#7 音楽(1)

音楽は道徳的な法則である。

宇宙にソウルを、精神マインドに翼を、想像力イマジネーションに飛翔を、悲しみに魅力を、すべてのものに華やかさと生命を与える。

音楽は秩序の本質であり、善、正義、美のすべてへと導く。

目に見えないにもかかわらず、まぶしいほど情熱的で、永遠の型である。

——プラトン



***



 音楽は、ある意味、人間よりもはるかに古いものだ。

 声は、人間の存在が始まったばかりの頃から旋律の源だった。

 楽器に関していえば、おそらく最初に打楽器があり、次に管楽器、最後に弦楽器が生まれた——すなわち、ドラム、フルート、リラ(竪琴)の順である。

 しかし、音楽の初期の歴史は、残念ながら多くの謎に包まれている。文字は音符の発明よりずっと前から使われており、音楽に関する伝承は私たちにほとんど何も教えてくれない。


 マルスとアポロンの争いは、フルートとリラの争いを象徴していると考える人がいる。マルスは古代のフルートを、アポロンはリラの名手である。もちろん後者が勝利した。リラは声を自由にし、音は——


「人間の息づかいから生まれる音楽は、

 手だけで作るどんな力よりも、

 まっすぐ魂に届く」[1]


 音楽の起源に関して、さまざまな神話が生まれた。

 あるギリシャの伝承では、バッタはミューズ以前の世界では人間そのものであったという。神話によると、喜びに狂喜したミューズたちがやって来ると、彼らはひたすら歌い続け、食べることも忘れ、ついに——


「歌を愛するがゆえに飢え死にした。彼らは、地上で彼らを称える人々の報告を天上に届ける」[2]



(※)ミューズ(Muse):詩・音楽など芸術を司る九人の女神。



 昔の作家や解説者は、次のように語っている。

 ピタゴラスは、「ある日、他の感覚のことを解明するのと同様、音を聞き分けるための何らかの基準が必要だと考えていた。たまたま鍛冶屋の前を通りかかったとき、四本のハンマーを叩く音がきれいに響いていることに気づいた。それぞれのハンマーの大きさを測ってみると、6:8:9:12の比率だとわかった。そこで、長さと太さが等しい四本の紐にそれぞれの割合の金属の重りを固定して叩いたところ、ハンマーと同じ音が鳴ることがわかった。すなわち、最初の一番低い音、その4度上、5度上、そして1オクターブ上の音が鳴ったのだ」[3]


 この話が事実かはさておき、最初のリラには四本の弦しかなかったようだ。テルパンデル(Terpander)は三本の弦を追加して七本とし、その後、さらに八本目が加わったと言われている。



(※)6:8:9:12の割合:ドレミファソラシドのオクターブの中で、6はド、8は4度上のファ、9は5度上のソ、12はオクターブ上のドの音になる。

(※)テルパンデル(Terpander):古代音楽の創始者。レスボス島出身の詩人で、古代の竪琴キタラ奏者。ギリシャとアナトリアの音楽様式を体系化した。



 残念ながら、ギリシャ・ローマ時代はもちろん、初期キリスト教の音楽でさえ資料がない。


 中国人は言葉やイニシャルを用いて音階を記した。

 最も低い音は、すべてを支える土台として「宮(Koung、Emperor)」と呼ばれ、二番目は「商(Tschang)」、三番目は「角(Subject)」、四番目は「徵(Public Business)」、五番目は「羽(Mirror of Heaven)」と呼ばれた。[4]


 古代ギリシャ人も各音階(旋法)に名前を付けていた。


 グレゴリオ聖歌と呼ばれている旋法は、ローマ教皇グレゴリウス一世の死から六百年を経るまで確立されなかった。

 スイスのザンクト・ガレン修道院は、ローマ教皇が西暦七八〇年ごろに北方地域の音楽の改革のためにシャルルマーニュ(カール大帝)のもとに派遣した聖歌隊が持って行ったグレゴリオ聖歌の写本を所蔵していたが、それは「ネウマ譜」によるものであった。 

 そこから、最初は一本の線の上に記入された「音」が、次第に線の本数が加えられて、私たちが知っている形式(五線譜)に発達していった。


 しかし、この興味深い話について、私はこれ以上詳しく述べられない。




 音楽の分野で、イギリス人は確かに世界的に優れている。

 はるか昔、一一八五年の時点で、セント・デイビッズ司教のギラルドゥス・カンブレンシス(Giraldus Cambrensis)は次のように語っている。


「ブルトン人は、他国の民のように声を合わせて歌うのではなく、さまざまなパートに分かれて歌う。この国ではよくあることだが、歌手の一団が集まって歌うときは、歌手の数だけさまざまなパートが聞こえてくる」[5]


 複数のパートで歌う合唱曲として、もっとも古くから知られているのは、イギリスの四声の歌『夏は来る(Summer is a coming in)』だ。少なくとも一二四〇年にはすでにあったと考えられ、現在は大英博物館に所蔵されている。


(※)四声:和音を構成する四つの声帯。一般的には高い方から、ソプラノ・アルト・テノール・バス。ただし、表題の『夏が来る』は男声の四声。



 ヘンリー八世時代のヴェネツィア大使は、英国教会音楽について、「ミサでは、国王陛下の合唱団によって歌われた。彼らは天上の声を持っている。人間のように歌うのではなく、天使のように歌う」と述べている。


