビニ近くのマンションに住んでいた。


 礼二の住むワンルームとはかけ離れた、見るからに高級そうなマンションだった。この八階に彼女は住んでいた。

 朝、出勤する香澄を追った。

 香澄が働いているのは、国内でも有数の百貨店だった。


 どうやって探せばいいのか分からずに、香澄の姿を探して売り場の中を一日中歩いた。

 高級宝石売り場や婦人服だったら、怪しい人物と思われると危惧していたが、幸い香澄は九階の『筆記ラボ』という筆記用具専門売り場だった。


 見るからにスタイリッシュな小物に囲まれて、きびきびと働く香澄は、知的で清楚だった。だが、すぐに礼二は怒りの穴に落とされた。

 客である。

 やってくる客は、男ばかりだった。


 しかも、皮膚から浮き出た脂でコーティングされたような、下卑た年寄りたちばかりだった。百貨店の筆記用具よりも、芯が折れたチビ鉛筆、ろう石やチョークがお似合いの奴らばかりである。

 誰がどう見ても、目的は売り場の香澄だった。


 香澄が商品ケースの中身を取るために、やや腰をかがめて俯く仕草を、結い上げた黒髪から零れ落ちる白いうなじを、好色極まりない目で見つめ、商品を差し出す美しい手を握る。


「99,000円になります」

 香澄へ向かってへらへらと財布を取り出す男共に、礼二は怒りと悲しみで気が狂いかけた。自分にとって聖なるものを、金で買われている気がしたのだ。

 礼二は手紙を書いた。


 彼女へ哀願した。その美しさを安売りしないで欲しいと、世の野良犬を相手にするなと、不安でたまらないと警告と慟哭を訴えた。

 手紙の返事は来なかった。

 それどころか、売り場で男客に笑顔を振りまく、彼女の態度は変わらない。


 礼二は落胆した。

 何故、分かってもらえない。

 どうしたら分かってもらえるんだ。どうすればいいのだ。

 ――その日も、礼二は返事をくれない香澄を、煩悶しつつ売り場の陰から見つめていた。


 違う売り場へ用事があるのだろう。黒いハイヒールを履いた脚が、律動的に通路を歩いている。その可憐な後ろ姿を、礼二がひたすら目で追っていた時だった。

 香澄のスカートから何かが落ちた。

 しかし、香澄は気が付かずにそのまま去った。平日の午前中で、客がほとんどいない時間帯だった。


 礼二はそれを拾い上げた。

「鍵だ」鍵を拾い上げたまま、しばらく動けなかった。

 鍵を持って、香澄を追う事も出来た。本来なら落とし物だと言って、サービスカウンターに届けるべきだ。


 いや違う。

 これは天からの贈り物なのだ。

 礼二はこの幸運に確信した。

 この鍵を使い、彼女の元へ行こう。


 そして自分の気持ちを訴えるのだ。どれだけ真剣に自分は香澄を愛しているのか、心を痛めているのか。

 きっとこの鍵は、そのために神が授けてくれたのだ、神が、礼二の香澄への気持ちを真実と認めてくれた証拠なのだ。


 この鍵を持って、お前の女神の神殿へ赴けと告げている。香澄の愛を手に入れろと、愛の神に命じられているのだ。

 喜びと義務感が礼二を圧し潰した。


「行かなくては」


 礼二はその場で、香澄の鍵の複製を作りに走った。ためらうはずがない。彼女を守り、そして彼女の物語を書くのが自分の運命なのだ。

 神がこの鍵を与えて下さったのだ。

 彼女に自分の愛を訴えるには、まず彼女のことを知らなくてはならない。売り場だけではなく、最も秘められた香澄の住処へ。


 そして彼女のベールをそっとめくるのだ。

 彼女の真実と魂を知る、書き写す、そのためには、彼女を知らなくてはならない。

 秘密の扉を開けずに、何故それが出来よう? 礼二は愛を求めて戦いの場に赴く戦士であり、女神の愛の世界へ向かいひた走る駿馬だった。

 礼二は、すぐにマスターキーを作りに走った。


 あれから、礼二は香澄の部屋に通うようになった。

 もちろん、これが不法侵入という罪であることは分かっているし、もしも出くわせたら、彼女を驚かせてしまう。

 彼女の前に姿を現すのは、香澄が礼二の愛に気が付いてからだと考えている。


 時期を間違えてはいけない。

 まず、礼二は大久百貨店、香澄が勤務する『筆記ラボ』へ行く。

 そして売り場の陰で、香澄が百貨店の売り場にいることを見届けてから、礼二は彼女の部屋に向かう。


 ――今日も、香澄が売り場にいることを見届けてから、礼二は香澄のマンションに入った。

 鍵を差し込んで回した。

 ドアが開く。

 カチャリと心地良くドアが開くと、礼二は、香澄が両の腕を広げて、自分を迎え入れてくれる姿が見える。


 急いで出たのだろう。

 玄関には、蹴とばされた色とりどりのハイヒールが散乱していた。

 恐らく、昨夜仕事から帰って来た時に脱いだのだろう。裏返ったストッキングが落ちている。白いブラウスが靴箱の上に引っかかっていた。ジャケットにスカート、下着がリビングへの道標のように落ちている。


 彼女の匂いが染みついたそれを、礼二は宝物のように拾って歩く。一晩経っても、体臭と香水の混じる匂いはまだ残っている。

 それは香澄そのもの、彼女だけの匂いだった。それを嗅ぐことによって、礼二は香澄と一つになれた気がした。


 ――リビングに入ると、今日も全てが散乱していた。クッションに雑誌、本、新聞にチラシに何かのカタログが床にある。

 女性誌にレディスコミックが、テーブルから椅子に雪崩を起こしている。

 小物や雑誌でスペースを奪われたテーブルに、スチロールの丼の器があった。


 菓子パンの空き袋、パンくずが落ちている。

 飲み残しのペットボトル、乾いたコーヒーがついたマグカップ。


「ああ……今日もすごい」


 最初、この光景は衝撃的だった。

 まさか、と目を疑った。

 女神の神殿が、花園が自分の部屋と同じ蠅とゴミ袋の帝国とは想像もしなかったからだ。


 だが、今の俺は違う。

 礼二は香澄の汚れ物を洗濯機に入れ、抜け毛や細かな屑、切れ端が落ちている床に掃除機をかけた。


「彼女は、女神でありながら一人の女なのだ」


 女神でありながら一人の女、なんて甘美な表現だろう。

 彼女の全てを受け入れよう。礼二はうっとりと香澄を想う。

 本来なら決して手の届かない別世界の住人。だが香澄の部屋を通して、汚れ物やゴミを通して、礼二は今、香澄の生々しい姿を見つめている。


 汚れ物やゴミは忌避すべきではない、香澄の一部だった。シンクに溜まっている汚れた食器やコップも、生ごみの匂いも、蠅が飛んでいるゴミ袋も、曲がった雑誌も、礼二にとっては彼女の尊い生活の一部だった。

