第3話 教会の犬、異端審問官


 その日の夕刻。

 事の顛末を聞かされたマトラは、その衝撃に倒れ込みそうになりながらなんとか壁にもたれ掛かった。それから子供達の頬を平等に打つと、その後にきつく抱きしめて、痛々しい子供達の包帯姿に涙を浮かべながら、祈る様に四人で泣いた。


「人を恨んではいけません……ましてや、私達魔族が人の子を傷付けてしまうなんて」


 異様な程に思い詰めた様子のマトラが下唇を強く噛み締めるのを見上げて、エルは涙に濡れた顔を横に振る。


「でもでもっ! あの人たちはルフロにいちゃんの手をふみつけようとして……バレにいちゃんのこともいっぱいけったりして……っ」

「駄目よエル……それでも人を恨まないで、やり返そうだなんて絶対に考えてはいけないわ」

「なんでなんでっ、あの人たちのケガはエルたちよりずっとかすり傷だよ? でもにいちゃんたちはたくさんの人に囲まれて……悪いのはアッチだよ」

「それでも――!!」


 手に包帯を巻いたエルキヤの肩を強く揺すったマトラは、只事では無い剣幕を近付け、少女の心に深く刻み付ける様に繰り返した。


「そんな人間でも、魔王様が赦したの……!」

「おかあさ……」

「いいエル!? 今私たちが人並みの生活をできているのは、魔王様が振り上げた拳を下ろしたからなの!」

「で……でもっ」

「でもじゃない! それは魔王様の成し遂げた偉大な功績を、私達の手で全て台無しにしてしまうかも知れない行為なの!」


 言葉に瀕したエルキヤがまた泣き出したのを見て、ルフログが傷だらけの体で前に出ていた。


「もういいじゃないか。……エルは僕が虐められているのを見て魔法を使ったんだ。あれは故意なんかじゃなくて、感情が昂って魔力が暴発してしまったんだよ。エルは僕を守ろうとしてくれたんだ」

「ルフロ……」

「それにお母さん」

「ん……?」

?」


 母が息を呑むのを幼い子供達は聞いた。傷付いた頬を布で抑えながら、深くフードを被ったルフログは表情を影に沈ませていく。


「魔王がなんだか知らないけどさ……っ」


 普段あまり感情を出そうとしないルフログが、熱をこめて口を開いていく様子にマトラは返す言葉を失う。闇に沈んだ眉の下に煌めく雫を見せながら、少年は続けた。

 

「僕らは自由に太陽の下を走る回る事も、言いたいことを言う事さえも許されない……こんなのが人並みの生活だって言うの?」


 沈痛な雰囲気の中、やはりバレステッドは眉を八の字にして困った様に微笑していた。

 ……けれどそんな柔和な表情とは裏腹に、その拳は爪が食い込んで血を流す程に握り締められている。

 兄の諭すような手が肩に触れて、ルフログは振り返っていた。蝋燭の火に照らし出されたオレンジ色の表情には、頬を好調させて鼻水を啜る、心痛ましい少年の想いが窺えた。


「悔しい、悔しいよにいさん……僕達だって、アイツらと同じように生きて同じように感じてる。背中を蹴られれば痛いし、家族のことを貶さたら胸が痛む……なのにアイツら」

「キミはいつも家族のことを思ってくれてる。優しいねルフロ」

「エル……エルも、ルフロにいちゃんの言ってること、よくわかる……エルもにいちゃんたちも、みんな痛かった、痛かったんだもん! わぁぁーん!」

「ああエル私が居るわ、辛かったね、痛かったね、よく耐えた……えらいえらい」


 母がエルキヤを抱き締めて、バレステッドは弟の頭を優しく撫でていた。誰もがそれぞれの抱くやるせない思いを理解していたからこそ、一家は涙を飲むという優しい選択をする事が出来たのだ。


 “”――かつての魔王の英断は神格化され、時を経て今、妄執となり同族達を苛んでいた。


 だがそれでもまだよりは遥かに良いのだと、その当時を知るマトラからしたら言わざるを得なかった。魔王と勇者の争いの後、帝王となった勇者がこの地を統べた“新生”の始まる以前……長く途方も無く気の遠くなるだけの年月を赤目ロチアート達は過ごして来たのだから。

