私の細かすぎるいくつかの嘘

柏木祥子

彼女の細かすぎるいくつかの嘘

 大学一年のころはじめて一人暮らしのままクリスマスの前日を迎えて、私は近所の居酒屋に飲みに行った。

 都会の喧騒に揉まれて生きてきた身としては、岐阜の月二万五千円のアパートに一人でいようとすると、東京に残してきたものを思い出してセンチメンタルになりそうだった。

 私はカーペンターズを口ずさみながら、山の上から降りて駅前の比較的人の多いところまで歩いた。

 外は昼夜の寒暖差も感じられず一日を通してずっと寒かったが、陽の光を感じられない夜中は、余計に身を凍らせた。

 すでに十時を過ぎたところで、店に入っていく人間はあまり見当たらなかった。比較的控えめな商店街の通りはどこも騒がしい同級生たちの声がしていたが、不思議とどこにも入る気はせず、私と彼らの縁のなさを感じさせた。

 結局私は、普段、サークルで利用している居酒屋へ入ることにした。和式の居酒屋ではなく、洋風の小さなダンスフロアのある趣のある居酒屋で、サークルの先輩も何人か顔が見えた。

 フロアには昔の曲が流れていた。フランク・シナトラのストレンジャーズ・イン・ザ・ナイトだった。私はスクリュードライバーを片手に人の間をうろうろしていた。知り合いになんとなく会釈をした後は、一人で彼らのことを眺めていた。

 ダンスフロアで複数の男女が、知りもしないダンスを踊っていた。近くの芸術科の生徒たちがフランソワ・トリュフォーの映画の話で盛り上がっている。赤いセーターを着た背の高い女生徒と、エスニックなケープを羽織った女生徒が、向かいで熱弁を振るうデニムの男の話に、耳を傾けている。

 盛り上がった話から弾き飛ばされたサークルの先輩が、ショットグラスを片手にこちらへふらふらと寄ってきた。下戸の人だし、家が数駅向こうにあると聞いたことがあった。だからショットグラスに入ったウイスキーの処理に困っていて、あわよくばよろけたふりをして、誰かにかけてしまおうかと思っている。そう言っていた。

「私がいただきましょうか」

 恐らく私は、好かれようとしてそう提案した。そうすれば先輩である彼女をここに繋ぎとめていられるのではないかと思ったからだ。

 すると先輩は、

「それには及ばんよ」

 と、よくわからない口調でものを言って、そのままふらふらとどこかへ行ってしまった。

 そのときふと、居酒屋に流れる音楽が大きくなった。スピーカーが耐え切れずにノイズを出してしまうぐらいに。ひび割れたミニー・リパートンの声ががさがさと私の鼓膜を擽り、身もだえするような痒みが肌を駆け走った。

 店員が慌ててジュークボックスに飛びついて音を下げた。一瞬、静かになってそっちを見ていた学生たちが、またぞろ踊りだし、談笑し、クリスマスを前にして酒を飲んでキスをしたりして、羽目を外していた。

 ダンスフロアの中心でふざけた男子二人が、片方の腰を支え、斃れそうなぐらい背中を曲げて、無声映画のワンシーンで見たことがあるようなキスをした。みんながそれを囃し立てて、へたっぴな指笛を吹いて、おおげさな悲鳴をあげながらそれを見ていた。

 私はなんだかいたたまれない気分になっていた。丁度その時、私の近くにアメフトサークルの男子生徒が何人かいてげらげらと笑っていたので、壁一枚隔てた向こうに私はいるようであった。