 彼女の全てを受け入れるのだ。


 礼二はうっとりと香澄を想う。

 そのうち、香澄は気が付いてくれる。自分の眼差しを、そして愛を。

 その日を妄想しながら、礼二は持って来た便せんを取り出して、この部屋の住人に手紙を書き始めた。


『〇月〇日。僕の香澄、今、僕は君の残り香と共にこの手紙を書いている』


 昨日見つめた香澄の姿を思い出し、便せんに書き写す。君は女神だと。それなのに、なぜあんな卑しいガリガリの男に神秘的な笑顔を見せるのだ。マムシに花束を投げ与えるようなものだと。


 書いている内に、腹が立ってくる。こうやっている間にも、彼女へ下賤な男たちが手を伸ばし、そして香澄は自分の気持ちにお構いなく、女神の微笑を奴らに与えていると思うと、居ても立っても居られない。

 礼二は立ち上がった。


 こうしてはいられない。今から売り場に行かなくては。

 書いた手紙は、郵便ポストに入れる。

 そして礼二は香澄の勤務する大久百貨店の9階、筆記ラボへ向かう。

 香澄は売り場にいた。


 黒っぽい色のパンツスーツに、淡い水色のブラウス。あのブラウスは自分が洗濯してアイロンをかけておいたものだと、それを彼女は身に着けているのだと、礼二は天に昇る心地で香澄を見つめる。

 地味なスーツ姿の女が、香澄に何か聞いている。


「そうね、任せるわ」


 にっこりとほほ笑む香澄に対して、女の顔は愛想もない。


「分かりました……じゃ、店長に一任されたってことで勝手にしちゃいますよ」

「テルちゃんの勝手にしちゃって。だって、私、そういうのよく分からないし」


 店長、いつもそうなんだからと女が息をつく。

 売り場の陰から、礼二は香澄に見惚れた。

 女神の……いや、天使の微笑だ。

 だが、その恍惚もすぐに緊張と怒りに代わる。


 下賤な男たちが、次々と売り場を訪れた。

 口々に「香澄ちゃん」「店長」「大北さん」と汚い声で女神の名を連呼し、ガラスケースに群がり始める。

 やはりこれだ。礼二は歯ぎしりした。


 目を少し離している間に、油断も隙も無い。

 そして、香澄のあの愛想の良さはなんだ。あれだけ手紙で訴えているのに、何故分かってくれない。あの笑顔を僕以外の男に向けるとは何事だ。何故その笑顔を、君は安っぽくばらまくのだ。


