#5 芸術(2)

 絵のグループ化はもちろん最も重要だ。

 ジョシュア・レイノルズ卿(Sir Joshua Reynolds)は、ある絵の中の人物が周囲の環境からどれほど影響を受けているかを示す、二つの注目すべき事例を挙げている。

 一つめの事例は、ティントレット(Tintoretto)はある絵の中で、ミケランジェロの『サムソン』を取り上げ、その下に鷲を置き、右手にはロバのあごの骨の代わりに雷と稲妻を置いて、彼をジュピターに変えている。

 二つめの事例はもっと印象的だ。ティツィアーノ(Titian)は、システィーナ礼拝堂の丸天井にある『光と闇を分かつ神』を表す図像を模写して、『カドーレの戦い』の絵に取り入れて、落馬する将軍を表現している。


 目に関する限り、芸術家の目的は訓練することであって、だますことではないこと、そして芸術家のより高い役割は、目よりも精神マインドに関係していることを忘れてはならない。


 まさしく、


「洗練された黄金に金メッキを施すこと。百合にペイントすること。スミレに香水をつけること。氷をなめらかにすること。虹に別の色を加えること。テーパーライト(点火用の極細ろうそく)で天の美しい目を探して飾り立てること。これらは、無駄でばかげた過剰な行為である」[2]


 しかし、すべてが光り輝く黄金ではなく、すべての花がユリのように並んでいるわけでもない。表現だけでなく選択する余地もある。


「真・善・美は無限の形に過ぎない。では、真・善・美のうち、本当に愛するものは何だろうか。私たちは無限そのものを愛している。無限の実体への愛は、その形に対する愛の下に隠されている。真・善・美を魅了するのは、本当に無限なのだから、その顕在化だけでは不十分だ。芸術家は、自分の最高傑作を見ても不満を抱き、さらに高みを目指す」


 風景画は自然に忠実でないと言われることがある。

 しかし、「真実とは何か」と問わなければならない。

 心にを与える対象は、場面そのものと同じだろうか。

 もし、記憶をもとに山の連なりを描こうとすれば、心に刻まれた印象は、おそらく実際よりも山は高く険しく、谷は深く狭くなっているだろう。

 文字どおり「正確な絵」は、自然そのものと同じ印象を与えるという意味で、真実とは言えない。


 実際、ゲーテは「芸術は、自然でないからこそ芸術と呼ばれる」と語っている。


 芸術家は、美しい風景を選び、正確に描写するだけでは不十分だ。

 単なるコピーであってはならない。もっと高度で繊細なものを求められる。

 コピーするだけでなく、創造し、あるいは解釈しなければならない。


 ターナーは、素晴らしい風景に手を伸ばすだけで満足することはなかった。彼は山を動かし、さらに制圧した。


 ある貴族が、グイド・レーニが描いた美しい女性画のモデルになった人に会いたいと強く願った。

「親愛なる伯爵さま。美しく純粋なアイデアが心の中になければいけません。そうすれば、モデルが何であろうと関係ないのです」

 グイドは、大柄な荒くれ男を姿勢よく配置して、美しいマグダラのマリアを描いた。


 また、ローマのカプチン教会のために『大天使ミカエル』を描いたグイド・レーニは、次のように願った。


「天使の翼があれば、楽園に昇り、美しい精霊たちの姿を見て、そこから私の大天使を模写できたのに。しかし、そのような高みに行くことはできないので、この地上で彼の似姿を探したが無駄だった。私は自分の心の中、自分の想像の中で形成した美の観念を見るしかなかった」[3]


 科学は、人間の限られた力が許す限り、時間や場面に関係なく、どんなに無骨でも、それ自体が真実であるような方法で、実際の事実を再現しようとする。そのために、科学は多くの制限を受けなければならない。まったく気にならないわけではなく、重大な欠点がないわけでもない。


 芸術は、科学とは反対だ。オリジナルの印象を、特殊な側面の下で伝えようとする。


 いくつかの点で、芸術はどんな描写でも伝えきれない、未知の世界について、より明確で鮮明なイメージを与えてくれる。

 文学での「岩」はただの岩かもしれないが、絵画では花崗岩や粘板岩でなければならず、単なる岩では済ませられない。


 芸術家は長い間、解剖学を学ぶ必要性を認識しており、王立アカデミーでは当初から解剖学の教授がいたが、植物学や地質学の知識が必要だと考えられるようになったのはごく最近のことだ。

 現在でも、その重要性が一般に認識されているとは言い難い。


 絵画、彫刻、建築の優劣について、これまでにも多くのことが書かれてきた。

 しかし、このようなテーマはあまり有益とはいえない。いずれにせよ、本書ではふさわしくないだろう。


 建築は強烈な快楽を与えるだけでなく、どこか神秘的で、超人的な印象さえ与える。

 スタール夫人(Madame de Stael)は、建築を「凍りついた音楽」と表現した。

 大聖堂は「石の中の思考」の輝かしい見本であり、その窓はまさに華やかな色彩をまとう透き通った壁である。



(※)スタール夫人(Madame de Stael):ジャック・ネッケルの娘、アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール。フランスにおける初期のロマン派作家。



 カラッチ(Carracci)は「詩人は言葉で描き、芸術家は作品で語る」と言った。

 後者には確かに大きな利点がある。彫像や絵画はひと目見ただけで、長くて詳細な説明文よりも鮮明なイメージを伝えることができる。


 もう一つの利点は、それぞれの国が別の言語を持っているのに対して、芸術はすべての文明国に理解されることにある。


 物質的な観点から見ても、芸術は最も重要である。

 F・レイトン卿(Sir F. Leighton)は最近の講演で、芸術の研究は「この国の衰退しつつある物質的繁栄の特定の側面に関連して、日ごとにその重要性を増している」と語っている。


「他国との間の産業競争のために(この鋭く熱心な競争は、特定の産業にとってほとんど命がけの競争を意味する)、多くの場合、もはや材料の優秀さや職人の堅固さだけでなく、最近ではアートの魅力やデザインの美しさといった点で大いに進行している」


 しかし、芸術が人間に対してできる最高の奉仕は、「人間のより崇高な願望の声となり、人間の感情の地道な統制者となることだ。現在、私たちが関心をもっているのは、美的な完成度よりもこの使命である」[4]


 科学と芸術は、姉妹のようなもので、むしろ兄と妹かもしれない。

 芸術の使命は、女性の使命に似ている。世の中の厳しい労苦と混乱を、美の光輪で包み込み、仕事を喜びに変えることだ。


 科学は当然ながら進歩を期待できるが、芸術はそれほど明確ではない。

 それでも、ジョシュア・レイノルズ卿は、将来的に「絵画は大きく進歩する。現在達成できる最高の作品が、子供の作品のように見えるだろう」という確信を述べるのをためらわなかった。私たちも、絵画を楽しむ力が高まることを期待してよいだろう。


 ワーズワースは、「詩人は自分の作品の好みを創造しなければならない」と言ったが、これは芸術家にも言える。


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