 ヘンリー・パーセルのアンセム『神よ、我を憐れみたまえ(Be merciful to me, O God)』について、バーニーは次のように語っている。


「すべてが見事だ。私はこの音楽の冒頭部分ほど素晴らしい音楽はないと思っている。また、『神を讃える(I will praise God)』 と歌われる部分と、ハ長調による終結部は、メロディー、ハーモニー、転調の効果において、まさに神の音楽だ」



(※)アンセム(Anthem):イギリス国教会の讃美歌。



 さらにバーニーは、パーセルについて「舞台のシェイクスピア、叙事詩のミルトン、形而上学のロック、哲学と数学のアイザック・ニュートンに匹敵するイギリス人の誇りだ」と称えている。

 にもかかわらず、マクファーレンが「私たちの大きな損失」と言うように、パーセルの作品は残念ながら今ではほとんど知られていない。


 美しい音楽のいくつかは、場合によっては比較的最近のものでさえ、作者不明だ。


 たとえば、ベン・ジョンソンがピロストラトスから引用した歌曲『君が眼にて酒を汲めよ(Drink to me only with thine eyes)』は、「民衆の歌」の中で最も美しいとされている。


 『神よ、女王を守りたまえ(God save the Queen)』の旋律は、イギリス以外でも六カ国以上で国歌として採用されているが、作者はジョン・ブル博士とする説とケアリーとする説があり、疑問の余地がある。この曲が最初に歌われたのはコーンヒルの酒場だったらしい。


 『おお死よ、われを眠りに(O Death, rock me to sleep)』の曲と歌詞は、どちらもアン・ブーリン作と言われている。

 『色男コリュードーンよ(Stay, Corydon)』と『甘き蜜吸う蜂たちよ(Sweet Honey-sucking Bees)』はマドリガル作曲家の第一人者ジョン・ウィルビーの作品だ。

 愛国歌『ルール、ブリタニア(Rule Britannia)』はトマス・アーンが作曲し、一七四〇年にメイデンヘッド近郊のクリヴドンで初演された仮面劇「アルフレッド(Masque of Alfred)」の一部となった。また、シェイクスピアの「テンペスト」の中の音楽『ミツバチが蜜を吸うところで(Where the Bee sucks there lurk I)』もアーンの功績が大きい。

 歌曲『ブレイの牧師(The Vicar of Bray)』は元はといえば「A Country Garden」として知られていた曲による。『Come unto these yellow sands』はパーセルに、『Sigh no more, Ladies』はスティーブンスに、『Home, Sweet Home』はビショップに捧げられたものだ。




 一般的に、短調の民族音楽には不思議な哀愁がある。実際、これは未開民族の音楽全般に当てはまる。しかも、彼らはラブソングを持っていないように見える。


 ヘロドトスは、エジプトにいる間に聴いたのはたった一曲のみ、それも悲しい歌だけだと語っている。私自身の体験も同じだった。ある種の音楽は、メランコリーな傾向を内包しているようだが、ジェシカだけがそうなのではない。


「私は甘い音楽を聞いても、決して陽気ではない」


 音楽家の墓碑銘には、非常にすばらしい言葉が記されている場合がある。

 たとえば、次のような内容だ。


「フィリップス、その調和のとれたタッチは

 罪深い権力や不幸な愛の苦しみを取り除くことができた。

 ここで安らかに眠り、もう貧しさに悩まされることはない。

 この平和な墓で、誰にも邪魔されることなく眠りなさい

 天使があなたのような音色で、あなたを目覚めさせるまで」



(※)クラウディ・フィリップス(Claudy Philips):ウェールズ出身のバイオリニスト。



 特に、パーセルの早すぎる死は、イギリス音楽にとって取り返しのつかない損失となった。


「ヘンリー・パーセル、ここに眠る。

 彼のハーモニーを超えることができる、

 祝福された地へと旅立った」


 音楽史には、さまざまな作品が作曲された状況について、興味深いエピソードが数多く残されている。


 ロッシーニの『泥棒かささぎ(Gazza Ladra)』の序曲は、初演当日に、スカラ座の上階にある屋根裏部屋で書かれたと言われている。ロッシーニは支配人に監禁され、四人の場面転換係の監視下に置かれていたが、作曲が終わった楽譜を少しずつ窓から写譜屋に放り投げた。


 タルティーニは、自身の最高傑作とされる『悪魔のトリル(Il trillo del Diavolo)』について、夢の中で聴いた音楽を楽譜に写したと言われている。


 ロッシーニは、オペラ「エジプトのモーセ」の中の『汝の星をちりばめた玉座に(Dal tuo stellato soglio)』について次のように語っている。


「ト短調のコーラスを書いているとき、私はうっかりインク瓶ではなく薬瓶にペンをつけてしまい、しみを作ってしまった。これを紙ヤスリでこすって乾かすと、臨時記号がナチュラルになり、ト短調からト長調への転調がもたらす効果をとっさに思いついた」


 しかし、これらはもちろん例外的なケースである。


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