 どうやって、この想いを彼女に届ければ良いのか。

 礼二は、煩悶の沼に沈んだ。


「またあの人、来てますね」


 カウンターの上で、商品カタログをチェックするそぶりを見せながら、派遣社員のミノリが輝美に囁いた。


「3時の方向、柱の陰です。モスグリーンのジャージ上下、推定年齢30代の男……午前中も見ましたよ。しばらくいなくなって、また戻って来たみたい」

「モスグリーンという洒落た色じゃないわ。あれはドドメ色っていうのよ。奴と目を合わさないよう、気を付けるのよ、ミノリちゃん」


 納品書をめくりながら、輝美は小声で言った。


「テルさん、警備員さんを呼びますか? 百貨店であんな恰好は普通じゃないです。しかも毎日来ています。ヤバい人ですよ」

「うーん」


 輝美は考えるふりをして、男の方向へ何気ない視線を放り投げた。

 確かにミノリの言うとおりだ。くたびれたジャージ上下、草履のようなスニーカー姿に、社会性は全くない。百貨店に来る客にそぐわない。


 ドレスコードはなくても、非日常的空間を演出しているのが百貨店だ。自然、人はそれらしき服装で店に入る。

 しかし、それ以上に百貨店側は接客に気を遣う。

 どんな風体でも、いくら怪しくても汚くても、万引き犯や指名手配犯以外はお客様なのだ。


 他の客から苦情が来ない限りは、来店客は丁重に扱うものと教え込まれている。

 それに百貨店は、あの程度の『怪しい客』はそう珍しくはない。

 人が集まる場所は色々な人間がやってくる。特に販売業とは基本「来るもの拒まず」その中でも特に接客は礼儀正しく、華やかな場所の百貨店は「おかしな客」のるつぼなのだ。


 徘徊する痴呆老人に、どこもあても行き場もなく、さまよう人間。

 ストーカーは特に多い。

 職業訓練された商売上の笑顔を自分個人への好意と勘違いし、お気に入りの店員をつけ回す輩は多い。


 接客中に逆恨みを買ってしまい、執拗に追いかけてくる者もいる。

 逆恨みに恋の勘違い、販売員を三年以上続けたら必ずどちらかには巻き込まれる。

 輝美はどちらも一度は経験がある。


 撃退マニュアルは一応制定されているが、向こうから手出ししてくるまでは、店側から動けない。

 お客様の扱いと店員の保護の両立、接客業の難しいところでもある。


「なんだか、店長に話しかけているお客さんを凄い目で見ていますよ」


 ミノリの嘆きに、輝美はため息をついた。


「お客さんを襲わないかどうか、細心の注意を払いましょう。もしも誰かに危害が及びそうになったら、私が必ず阻止する」

「テルさん……」

「何よ」


「男前です。大北店長はいつだか、こう言っていましたよ。『テルちゃんが男なら結婚してあげたのに』って」

「絶対にヤダ」


 輝美は言い切った。


「あー、あの男ですね。こっちの売り場からでもよく見えています。有名ですよ」


 お昼の食堂で、今日も素うどんをすすりながら印布は言った。


「だって、紙雑貨と筆記ラボは、通路を介してお向かいですからね。アナタの見える光景は、私にも見えるのです」

「気持ち悪い物言いするな」


 印布が突然、手帳を取り出した。滑らかな光沢の黒革に、ほう、と輝美はつい感心した。


「へえ、ASHFORDじゃないの。良いもの使っているわね」

「ハイ、社内割引きで安く買えました」

「……」

「ほほほ、これぞ正に悪魔の手帳」


 細身のボールペンを取り出し、何か書き始めた。そして「じゃん」といいながら輝美に突き出す。

 あの変質者の絵だった。しかも似顔絵ではなく、売り場の陰でこちらを伺っている男の風景画になっている。

 狂気を凝縮し、何かの道連れを求めてこちらを見つめる男の姿は、リアルを煮詰めた迫力があった。とてもボールペン画とは思えない。


「……すごい」

「ふふふ、そうでしょ。カモイレイ仕込み」

「……カモイレイ? もしかしてあの……」


 30年以上前に早世した画家である。どこを切り取っても虚無と苦しみが滴るような作品を残した、死に魅せられた天才だった。


「あのカモイさん、周囲に死ぬ死ぬって狂言自殺繰り返して、ついうっかり本当に死んじゃったでしょ。自殺に加えて迷惑さで地獄行き。そこでお会いしました。『デッサンを大事にしろ、凝縮した一点を絵に込めるんだ』と、それがカモイ先生の絵のご指導の決まり文句でね」

「……」


 印布が笑顔を浮かべながら、にんまりと絵を見つめた。


「コイツ、滅茶苦茶美味そう」

「は?」

「テル姉ちゃんにも、薄々分かるでしょ、こいつが誰目当てでここに来ているのか」

「大北店長かな」

「とはいっても、百貨店の客じゃなさそうですよ。どこで店長を見初めたんでしょうね」


 嬉しそうに印布は言った。


「あの店長は造形美においては申し分なしですが、頭の先から足の小指の先端まで、砂糖菓子で出来ていますよね。おまけに無警戒の隙だらけだから変態の誘蛾灯です」

「無警戒と隙だけなら良いけどね」


 ストーカーと共存出来るのだ。隙という次元ではない。

 どうなるのかなあ、と印布が呟いた。


「ホント、ストーカーって自分の愛、それこそが崇高だと思っていますからね。その愛を拒否したり否定したら、自分の愛を理解出来ないのかって激高します。自分が絶対に正しくて、間違っているのは相手なんですよ。恋の形を例えるなら一人二役のお人形遊びです。相手の事は自分が妄想し、投影しているんだから、本性見ちゃったら攻撃に移りますよ」


「本性、という点にかけては大丈夫じゃない?」

 輝美は投げた。


 あの恐ろしい部屋の掃除を嬉々としているのだ。本性も何もないだろう。

 しかし、こいつやっぱり悪魔だなと、輝美は印布を見つつ思う。

 最近は馴染んでしまったし、寝ぼけたタヌキのような姿に騙されそうになるが……やはり、何を考えているのか笑いは邪悪だった。



 何故、分かってくれないのだ。

 この日も、礼二は苦悩した。

 毎日香澄を守るべく、売り場をさりげなく歩き回り、陰で彼女を見つめている。


『香澄、君の笑顔は僕の宝なんだ』


 初めて出会った時の、香澄の笑顔の衝撃を思い出す。

 コンビニのレジで差し出された商品は、鳥の唐揚げ弁当だった。


『温めなくても良いわよ』


 花のような笑顔、そして甘い声。

 あの一瞬で彼女を愛した。あの時の彼女の笑顔は、礼二の心の中で永久に保存され、そしてあの甘い声を何度脳内で再生させたか。

 礼二にとっては、自分の運命を変えた大事なものだ。それを彼女は安々と他の男たちにも投げ与える。


 それは礼二の愛に対する冒とくでもあった。

 もう、我慢できない。

 売り場を伺いながら、礼二は柱の陰で思う。

 ここから出て行こう、そして彼女に訴えるのだ。


 時期早々かもしれない、もしかしたら驚かせてしまうかもと、気弱な想いがこみ上げるが、礼二はそれを打ち消した。

 もう何度も彼女の部屋に通い、彼女の空気を感じたのだ。そしてまた、彼女も姿を見せない礼二のことを想っているに違いない。


 二人、心を通わせていると思っている。何故なら、鍵を変えないからだ。

 それこそが、香澄が礼二をどう思っているかの証だった。礼二を忌避し、締め出すのは鍵を変えてしまえば良いだけだ。それをしないということは、香澄は礼二が部屋に入ることを喜んでいるのだ。


