第1の恐怖
広い本堂の中は薄暗かった。宙を舞う線香の白い煙が際立ち、拡散して消えるまで長く目で追える。肩を落として丸まった喪服の背中が並ぶ中で僧侶の読経だけが響いていた。カナコはその経を聞いていられない。彼女にはこう聞こえて仕方ないからだ。
「呪ってやる。呪ってやる。呪ってやる。殺した奴を、みんな呪ってやる」
顔を伏せたまま強く目を閉じても、死んだヒロシの顔が浮かんでくる。彼女は思わず耳を塞ぎ、その場に突っ伏した。隣に座るケンジが驚いた様子でカナコの肩を支えて起こし、そのまま半ば無理矢理に立たせると、外へと連れ出した。
本堂の裏手のトイレの横に設けられた喫煙所で煙草の煙を燻らせながら、ケンジは言った。
「もう忘れろって。あいつとは終わってたんだろ。あいつは元々病気だったんだ。あれが運命だったんだよ」
ハンカチで口元を拭きながら、カナコは首を横に振った。
「聞こえるのよ。ヒロシさんの声が」
「いい加減にしないか。今日の葬儀には俺の親も来ているんだぞ。君がそんな事では、君の精神状態を疑われて、君との結婚に反対されてしまうだろ」
「やめて。こんな所でそんな話は。ヒロシさんのご両親が聞いたらどう思うか……」
「そりゃあ、ヒロシのご両親は御気の毒だと思うよ。俺もヒロシとは中学の頃からの仲で、ヒロシのご両親にも随分と世話になったからな。しかも、ウチの会社の下請けの会社の社長夫婦となれば、尚更さ。でも、それとこれとは別さ。君との結婚の事は誰にも邪魔されたくない」
「誰が邪魔をするって?」
カナコは顔を上げた。ケンジの背後に視線を向けるとすぐに身を丸める。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
本堂の外廊下の上に喪服姿の初老の夫婦が立っていた。女性が無理に口角を上げて言う。
「カナコさんが謝ることないわ。あなたのような素敵な女性を射止められなかったのは、ヒロシの病気のせい。カナコさんは悪くないでしょう」
隣の男性が頷きながら言った。
「そうかそうか。二人は結婚するのかい。それはおめでたい。こんな席に呼んですまなかった」
カナコは「わあ」と泣き出した。
ケンジが灰皿に強く煙草を押し付けて言う。
「俺は帰るからな。いくらヒロシが恋敵だったとは言え、こういう事は別だろうと思って、忙しいのにわざわざ来てやったのに、これから妻にする女性に大泣きされて気分いい訳ないだろ」
ケンジは振り返ると、本堂の方に向けて手を上げた。
「じゃあ、おじさん、おばさん、すみませんね。僕には親から引き継いだ一部上場企業の経営という重要な仕事がありますので。ここまでで義理は果たしたと思ってください。悪いですが、もう行かせてもらいますよ」
彼はそのまま駐車場の方へと早足で歩いていき、深紅のスポーツカーに乗り込んだ。その車はエンジン音を強く鳴らして数回吹かせると、急発進して寺から車道へと出ていった。
走り去っていく車の方にそろって顔を向けている初老の夫婦は、そろってニヤリと片笑んだ。
「危ない運転だねえ。事故で死ぬかもしれないなあ」
「死ぬかもしれませんわね。ふふふ」
カナコは腰を抜かしてペタリとその場に座り込んだ。きっとケンジには見えていなかったのだろう。
長年の間、病室で床に臥していたヒロシの容態が急変し、そのまま逝去したのは去年の事だ。カナコとの結婚を果たせぬまま彼は死んだ。カナコが病室に見舞いに訪れた日に。あれから一年が経とうとしていた時、一人息子を失ったヒロシの両親は彼の後を追って心中をした。今日この寺で執り行われているのは、その両親の葬儀だ。今、カナコにだけ見えている夫婦の葬儀なのだ。
二つの蒼白の顔は、そろってゆっくりとこちらを向き、じっとカナコをにらんだ。
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