第2の恐怖

 ケンジが死んだのは、カナコとの婚姻の手続きを済ませて間も無い頃だった。愛用の赤いスポーツカーに一人で乗って走っていた彼は、急なカーブを曲がり切れず、そのまま高い崖から車ごと転落して死亡した。

 ケンジの四十九日法要が無事に終わると、カナコは亡夫の親つまり義理の親からその邸宅に呼び出された。

 広い洋間。油の切れた振り子時計の音だけが不快に響いている。ひどく耳障りな音だ。古い洋館の南側に設けられたその部屋は、夕陽に赤く染められた庭園の景色を窓に映していた。その窓を背にしてソファーに座る黒いドレス姿の老女は、同じく黒いレースの手袋をした手に拳を握り、低くこもった声で怒鳴った。

「いったい、どういうつもりなのかしら、これは」

 隣に座っているスーツ姿の白髪の老紳士が言った。

「私はね、どうも、カナコさんには荷が重いのではないかと心配して言っているのだよ。どうか気を悪くしないで欲しい」

 老女が黒いドレスのスカートの裾を握りしめる。

「最初から狙っていたのね。そんな事は絶対に許しませんわよ」

 老紳士は白い眉を八の字に垂らしたまま、鼻の下の髭を動かした。

「カナコさん、ケンジから遺贈された株と不動産は私に返したまえ。それがいい」

 向かいの三人掛けのソファーの中央に座っているカナコは、うつむいたまま小声で答えた。

「返せと言われましても……。あれはケンジさんの意思ですから……」

 ソファーから立ち上がった老紳士はテーブルを回って歩いてくると、カナコの隣に腰を下ろして言った。

「では、こういうのはどうだろう。銀行の預金と現金については、全てカナコさんが貰えばいい。カナコさんに支払われた多額の保険金についても、何も言うまい。だから、株と不動産だけは返してもらうというのは」

 膝の上で手を震わせたまま、黙ってうつむいているカナコに少しだけ身を寄せて、老紳士は言った。

「あれはワシらの一族が築き上げた会社の株なんだ。我が社の筆頭株主となるには、相応の覚悟がいる。ケンジと籍を入れて間もない君には荷が重かろう。不動産も、女の君が管理するには規模が大き過ぎやしないかね」

 黒いドレスの老女は歯ぎしりをして睨んだ。

「あなた、初めから狙っていたのね。そうなんでしょ」

 老紳士がカナコの震える肩に手を回した。

「私はね、君のことが心配なんだよ。ま、財産が欲しいのは分かる。私にも欲しいものがあるからね。どうだろうか、取引しないか。不動産の中の賃貸ビル数棟を君に譲ろう。その他は返してもらう。勿論、現金と預金と保険金は君のもの。どうだね、悪くないだろう」

「と、取引と言うのは……」

「簡単だよ。私の欲しいものを貰う」

 老紳士はカナコの腿の上に手を置くと、その手をスカートの中に滑らせてきた。

 壊れた振り子時計の音がけたたましく鳴る。

 向かいの席の黒いドレスの老女が歯を剥いた。

「汚らわしい! カナコさんを呼び出したのは、それが狙いだったのね。ケンジの前で、よくもそんな……」

 カナコは首元に寄ってくる義理の父の顔を払い除けるようにして振り返った。ソファーの後ろにケンジが立っていた。恨みに満ちた目で父親を見下ろしている。驚いたカナコがソファーから転げ落ちると同時に、宙に浮いた老女が老紳士に掴みかかり、彼の首を両手で絞めた。後ろからケンジもその老紳士の首を絞めている。老女はケンジの母親だ。つまりカナコの義母。

 ケンジの母親は早朝の散歩中にひき逃げに遭い、三年前に既に他界している。

 腰を抜かしたカナコは四つん這いのまま必死になり、その場から逃げようとした。

 部屋の出入口までようやくたどり着き、ドアノブに掴まりながら何とか立ち上がって振り返ると、義理の父親がソファーの上で白目を剥き、泡を吹きながら、亡妻と亡息子から首を絞められていた。自分の父親の首を絞めながらもケンジの顔はずっとカナコの方を向いている。その顔に表情は無い。

 カナコは悲鳴を発しながら玄関へと走っていく。振り子時計の音がいつまでも鳴っていた。

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