 ふらり、と礼二は立ち上がった。

 香澄へ向かって進む。憎らしい事に、香澄はまたも他の男客の相手をしている。

 ショーケースの前で香澄と肩を並べて、ペンをあれこれ吟味している中年男は、まるで恋人を気取っているようだった。憎悪が燃え上がる。


「店長、このタウンゼント、俺には可愛すぎるかなあ」


 目じりを下げて香澄を見る中年男。


「スターウォーズではR2―Ⅾ2が一番お好きなんですよね。それに杉野様のお手は男性にしては優しい手指ですから、クリーム色のボディはお似合いですよ」

「え、そお? そう思う?」


 もっと見てくれと言わんばかりに、中年男は香澄に手の甲を突き出した。

 その仕草の厭らしさ、ずうずうしさに礼二の殺意が爆発した。殺す……すぐ傍に、試し書き用のボールペンがある。


 その切っ先で、男の禿げ頭を貫き通さんとホルダーからペンをもぎ取った。

 そして男へ向かい、踏み出した時だった。

 ペンを持つ腕を、いきなり誰かが掴んだ。


「お客様、そのお手にある商品をご所望ですか?」

「え」

「試し書きでお気に召したなら、お出しします」


 香澄より若い女の店員が横に立っている。ジャケットの名札には「西城」とある。声は穏やかで口元は微笑んでいるが、目は鋭く光っていた。


「あ、あの……」

「どうぞ、こちらも同じシリーズです。お試しになりましたか?」


 礼二の腕を抑える力は強い。『西城』はもう一人の店員に目配せし、強い力でぐいぐいと礼二を売り場の端に引っ張っていく。

 警備員を呼ぶつもりだと礼二は悟った。逃げ出そうとした時だった。


「あら、小池さん」


 頭に、雷が轟いた。


「こんなところで、何かお探しですか?」


 礼二は、呆然となった。

 一転して、脳内に歓喜のオーケストラが鳴り響き、祝福の天使が舞い降りた。

 香澄が、こちらを見ている。

 そして、名前を呼んでくれたのだ。


 何故、香澄が自分の名前と顔を憶えているのか、憶えていてくれたのか、礼二は信じられない思いだった。

 悲しいことに、礼二は香澄をこれだけ見つめ、愛しているのに、現実は立話すらしたこともないのだ。


 出会ったバイト先のコンビニで、制服に名札をつけてはいたが、まさか憶えていてくれたのか。


「あ、ええと……」


 みっともないほど狼狽し、ガラスケースを見た。ペンがミサイルのように並べられ、陳列されている。

 そのとんでもない値段に目をむいた。文具は100円均一か、バイト先のものを黙って持ち帰ったことしかない礼二にとって、それは気違いじみた金額だった。

 たかがボールペンに、万年筆に、千どころか万の値段がついている。


「……」


 礼二は声が出なかった。香澄の前で「これを下さい」それを言えない自分に、矜持が軋みを上げた。

 さっき、殺そうとした相手と目が合った。まるで提灯のような男だ。体型にも顔にも、美しさの欠片もない中年男。


 だが、男が買おうとしているペンの値段に礼二は目を剝いた。

 6万円以上する。

 信じられない。だが、この男は香澄の歓心を買うために、この商品を買う力があるのだ。

 しかしそれは、礼二には持てない力だった。


 敗北感が押し寄せた。ケースの中の値札が礼二をあざ笑う。

 たかがボールペンに、万年筆に、千や万の金を出す人間が存在するのだ。


「……」


 香澄の前で「これを下さい」それを言えない自分に、矜持が軋みを上げた。

 自分から見れば、香澄目当てにやってくる客は、低俗で汚れた男共だった。

 だが、香澄の歓心を買うために、この商品を買う事は出来るのだ。それは礼二には出来ない事だった。


 敗北感が押し寄せた。ケースの中の値札が礼二をあざ笑う。

 店員を振り払い、逃げ出していた。


「くそっ」


 階段の踊り場で、礼二は壁を思い切り蹴り上げた。金のあるなしが、人間の価値を決めるのではないと、金持ちは愚かだとバカにしていたが、あの売り場において自分は間違いなく敗者なのだと思い知らされる。


「だけど俺は」


 礼二は自分を立て直した。


「香澄を本当に愛している。彼女の本当の姿を知っていて、心の底から彼女を想っているのは、香澄を守れるのは俺だけ……」

「ぷぷぷっ」


 笑い声。


 後ろに女がいた。小柄で若緑色の制服を着ている。


「何だよ貴様!」

「だって、あんまり旨そうなんだもん」

「はぁあっ?」


 頭に血が上る。


「何がうまそうなんだよ、店員が客に喧嘩売ってんのか? 礼儀知らずのクソがこの店にいるって、ネットに晒すぞ貴様!」

「礼儀も何も、毎日のように売り場の陰に隠れて大北店長を視姦しているお方が、何を言っているんです?」


 視姦、この言葉の意味に背筋が粟だった。店員風情が客に対し、信じられないおぞましい言葉で礼二の愛を汚したのだ。


「うっわぁ、素敵。なんてどす黒い。劣等感とか思い上がりとかエゴとか、人間性に負のうまみ成分が詰まっていますね。思い上がりはあっても、向上心が無いところが根性のチープさを際立たせています……ねえ、店長を好きなんだって?」


 礼二は怒鳴った。


「貴様、うす汚い言葉で俺を愚弄するな! 彼女は俺の女神で、運命だ! シカンだと? 獣どもから愛している彼女を見守っているんだ、この下種女!」


 女の笑顔が歪む。獰猛な衝動に襲われて、礼二は拳を振り上げた。そして、めまいを起こしてよろめく。


「……なに?」


 顔を上げたと同時に愕然となった。

 自分の部屋にいる。

 憂鬱と倦怠が充満している、灰色の狭いワンルーム。

 テレビ、冷蔵庫。散らかっているゲームソフトに漫画は、確かに自分の住処にあるものだった。


 さっきまでいたのは、百貨店の階段の踊り場のはずだ。何が起きているのか分からない。

 女も部屋にいる。部屋の中の制服の存在が、狂ったコントラストを醸し出している。しかも、女は床を拳で叩きながら笑っている。


「愛してる、だって!」


 女はひいひいと笑い、床のゴミを潰しながら床を転がった。


「愛ってホントに万能ですよね。どんな愚かな行動でも、エゴでも愛を言い訳にすれば、それで通るんだもん。ニートの思い上がりと現実逃避に正にうってつけ! ヴィーナスちゃん、あんまり人間が言い訳に『愛』を乱用するから、使用制限をつけようかってぼやいているのは知ってた?」

「……」


 こいつを殺す、そう思った時だった。

 女の姿が突然変わった。

 その姿に、礼二は驚愕のあまり全ての感情を取り落とす。

 目の前にいるのは。女ではなく自分自身だった。

 くたびれたぼろ雑巾の色をジャージ姿下。


 そういえば、いつ着替えたか覚えていない。

 もう一人の礼二は、礼二を笑う。


「生活するために働いてもいない、世の歯車にもなれないクズが、女神を愛して守る男を夢見て、ぬるくて甘い想像の世界で遊んでいるだけでしょ? でもって彼女に群がる他の男を見下して、自分が純粋な男であると自己満足しているだけでしょ?」


 己の愚かさを引きずり出し、醜く色をつけた笑い。

 直視したくない自分自身、愚かな笑顔に向かって、礼二は自分のために怒鳴る。


「おれは彼女を……彼女の物語を書きたいんだ!」


「うわ、さいっこーの自己陶酔! それ何の役に立つんです? ああ、純粋で世の中に馴染めない、孤高の魂を持っているからフツーに働けないんでしたね。自分で自分を養うことも出来ない、世の歯車にもネジにもなれない『純粋な人間』なんか、手足のついた生ごみですよ。生ごみに運命なんかあるんですか? 行先はありますよ。焼却炉」


 ホントは分かってんでしょ? にんまり「礼二」は笑顔を歪ませた。


「だって、彼女の物語も何も、アナタ一行も書いてないじゃん」

「……」


「大体、人間の恋愛って対等な関係を言うんでしたっけ? アナタ、店長と対等? 陰から店長覗いて、部屋に入って汚れ物の匂いを嗅いで、皿や容器に残った店長の食べ残しやソースをぺろぺろ舐めて、パンのカス口に入れて、風呂場で彼女の抜け毛を拾い集めて、ベッドの上でのたうち回って、トイレの便器……」