「タバコを吸っていいですか」

 私はバーテンダーの男性にそう尋ねた。頷いて灰皿を渡してくれたので、私はショートホープに火をつけて煙を吸い込んでいた。

 少し先に、私を見ている人がいた。ジュークボックスの音楽が途切れたときに、興味のない会話から抜け出したエスニックな服装の女生徒が、私をじっと見ていた。

 彼女は私が男二人がキスをはじめて、周りが囃し立てているなか、一人景気の悪い顔でタバコを吸っているのも目撃していた。

 彼女が隣に来るまでにそう時間はかからなかった。気付いたら彼女は隣で私のショートホープを吸っていた。

「キスしたらどんな味がするかな」

「どことなく甘い味だと思う。そういう味だから」

 私は彼女の質問をはぐらかした。にもかかわらず、私はこの後の展開も、それに対する私の反応も既に決定していた。

 私たち二人は居酒屋を出て、どちらが言い出したわけでもなく、道端でキスをした。ダンスフロアにいた彼らのように誰かが囃し立てるのを、私は頭の中で聞いた。

 私は彼女と自分の部屋へ帰った。途中のコンビニエンスストアでオレンジジュースとウォッカを購入した。あとは彼女の勧めでヨーグルトも。


 丈が長くて脱がしづらかったけれど、私は彼女に従って彼女の着ていたコートを脱がせた。私の部屋のベッドは、簡易ベッドと言ってもいい代物で、お世辞にもいいものじゃなかった。できるだけ清潔にしていても、私と、そして彼女が乗ったときどうしても、きしきしとスプリングの悲鳴が流れた。

 彼女が私をベッドに押し付けて、唇を押し付けた。冷たい手で私の頬を挟み、名前だけの簡単な自己紹介をした。「わたし、奥山絵里。情報科」彼女は言った。「あなたは?」そしてもう一度、簡単なキスをした。

「私は……あっ」

 私が自分の名前を言おうとすると、彼女は私をベッドに押し付けたまま、服を脱がせ、口で口を塞いで、どうしても私が喋れないようにした。ぬるりとしたものが歯を撫でた。

 息苦しさで声が漏れるまで、彼女はそうし続けた。やがて、ようやく私が自分の名前を言った時には、すっかり息が切れていて、着衣が乱れていて、私の色気のない下着が露わになっていた。

「私、宇津井。宇津井頼子……」

「学部は?」

「文学部……」

「それ、外すね」

 彼女は宣言通りに私を裸にした。

 彼女に見られると、体の中に熱が灯るのを感じた。抱き合って脚を絡ませると、その熱はずっと強くなり、私のなかにある経絡のようなところをどんどん温める。同時に私と彼女の縁が、体の中につくられていく。彼女が私の小さな胸に顔を埋め、ゆっくりと下半身のほうへ、水音を立てながら降りていく。

 やがて彼女が私のそこへ口をつけ、舌と指でかき乱すと、私は足を丸めて、彼女の頭を包むようにしてそれを味わった。口から声が漏れ出たが、壁が薄いことを思い出して、息を止めて我慢した。

 すると行き場をなくした声やリビドーの発露は内側をぐるぐると回り、彼女と私の縁はそれによって色濃く体の表面ににじみ出て、冬場の電気コンロのように強く存在を露わにした。

 私が達するまでに時間はかからなかった。

 達した後もしばらく私たちはそのままでいた。彼女は私の腰に抱き着いて、自分のそこを弄っていた。舐めている間もそうしていた。私のオーガズムを確認すると、指の動きを激しくして、自分もそれを得た。

 それで終わりじゃなくて、その後も彼女は私の体中を撫でたり、さすったりして遊んでいた。


 終わったあと彼女は、顔を寄せて、私の頬をやたらと擦った。それが彼女のフェチの一つであるらしい。私は彼女の影に体の半分を隠されたまま、されるがままに横たわっていた。股のまわりを拭ったタオルが私の足にかかっていた。拭ったのにも関わらず、股の間にまだ彼女の唾液がついているかのような気分だった。

「ねえ――もしかして、はじめてだった?」

 彼女は私の身体を撫でつつ、そう訊いた。

 私はなんと答えたものか悩んだ。私は彼女の望まない答えを知っていた。

「そうなのかも」私はそう答えた。

 違うと言っているのとそう変わらない。彼女は起き上がって、私の顔を見下ろした。そして、がっかりしたような、けれど冗談ともとれるような声で「なぁんだ」と言った。「そっか」彼女はあっけらかんと尋ねた。「どんな相手?」