 あまりに悲惨なその境遇を思えば……


 それから少しの時間が経って、マトラはエレキヤを強く抱き締めながら気丈な声を出していた。


「大丈夫……悪い事にはきっとならないわ。最近お母さんに良くしてくれる人達もいるの。だから今日の事も、ちゃんと事情を説明すればきっと悪い事にはならないわ」


 そう話す母の唇が、小刻みに震えている事にバレステッドは気付いていた。

 今思えば、そのに気付いていたのは彼だけじゃなかったのだと思う。魔族としての直感……彼等のうちに眠る悪魔の残滓ざんしが、もう側にまで差し迫った危険な空気を、その頃には感じ取っていた。

 幼いエルキヤでさえもが何かを感じて親指の爪をかじり始めた。ルフログは息を潜めながら本を閉じて、バレステッドはハッとして目を細める。

 窓から微かに差し込んでいた夕陽が窓枠の影を十字にして斜めに伸ばしていたが、突如として西日が落ちたかの様に、家族に覆い被さっていた十字架の影は消え去った。


 ――そして次の瞬間に悲劇は幕を開けたのだ。


 肩を寄せ合った家族の、その見開かれた赤い瞳が竦み上がる。

 ビクリと跳ねた母の背中越しに、子供達はノックされた扉を目にする。


「こんばん。クモリスさん、いらっしゃいますかあ?」


 低く野太くゆっくりとした男の声音からは、隠し切れていない獣の吐息を感じられた。唇に指を添えて物音を消したマトラは、そろそろと背後の扉へと振り返っていく。


「あれえ……留守かなぁあ」


 眉をひそめて冷や汗を垂らしたバレステッドたちは、額を突き合わせながら足音が数歩遠ざかっていくのに安堵しかけた――


 ――――!!


 突き破らんばかりの勢いで扉が叩かれた事にエルキヤが怯えた声を上げた。だがそんな事など先刻承知だったとでも言わんばかりに、男は先程までとは打って変わって、捲し立てる様な速さで舌を滑らせる。


「わかるんですよお、感じるんですよお……ワタシも同じロチアートだから、人間よりも少しだけ魔力の流れに敏感だからあ……」


 同族と聞いて及び、ルフログは深く被っていたフードを外して立ち上がろうとした。


「同族だって……お母さん、きっと敵じゃないよ、もしかしたら、僕らを心配して助けに来てくれた人が――」

「黙ってルフログ――っ!」


 未だ懐疑的な……というより危険を確信しているかの様な表情をしてマトラはルフログの袖を引いていた。


 そして次の瞬間、木っ端となって押し破られた扉から、冷たい外気が激しく流れ込んでバレステッドたちの髪を掻き混ぜていた――!


 白煙上り、瓦解されたそこに、残る扉の上枠を巨大な手で鷲掴み、二メートル程にもなる上背の腰を折って侵入して来る茶色のレザーコートの男を見る――


「こんばん。夜分遅くにすみません」


 マトラは咄嗟に子供達を掻き寄せながら背後にやった。そうして全員で絶句をすると、目前に立ち尽くした超暴力の予感に身震いをする。


 ……しばしの間が、そこで空いた。


 レザーコートの大男は右手に煌めく鞭の様な形状の刃物を持って、マトラを赤い目で見下ろしていた。揺れることの無いその視線を見上げたまま、母は震える顎をたどたどしく動かしてようやくこう問い掛ける事が出来た。


「貴方は……ナニ?」


 子供達は息をすることも忘れて緊迫していた。マトラは子を守らんとする必死の形相で、自らの周囲に魔力を立ち上らせている。

 ……その場で例の男だけが、規則的にすぅすぅと息をしている。

 落ち着き払って、ゴツゴツとした四十代位の顔をピクリとも動かさずに、平坦なままの無表情で男はこう自らの素性を明かす――


「“検邪聖魔省けんじゃせいましょう”」


 その瞬間、母は絶叫するような声を上げてバレステッドと目を合わせた。


「――逃げなさいッッ!! バレステッド、子供達を連れて早く!!!」

「え…………ッえ?」


 マトラは子共達を匿う様にしてドロマリウスと相対すると、決して使ってはいけないと教え聞かせていた筈の魔力を行使して、その全身に赤く鋭い殺気を纏わりつかせていった。

 