「やめろ!」

「店長の部屋に住みついているゴキブリと、同じ行動とっているだけじゃん。住人と家の害虫の関係って、恋愛とか魂とか関係あんの?」


 自分自身の首を絞めてやろうと思ったが、出来ない。

 この部屋で、ぐずぐずと暗い沼に呑まれていく。

 ――死って、平等ですよね。声が響いた。


「何をいきなり!」

「死の前には、全てが平等なんですよ。金持ちもビンボー人も、美女もニートも」

「……」


「アナタが大北店長と対等になるには、まあ『死』の前において他にないんじゃない?」

「……」


「死って無の世界です。ある意味純粋な漆黒の世界。アナタのいう薄汚い男たちの元から、大北店長を連れて無に還るのも一つの愛でしょう。まあどうせ、遅かれ早かれ人間って死んじゃうし、問題は時期が遅い早いってことだけでしょ?」

「……おい……」


 瞬きをした。

 消えている。

 突然、目が覚めたようだった。礼二はぼんやりと周囲を見回す。

 

 百貨店の踊り場ではなく。自分の部屋のままだった。夢を見たのか気が狂ったのか、自分でも分からないが……部屋の中で、靴を履いている。

 現実感も狂った中で、礼二の頭の中に女の言葉がグルグル回る。


『恋愛って対等ですよね……』


 対等になれる場所は、ここではない。

 そうだ、世界は現世だけではなく、いくつもの次元や空間が存在しているのだ。『死の世界』もその一つに過ぎない。


 彼女を連れて、対等になれる世界へ行く……

 礼二は、立ち尽くした。



「ねえ、テルちゃん聞いて。最近、スウハイシャが変なの」


 今日は、フロアそのものが閑散としていた。商品陳列台を前に、納品される新商品のディスプレイを考えていた輝美は香澄を見た。


「スウハイシャ?……ああ、ストーカーですか」


 数日前に、試し書きのボールペンを振り回そうとした男を思い出し、輝美はふうとため息をついた。

 あれは本当に危機一髪だった。未然に制止することは出来たが、逃がしてしまったのが悔やまれる。その後すぐに輝美が警備課に連絡したが、どこへ隠れたのか店の防犯カメで捜索しても見つからなかった。


 店からいつ出て行ったのか、出入り口に取り付けてある防犯カメラにも、男は映っていなかった。

 あれから男の姿を店内で見かけないが、あれがもしかしたらスウハイシャではないかと、輝美は見当をつけている。


 スウハイシャは、香澄の売り場での様子を詳しく書いている。

 しかし香澄は気が付いているのか分からない。

 香澄はあの男の名前を知っていた。


 知り合いなのか聞いてみたくなったが、今は仕事中である。いや、それ以上に大北香澄という、法律や常識を超えた別世界の住人の話をまともに聞いていたら、身が持たない。


「毎日来る手紙の内容が、なんだか攻撃的になってきたのよ。おまけに私の部屋のお掃除がザツになっているの」


「……知らんわ」と、上司相手に輝美は、口には出さない。


「ねえねえこれ読んで」


 安物の便せんを差し出す香澄に向かって、これはつい輝美は口にしてしまった。

「持って来たんかい!」


『私の香澄。君は僕を愛してくれているのだろうか。最近僕はとても不安でいたたまれない。君は変わらずに、笑顔を安く振りまいているのだろうか。まるで売女だ。いや、それ以上に僕は君に相応しいのか。僕に悪魔が囁くんだ。僕は何の力もなく、君の部屋にいる虫であり、生ごみでしかないのだと。その言葉が僕を苦しめる』


「あ、やっとストーカーは、己の行いに気が付いたんですね」

「そんなことに悩むより、彼ってば、連続してゴミ出し忘れていたのよ。最近、ちゃんとお洗濯も掃除もしていないし、どうやら部屋にいる間何もせずに、私のベッドで寝ているみたい」


「……そのベッド、布団ごと焼却処分ですよね?」

「しないわよ。新しいベッド買うお金がないもん」


 ……考えまい、突っ込まない。黙って輝美は手紙を読み進めた。

 文字を追うごとに、頭が重くなっていく。


「あの、このストーカー精神ヤバくなっていませんか? いや、もともとヤバいんだけど、脳内のお花畑が食虫植物畑になっているというか……」

「そうよねえ、死神の前で愛の誓いだとか、滴る血で婚姻届けがどうだとか」

「あの……危機感って言葉を、店長は知っていますか?」


 知っているわよ、と香澄は花のように微笑む。

 その言葉と己の状況を結びつけるロープ、そのものが脳に無いのだ。

 いや、そんな脳みその持ち主だからこそ、このような無垢な笑みが出来るのか。

 ――お昼の食堂でも、輝美は考え込んでいた。


「……やっぱり、通報させないと」


 いくら相手が変態でも、平和に共存しているなら良いと放っていたが、売り場であのような事態を引き起こしてしまった。ストーカーはやはりストーカーだ。どのみち相手を力づくでも独占しようとする。

 その方法が血生臭いのは、事件の定番だ。


「しかし、あの店長にそんなこと言ったら、じゃあテルちゃんが彼の代わりにお掃除に来てとか絶対に言うんだろうな。それはヤダ」


 一度だけ香澄の部屋に入ったことがある。そこは蠅とゴミ袋の帝国だった。


「だけど、店長がいなくちゃ売り場が困る……」

「えええっそーなんですかあ?」


 突然、横から出汁の匂いが漂ってきた。

 案の定、席の横に素うどんをトレイに乗せた印布が立っていた。


「困るわよ」

「だって、テル姉ちゃん、よく大北店長に怒り狂ってんじゃないですか。使えねーとかあれでも店長か自覚持てよ花盛りのオタンコナスとか、あほ星からの物体Xとか」

「……」

「毎回毎回聞かされる言葉は、ワタシのうどんのトッピングとして、最高のどす黒さなんですが」

「私の怒りは、キツネか月見か海老天の代わりか。この悪魔」


「だって、本来のワタシの熱量は食べ物じゃないもん。悪魔だから、エネルギーはバンパネラと同じね……ところでさ、大北店長がいないと困るって、まさか人道的発言とか偽善じゃなくて真実の本音? ディスプレイのセンスは無いわ、商品の発注をさせたら、種類も数も必ず間違えるわ連絡ミスはするわ、引継ぎは穴だらけ、業者さんとの話が伝わらないし、備品は壊すし、残業はしないし使えない能無しなのに」