 私は目をきょときょとと動かした。寝そべったまま、彼女から眼を逸らした。

「昔からの親友」

「親友?」

 彼女はそう言って笑った。

「はじめてに見えたんだけどな」彼女はそう言って、私のおなかに頭を顎をのせた。「ううん、別にこだわりがあるわけじゃないの。ただ、あなたあの居酒屋でカウンターに座っているとき、寂しげで、すごく人を欲してるように見えた。でもここでは、私が連れ込んだみたいにされるがままで――だから、そうなのかなって」

「はじめてに詳しいの?」

 私は皮肉っぽく言ったけれど、彼女は全然気にしていなかった。

「ううん。まったく」

 私たちはまた軽く抱き合った。お互いの身体をまさぐって、キスをしあった。口づけたところが弾性をもって私のほうにも返ってきた。彼女になにもしていないと言われたからか、単に慣れてきたからか、今度は私も多少の返礼をすることができて、それが嬉しかった。

 

 けれど私がその後に彼女に昔のことを話したのは、嬉しかったからではない。彼女との縁のためでもない。むしろその逆だった。

「泊まるの?」と私は言った。彼女は髪を上げて、インナーの中から出すところだった。散らばっていた服を片付けて、彼女はベッドのフレームに背中を預け、私を見上げた。

 私はベッドに体育座りになっていた。

「お茶ぐらい飲んでもいい?」

 彼女は言った。

「コップ勝手に使って」

 私は言った。彼女が立ち上がってキッチンに近づくのを見ると、布団に巻き込まれた下着を探し出して、露わになっていた胸とそこを隠した。

 シャツを着て、襟首から頭を出すと、彼女がお茶を手に私をじっと見ていた。私は気にしていないふりをしてたわんだシャツの生地を体のラインにあわせて均した。

「どうしたの?」

「ううん? かーわいいなって。小柄で」

 そして彼女は続けてこう質問した。

「ね。どうしてこんなところ来たの?」

 一瞬、なんのことかわからなかった。けれど考えると、どうして岐阜の山奥の大学に通っているのかと訊いているのだとわかった。

「どうしてって?」

「だって、この辺じゃないでしょ。どこ出身?」

「神奈川。……横浜」

「横浜かぁ。私はね、名古屋出身。地元で色々あってここに来たんだよね。じゃないと来ないじゃない、こんなとこ。偏差値はそこそこだけど私立だし、山奥だし。地元かなにかの間違いで来たか……そのどっちかじゃない。どっちなのかなって」

 私は彼女に話すつもりでいた。立て板に水と言うけれど、私は言いたくなくて隠したいことであっても、どうしても話したいと思うときがある。恥部を晒すことでなにかが得られると思い込みたいのだ。

「私は、あなたと同じですよ。あそこにいられなくなったからこっちに来たんです」

「知られたから?」

 私は首を振った。


 昔のことを思い出すと、どうにも自己嫌悪の気持ちがあった。自己嫌悪と憐憫には似た趣があり、そして郷愁もまた同じ場所に位置していた。

 私には幼いころからの親友が二人いた。伊藤志摩と海藤陽介。男女一人ずつの二人で、幼稚園から高校まで同じところに通っていた。

 私たちはずっと三人組だった。小学校の低学年まではお互いの家に泊まり合ったこともあるし、中学のころに三人で遠出したこともある。高校に入ってみんな別の友達ができても、帰り道はずっと三人だった。

 恋愛感情はなかった。周りがどう言おうと私たちは私たちの関係にそれを持ち込まず、友人同士の三人組でいようとしていた。少なくとも私はそうだ。だからずっと、私は恋愛が苦手だった。話すのも、するのもだ。

 私がはじめて好きになった相手は中学の同級生で癖っ毛の女の子だったけれど、そんなことは関係ない。それは成就しなかったし、私はそうさせようとも思わなかった。むしろその感情を転化させて、三人の友情を補強する道具にしようとしていた。