「そして俺は、教会の犬であり異端審問官の――ドロマリウス・アリアビュート」


 赤い目から怪しい煌きを解き放ち、ドロマリウスと名乗った男は鞭の如くしなる刃に蝋燭の火を輝かせた。

 赤き奔流の中に巻き込まれながら、バレステッドはエルキヤとルフログを腕に抱き込みながら立ち尽くすしかないでいる。


「お母さん!? でも、検邪聖魔省は聖なる組織の筈じゃ――」

「いいから!! エルとルフロを連れて全力で逃げなさい、お願いだからバレステッド!!」


 有無を言わせぬ母の気迫に頷かされ、訳がわからないでいる幼い二人の手を引いてバレステッドは裏口から飛び出していった。


 宵の寒風の下の草原を裸足で駆け上がりながら、息を荒らげたエルキヤが声を上げて、ルフログもまた困惑の色を見せた。


「にいちゃん、おかあさんは? わたしたちのおうちはどうなっちゃうの?? あの男の人はなに!? どうしておかあさんを置いていくの!?」

「わからない、ボクにもなにもわからないよエル」

「検邪聖魔省って何なのにいさん!?」


 ――バレステッドは無論理解をしていた。検邪聖魔省けんじゃせいましょうとはすなわち、教皇直属のであり、審議にかけられた者の邪と聖を判決する宗教裁判を執り行う組織である事を。

 その事から、自分たちが昼の一件を原因に異端審問――つまり悪魔裁判に掛けれられている事には察しがついた。

 だが確かにあの時弾みで少しの魔力を使ってはしまったが、それでもよく調べれば自分達が誰一人としてなんて覚醒させてはいない事がわかるだろう。

 バレステッドは検邪聖魔省が公平に物事を判決する聖なる組織であると教えられていた。つまりやましいことなど一つも無いのに、どうして母が逃げろと言ったのかがわからないでいたのだった。


「……待って、やっぱり戻ろう二人共……」

「にいさん?」


 逃げれば逃げるだけ疑惑をかけられるだけではないのか? 神のお導きのある彼等を信じるべきではないのか? そう考えたバレステッドは、二人の手を握ったまま駆け出すのをやめていた。空には薄く朧雲がかかり、外灯も無い暗い緑の丘より振り返って、母が残った筈の家へと振り返った。






「…………………………ぇ」







 ――踵を返したその瞬間、ビチャリと音を立ててバレステッド達の前に何かが転がった。





 しばらくの間……彼等はが何なのかを理解出来ないでいた。


 

 だが、そこに落ちた血の垂れる肉塊に。

 鼻の下辺りから両断されたその生首に、

 耳から血を流し、明後日の方角を覗く正気のない双眸に


 ――どうしたって彼等はの面影を見る。






 聞くに堪えない彼等の悲鳴を、まるで甘美なワインでもテイスティングするかの様にゆったりと咀嚼そしゃくしたドロマリウスは、返り血の付いた頬から血を拭い、口元に運んでピチャピチャと舐めながら、瞳を上転させてバレステッド達の前に踏み出して来た。彼の手に握られた刃の鞭は、まるでそれ自体が命を持った蛇であるかの様に自由に蠢き、その月光の白い輝きの元に、赤い血液の付着した様子を照らし出していた。


「カワイイねぇ……かわいい」


 正気など通り越した血走った目に戦慄させられて、バレステッド達は口をパクつかせて涙を流した。痙攣を始めたエルキヤの顎を伝い、涙がに落ちていくと、ドロマリウスは刃の鞭を勢い良くしならせ、自らの体を締め上げ傷を付けながら、長い舌を口の端から垂らす。


「いいィよぉおーーあぁあ、痛みとは快楽だ、与えるのも、受けるのも……ここは寒いね、お家に帰って暖炉に火を灯そうか……ぁぁぁ」


 血の滴る手を差し伸べた、そんなドロマリウスの見せた親切な言動と、眉根を動かさずに執行されたであろう、母の残虐なるが、何処迄もチグハグに思えた。

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