「使えないけど、役には立つのよ」


 輝美は、定食の味噌汁の湯気をため息で飛ばした。


「あの人はね、とんでもない記憶力の持ち主なの。買ったのが一度でも、客の顔と名前、買った商品をいつまでも憶えているの」

「へえ」


「ある日、新顔の客が筆記ラボに来店されてね。そうしたら店長が『まあジンナイ様、お久しぶりです。あのクロスは今でもお使いですか?』その人、7年前に違う店で働いていた店長から、ネーム入りでボールペンを一本買ったお客さんだったのよ。一度きりのそれを憶えていたのかって、客は大大感激よ。自分の事をずっと憶えていた美人店員がいるって、その日からジンナイさんは筆記ラボの超お得意様。会社の創業記念に配るからって、パーカーのボールペンの大量発注が来たわ」


「……」

「店長目当てに来る男性客は、そういうお客ばかりね。一度買っただけなのに『いらっしゃいませ、何々様。あのペリカンの使い心地はいかがですか?』超美人の脳みそに自分の顔と名前が刻まれるのよ。そりゃメロメロよ」


 そして、人寄せパンダとしては最高なのだ。

 毎日毎日、誰かしら店長目当ての客が来る。

 冷やかしでも何でもいい、人が来れば売り場に活気が出るのだ。

 それが呼び水になり、売り場だけではなくフロア全体の売り上げにつながる。


 事実、9階のフロアは、他の店と比べても、売り上げが頭2つ飛び出している。


「確かに使えない人だわ。でも彼女の存在は店に必要なの。何かあったら困る」

「それって、優しさよりも完全に利用価値じゃん。何かテル姉ちゃんまで悪魔っぽくないですか?

「悪いか」


 輝美は印布をにらんだ。


「売り上げは、販売員のプライドと生活と血と汗と涙と将来がかかってんの! 第一、利用価値か優しさか、色は違えど『店長には無事でいて欲しい』と思う気持ちには変わりないでしょうが」

「うーむ、そうか」


「まあそういうわけで、何かあったら遅いから、私が店長に成りすまして勝手に警察に通報する。店長にバレたら適当に言い訳する。印布は邪魔するな」

「そうねえ、それにあの店長は中々得難い人材だよねえ。頭がすっからかんで悪気は全くないんだけど、迷惑をまき散らし、周囲の負の感情を引き出すとか怒りを増幅させるとか、禍の触媒としては実に上等なんですよね。失うには惜しいな」


 印布がうどんをすすりながら呟いた。



 スーツを新調したのは、何年ぶりだろうか。

 もちろん、支払うのは親だが、それでも礼二の母親は大喜びした。


「ついに就職活動するのね? じゃあ、上等のもの買わなきゃ」


 大久百貨店の紳士服洋品に行きたいとねだったが、知り合いの店があると却下された。吊るしの背広なのですぐに持ち帰りたかったが、ネームなど入れる必要があると、3日間待たされた。


 そして、ついに到着したスーツを着て、礼二は鏡の前で悦に入っている。

 靴もシャツ、靴下も、全て新品の服は身に着けて心地よかった。ネクタイを締めて鏡に映る自分は、あのジャージを着た貧相な男とは別人のように、精悍で弱さの欠片もない男だ。


 そうでなくてはならない。

 花嫁たる香澄を連れて、これから二人で新世界に旅立つのだ。

 はるか昔の少女漫画、男がヒロインと死によって結びつこうとするエピソードの中で、男が立派な服を着て、死の旅路の支度をする場面があった。


 たしかあれはフランス革命をテーマにした漫画で、幼馴染でありながら身分違いの恋に男は悩み、死によって彼女と結びつこうと、彼女を殺そうとする。

 やはり、死の前では身分も何も、全てが平等になるのだ。


 礼二は、この正しさを改めて確信した。

 今日のこの日は、香澄の売り場へ行くことなく、部屋に直行した。

 唯一の心配は、鍵を変えられていることだった。だが、香澄は自分の顔と名前を憶えていてくれていた。


 その記憶こそが愛の証だと、そして鍵はそのままだという確信があった。

 ――やはり、鍵はそのままだった。

 心地よいかちゃりという鍵の音は天上の音楽だった。開いたドアから見える乱雑な通路は、天国へ続く道だった。


 この数日、香澄への想いに悩んでいたこともあって、礼二は真面目に香澄の部屋の掃除をせず、ベッドに入り、彼女の匂いに包まれること以外、何もしなかった。

 そのせいもあるのか、乱雑さは凄惨を極めている。


「もう良いんだ」


 脱いだままの下着に、礼二は言った。


「もう、脱いだ服の匂いを嗅いだりしなくても良い。彼女の残り物を口にすることはしない。なぜなら、香澄そのものを僕は連れて行くからだ」


 もしかしたら、今頃彼女はいつものように、あの売り場で男共に笑顔を振りまいているのだろうか。

 だが、礼二の心は今安らかだった。しかも、今のうちに彼女の笑顔を受け取っておけと、男たちへ慈悲すら感じている。


 もう、あの笑顔も声も、僕のものだ。

 サバイバルナイフを取り出して、その冷たい刃にそっと触れる。有名な傭兵映画でも使用された、刃渡り30センチのナイフだった。アウトドア用特有の無骨な中に、男らしい力強さ、そして冷たい刃の輝きが美しい。


 これで、彼女を一突き。苦しませはしない。

 そして香澄が息絶え、体温が消えるまで、最後の最後まで命が尽きるその瞬間まで、香澄をしっかりと抱きしめているつもりだった。

 そして、自分の限りない愛の中で死という新しい世界に旅立つのだと、きっと確信させてみせよう。


 その後で、あのベランダから飛び降りよう。

 彼女を腕に抱き、彼女が毎日見つめていたであろう、八階から見える風景をこの目に焼き付けて、飛び降りるのだ。

 死の翼は、落下する二人を優しく包み、死の世界へと運んでくれるだろう。


 礼二は待った。

 時間が過ぎて、夕方になる。

 ……かちゃん、と音がした。

 足音がした。


 間違いなく、香澄が帰って来たのだ。

 まだ外は明るく、いつもよりかなり帰宅時間が早い。しかしどうでも良い。問題は香澄が帰ってくるか否か、それだけだ。

 ぱたぱたと足音が、礼二の元に近づいてくる。


 リビングに、香澄が現れた。

 目が真ん丸になる。

 そして小首を傾げてじっと礼二を見つめ、そして部屋を見回す。

 まるで、部屋を間違えたのかと思っているかのように。


「香澄」


 礼二は呼びかけた。いざ香澄を目の前にすると、緊張してしまった。この一瞬で口の中の水分が蒸発した。


「あの、ええと、あなたはどなた?」

「なんてことを言うんだよ、香澄! 小池礼二だよ」


 香澄に「誰」と聞かれるとは、まさかだった。間が抜けてしまった。


「毎日、ここに来ていた小池礼二だ! たくさん手紙を書いたじゃないか! 君を愛していると、何回何十回と書いた手紙を、君は忘れたの?」

「こ、来ないで……」


 香澄の声が震え、顔が恐怖に青ざめる。バッグを開けて中身をかき回す動作に、礼二は愕然となった。まさか強盗と思われているのか? 