 あり大抵に言えば私は、彼らとの関係に依存していたのだ。

 高二の冬、彼らは私に自分たちが付き合っていることを報告した。彼らは私に祝福して欲しいと言った。私は彼らのことが好きだったから、それを受け入れたふりをした。実際には受け入れようとしたけれど、それは上手く行かなかった、というのが正しい。

 私は彼らが無理に三人で歩こうとする傍ら、思い返していた。いつか教室で、彼は彼の友人たちに囲まれて、「実際、どっちが好きなんだよ」「伊藤か、宇津井か」「宇津井はぶっちゃけまずいだろ。あれ好きになるやつはロリコンだよ」「流石にそこまで小柄じゃねーよ」友人たちの言葉に彼はにやにやと笑って答えていた。そして、志摩のこともまた、思い出した。「頼子は私とあいつとどっちのほうが好きとかあったりするの?」そう言ってすぐ彼女は質問を取り消した。

 いつからかずっと、私は正しく物事が見えていなかった。歩幅がいつから合っていなかったのかはわからない。恐ろしいのは正しく見えないことができるということで、それは現実がいつも思ったようなものではないかもしれないということを意味していた。

「それで私、思ったんです。はじめから終わりまでずっと、そうなんじゃないかって。つまり、本当のものなんかなくて、みんなずっと本物だと思っているものを見ているだけなんだって」

 でもそれも結局、自棄になっているだけだった。そうやって投げ捨ててしまうには私は彼らとずっと居過ぎていたし、仮に私が現実を受け入れられず、嘘や勘違いを許せない人になろうとしても、私は独りになりたいわけじゃなかった。理想通りに生きるためには、なにかから眼を逸らさなければいけない時がある。

 その時の私には、それさえもできなかったのだ。

 私は彼らの前から黙って姿を消した。岐阜の大学を受け、別れの挨拶もなしに新幹線に飛び乗って、彼らの中で私が見えないほど小さくなるまで、帰るつもりはなかった。

 彼らはどう思っただろう? 私が突然消えてどう思ったのか。携帯はうんともすんとも言わない。彼らが傷ついて、後悔しているならいいと考えてしまう。そういうとき、自分はなんて酷いんだろうと思うけれど、胸のすくような思いもする。


「あれ、嘘なんでしょう」

 絵里は私の話を聞き終えて、そう言った。コップを手に、一口も飲まずにそのままそこに立っていた。

「親友にはじめてを捧げたって話」

「親友なんていないし」

 私はわざとそう言った。

「ほんとは誰だったの?」

「さくらさん」

「それって……」

「うん。そう。風俗の人。すごく優しかった」

 私は悪びれずにそう言った。

 彼女は床に座って、ごくりとお茶を飲んだ。

「私もそれと同じ?」

 彼女はそう言った。私はその意味がわかった気がしたけれど、うすぼんやりとして言葉にはならなかった。

 朝になって私の部屋から出たとき、彼女は私にこんなことを言った。

「あんた、しばらくずっと寂しいままよ。懐に入ってきてくれる人が出てくるまではね」

 それはきっと優しさから出た言葉に違いない。私と彼女を繋ぐものはしばらくしてどこかに行ってしまうけれど、それでいい。

 彼女が思っているほどに、私は悲観的じゃない。

「は、は、は――くしゅん!」

 毛布をくるまったまま彼女を見送っていると、くしゃみが出た。毛布の下はシャツ一枚だったので、そのせいだろう。身体を冷やしてしまった。

 私は毛布で体を包みなおして、部屋のほうへ戻った。ワンルームの部屋に今は色んなものが散らかっていた。私は床に落ちていたズボンを着て、ゆたんぽに入れるお湯を沸かした。沸騰しているあいだ、換気扇の近くで椅子に腰を下ろし、ぼうっと遠くのほうを見た。

 ひどく眠くて、今はただ寝たかった。自己嫌悪と股にむずついたものが現れるのは、ほとんど同時だった。

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