「僕の事、憶えていてくれたじゃないか、それに鍵だって……変えずに、部屋に僕を受け入れてくれていたんだろう?」


 だが、女神はまるで怪物を見るように、礼二を拒否している。


「怖がらなくていい、香澄。僕は君を迎えに来たんだ」

「迎えにって……ここが私の部屋よ」

「ちがう、この世は僕らの世界じゃないんだ、ここじゃ対等になれないんだよ、香澄」


「何、それ……」

「怖がらないで」


 礼二はサバイバルナイフを出した。

 ひい、と香澄が叫んだ。


「大丈夫、すぐ終わる。苦しませはしない、一瞬だから」

「い、いやだ……なぜ、そんなことするの……」


 香澄の綺麗な目から、大粒の涙があふれ出す。まるで真珠のようだと、礼二は思うが、それでも止める気はなかった。


「大丈夫だよ、香澄……」

「いやあああっ」


 背中を向けて、玄関へ走る香澄に礼二は仰天した。逃げてはいけない、一緒になるんだと決意を込めて、香澄に飛び掛かる。


「やめて、いやだっ、だれかたすけて……」

「香澄、怖がらないで、大丈夫だから!」


 もみ合いながら礼二は焦る、サバイバルナイフを香澄の心臓に突き立てようにも、香澄の手がしっかりと礼二の手を押さえている。見かけによらない力の強さに、礼二は驚くよりまえに慌てた。


 顔を歪めながら抵抗する香澄。

 美しい顔が、そして二人の美しい儀式が台無しだ。

 香澄の膝が、礼二の腹を蹴り上げた「ぐう」と一声上げて礼二はうずくまる。

 香澄が玄関へ再び走ろうとする。


「まて!」


 礼二は、香澄の背中に手を伸ばし、長い髪を掴んで引きずり倒した。

 仰向けに香澄が転がる。

 礼二はその上にのしかかり、ナイフを心臓に突き入れた。

 ぐえぇ、と香澄が動物の呻き声を上げた。

 だが、まだ手足が動いている。礼二を振り落とそうと暴れている。


「香澄!」


 香澄の名前と、愛していると連呼しながら礼二はナイフを香澄に何度も突き立てた。

 香澄は腕を振り回す。ナイフが細い腕に何度も刺さり、切り刻むが、それでも香澄は腕を振り回し、口から血を吐きながらごぼごぼと絶叫する。


 死なない香澄に、礼二は恐怖した。血にまみれながら、苦悶の表情で暴れる香澄は、あの美しい女神ではない、死なない化け物だ。

 刺した。刺した。刺した。

 がくん、と香澄の動きが止まった。


 それでも怖くて、礼二はナイフを振るい続けた。

 気が付くと、香澄ではなく、血の塊が体の下にあった。


「……ちがう」


 礼二は呆然と、香澄だった赤い物体を見下ろす。


「ちがう、こんなはずじゃな、なかったんだ、かすみ……一突きで、きみの命が尽きるまで、だきしめて……」


 だが、そうすることなく香澄は終わっている。切り刻まれ、血で染まった顔から眼球が恨みをこめて礼二を見上げている。

 ふらふらと、礼二はベランダへ歩んだ。

 真っ赤な足跡が床についた。


 ベランダを開けると、強い風が吹きつけてきた。枯れたプランターや割れた植木鉢を蹴りながら、礼二は柵に歩む。

 柵に手をかけた。


 下を覗き込むと、地面ははるか下だった。豆のような人間が下を歩いている。

 絶対に助からない。恥骨がぞわりとした。その時、凄まじいほどの執念が礼二の身体を突き抜けた。


「いやだあっ」


 いやだ、ちがう、やっぱり生きたい。

 リビングには、香澄の死体が転がっている。


「いやだ、やっぱりいやだ」


 礼二は泣いた。今、礼二の前に残されているのは、美しい香澄ではなく、凄惨な血まみれの物体だった。そんなおぞましいものを連れて、死にたくはない。

 香澄の哀れな姿が、礼二の生存本能を無慈悲に刺激した。


「いやだ、いやだあああ」


 泣きながら部屋を飛び出した。エレベーターのボタンを押すと、ボタンに血がべっとりとついた。赤く染まった自分の手に、そして血の匂いにようやく気が付いた。

 悲鳴を上げて、非常用の外階段に飛び出した。

 転がるように駆け下りて、一階のロビーに飛び出そうとして気が付いた。


 1階には管理人がいて、住人とすれ違う可能性が高すぎた。

出入りをチェックする防犯カメラもある。血まみれの自分の姿を見られるか、そしてカメラに残ってしまう。

 礼二は踵を返し、非常階段を二階まで駆け上がり、踊り場から身を乗り出した。


 隣には、塀を挟んで古いマンションが建っている。塀を超えた高さの踊り場から手を伸ばして、隣のマンションの配管を掴めばいい。その配管を伝って向こうの敷地に降り、そのままマンションの隙間から外に出るのだ。

 礼二は、踊り場の塀によじ登った。礼二は塀の上に立ち、際まで移動した。


 隣のマンションの突き出た配管へ手を伸ばし、ジャンプする。


「!」


 配管を両の手でつかんだ。だが確保すべき足場がない。革靴が配管の上を、壁を滑った。

 声にならない悲鳴を上げて、礼二は仰向けに落下した。


 ――礼二と格闘した部屋の中で、印布はむっくりと起き上がった。


「あいててて、全く何が一突きさ。ぐさぐさと刺しまくりじゃん。しかも店長を抱きしめて一緒に飛び降りるとか言ったくせに……」


 そこは血染めの汚部屋だった。蠅はゴミにたかっているのか、血に吸い寄せられているのか、床から家具まで混乱を極めている。

 印布は顔半分を手で覆った。


「うっわ、壁から床、紙屑に古雑誌にゴミまで血だらけ。店長が帰ってくるまでに、ゴミはそのままに血だけ拭き取るのも、かえって手間だな」


 そして、転々と続く礼二の赤い足跡を追った。そして部屋の外、マンションの通路にも付着している血の足跡に、むっつりとつぶやいた。


「……外も掃除しなきゃ」


 ……何が起きたのか、分からない。

 ゆらゆらと礼二は目を開けた。目を開けると非常階段の踊り場の塀が見えた。

 あそこから、仰向けに落ちたのだと気が付く。


 首と足が両隣のマンションの間を渡すように、壁と壁の間に引っかかっている。真ん中にある塀が、支え台になって落下を止めているのだ。

 首をもたげた。自分の腹が見える。


 腹から突き出た二本の鉄杭に、礼二は悲鳴を上げた。声の代わりにごぼごぼと口から血があふれた。

 塀には、互いの敷地侵入防止用の鉄杭が並んで突き出ている。その上に落下した礼二の背中から腹を、鉄杭が貫通している。


 獰猛な激痛が背中から腹を焼いた。内部の臓器に冷たい鉄が絡みついているのが分かった。鉄杭を抜こうと礼二はあがくが、串刺し状態で起き上がる事は出来ない。手足はもう、使い物にならなくなっていた。


 非常階段へ向けて上げた声は、流れる血にとってかわった。

 ごぼごぼと礼二は泣いた。

 生きたまま串刺しだ。助かる見込みはない。この状態で死んでいくのだと思い知った時、絶望が身を焼いた。


 死にたくないと祈った。死にたくないと泣いた。ごめんなさいと何かに謝り続け、生きたいと懇願する。

 非常階段には、誰もいない。カラスが一羽、塀の上に止まって礼二を見下ろしていたが、やがて翼を広げて礼二の上に舞い降りた。


 そして、垂れ下がった背広のポケットから、嘴で器用に鍵を取り出した。


「シニタクナイ……」


 礼二の声なき懇願は、カラスにも聞こえた。

 死神はその後26分だけ、礼二の願いを叶えた。



 数日後。

 今日は何事もなく、営業が終わった。

 後は後片付けをして帰るだけだ。

 輝美がショーケースの商品を片付けようとした時だった。


「ねえ、テルちゃん聞いて。ひどいイタズラがあったのよ」


 片付け作業をしている横で、大北香澄店長が紅唇を曲げて輝美に訴えた。


「何です。タニノ・クリスティの靴に画びょうでも入れられましたか」

「いいえ、もっとひどいのよテルちゃあん!」


 レジの売り上げと現金の残高を無事に合わせたところで、輝美は改めて香澄を見た。

 香澄は両の手を組み、イヤイヤと身をよじっている。

 そんな幼稚な仕草でも絵になる美貌に感心しつつ、そして何となくイタズラの内容は察しつつ、輝美は一応聞いてみた。


「画びょうよりひどい事って、何があったんです」

「私になりすました人が出て来たのよ!」

「へえ、どんな悪さをされたんです?」

「私の名前で、警察に通報があったの! 留守の間に不法侵入されたって!」


 それは画びょうより酷いのか、あんたのためだぞと気分を害しつつ、輝美は言った。


「不法侵入はホントじゃないですか」

「冗談じゃないわ! 私は通報していないんだもん! ウソはダメでしょ。警察の人が来て、通報なんかしていないって言っても信じてもらえずにあれこれ聞かれるし、今後はパトロールを強化してもらえるのは良いとして、もう面倒くさいったら……あ、それでねそれでね」


「はい」

「私のマンションで、飛び降り自殺があったのよ!」


 流石に輝美は呆けた。香澄は続ける。


「管理人さんが、非常階段を見回っていたら、お隣のマンションとの壁と壁の間に、死んだ男の人が引っかかっているのを見つけたって! 塀から突き出た鉄棒で串刺しよ。カラスが何羽もたかってたって」

「うわ、その人は住人ですか」


「ううん、マンションの住人じゃないの。背広姿のサラリーマンでね、住人は誰もこの人を知らないって……防犯カメラ見たら、無関係の人がわざわざウチのマンションに入って非常階段の踊り場から投身自殺したんじゃないかって」

「へえ……迷惑ですね」

「迷惑よお」


 はあ、とため息をつく香澄に、輝美は聞いてみた。


「ところで、スウハイシャはどうなりました? まだ部屋に出入りしているんですか?」

「……来なくなった」


「それはそれは」ヨカッタと、輝美は無言で付け加えた。

 だが香澄の表情は暗い。


「この間、一度だけ来たみたい……部屋がものすごく綺麗になっていたの。床から壁に、家具から何までピッカピカになっていたわ……それが最後よ」

「それで良いんですよ」


 うんうんと輝美は頷いた。

 客に危害を加えようとしたあの日以降、警備課に連絡し巡回と監視を強化してもらったおかげか、あのくたびれたジャージの男、スウハイシャは姿を見せなくなった。


 きっと、傷害未遂を起こして正体がばれたと思って逃げたのだ。それに、香澄のマンションも警察の巡回が強化されたのでうかつに入れなくなった。

 それで香澄を諦めたのだろう。


 ハウスキーパー不在の香澄の部屋がこれからどうなっていくか、それは目には見えているが、香澄が人外魔境に住もうが夢の島で寝ようが、香澄の身が安全ならそれで良いのだ……この『筆記ラボ』の売り上げのために。


 もうすぐ、有名なスパイ映画の封切と同時に、メーカーコラボの限定品ボールペンが納品される。そのボールペンを売りさばくには、やはり香澄の威力は絶大なのだ。

 ふふふと悪役の笑いを浮かべる輝美の横で、香澄がぼやいた。


「ああ、私ってホント家事苦手……スウハイシャさん、どこ行ったのかしら。家に帰ったら部屋はキレイになっていて、お洗濯物も全部片付いていた、あの快適な日々が忘れられないわ」


 香澄は悲し気に天井を見つめた。そして次の言葉が、輝美を恐怖に突き落とす。


「目の前に現れたら、結婚してあげるのに」


 目の前の通路で誰かが派手に転んだ。

 印布だった。

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