温もりを求める

 ハルの父さんが迎えに来て、三人まとめて送るよ、と明るく笑った。ハルとは少し違うその笑顔は人を元気にさせるような、悩みを吹っ飛ばしてしまうような、そんなエネルギーに溢れていた。

「健太郎はデカいなぁ、相変わらず」

「ハハ、よく言われます」

「今何センチだ」

 百八十四ですかね、とマサの隣に座る清水が答える。思わず、デッカ、と呟くとマサと目が合った。

「晴樹が迷惑かけてないか?」

「……」

「そこは黙るなよな」

 と、コントのような三人の話に、俺とマサは置いてけぼりを食らい、どうしたものか、とチラチラと視線を交わす。ルームミラー越しにハルの父さんとバチッと視線がかち合った。

「えーっと、ふたりは……野球部だっけ?」

「そうです」

「今日は休み?」

「いや、外でやってたんですけど雨降って、早く終わって、誘われたんで来ました」

「フットワーク軽いねぇ。遠かったでしょ」

 ぶっきらぼうなマサの受け答えにも、ハルの父さんは大人らしい余裕のある対応で、嫌な顔一つせず言葉を交わす。そういうところは、ハルと似ている。

「でもなんだって誘ったんだ?」

「なんとなくだけど」

「お前はすぐノリで誘うもんなぁ」

 いーじゃん、と少しヘソを曲げたように言うハルは正しく子どもで、家でも外でも繕うことなくハルはハルなのだ、と安心する。

 グーッ、とゆっくりマサの身体が近付いた。

「あ、ごめん」

「いや、別に」

 どうやらお茶を飲もうとした清水の肘に押されたらしいのだけれど、マサは文句も言わず、清水を見もせずに言う。清水も少し驚いているようで、マサをジッと見詰めた。

「なに」

 けれど、さすがにそれは居心地が悪いらしく、マサは眉根を寄せた。清水は目元を緩めて視線を外す。

「なんでもない」

「あっそ」

 マサの様子が明らかにおかしいけれど、それを追及しようにも材料が少なくて、今聞いても煙に撒かれるだろう。寄せられたままの眉も、細められた目元も、一文字に引き結ばれた口元も、見慣れていると言えばそうなのだけれど、なにか違う。

「親父さん、俺ここで大丈夫です」

「あ、この辺?」

「コンビニ寄るんで」

「あ、そこの?」

 はい、と清水が歯切れ良く答え、すぐに降りられるように用意を始めた。車が路肩に寄り、ハザードランプを点滅させる。カチカチ、と少し苦手な音が社内に響いた。

「ありがとうございます」

「明日も迎えに行くから」

「すんません。お願いします」

 デカい身体を屈めて車から出ると、清水は振り返ってハルの父さんに柔らかい笑顔を向ける。必然的に俺にも見えたその切長な目元が細められると、八古は口元を手で覆った。

 バタン、と大きな音を立ててドアが閉められる。

「ふたりはウチと方向一緒なんだっけ?」

 安全確認をしながらハルの父さんが柔らかく問い掛けた。

「そうです。俺、ハルキくんと家近所で」

「そうなん?」

 答えた俺の言葉に反応してマサが俺を見る。

「そうなんよ」

 もうちょいそっち、と清水が降りた分の空間をマサと共有しようと移動を促す。ザリザリとスラックスとカーシートが擦れる音を響かせながら、マサは助手席のすぐ後ろへと座り直した。車体が静かに動き出す。

「あの辺は住宅街だもんね。えーっと、」

「……あ、八古です。俺は髙橋ん家の辺りの表通りにあります」

「表通り……ウチの二本違いかな?オッケーオッケー」

 元々大した話題も持ち合わせていない俺達は特に口を開くでもなく、お願いします、とただハルの父さんの車に揺られる。

「音楽かけていいかい?」

「どぞ」

 渡りに船、は少し違うかもしれないけれど、車のエンジン音に侵された耳を解すのには丁度いい。途端、アコースティックギターの静かな演奏が流れた。

「父ちゃん、今日は……」

「あー。まぁ、マシな方だよ。ダイジョーブ」

 聞くつもりはないのに、ハルとハルの父さんの声が、アコースティックギターよりも、それに併せて歌う声よりもハッキリと耳に届く。

「なぁ」

「ん?なに」

 小声でマサが話しかけてきた。どうしたのだろう、と顔を覗くと一際険しい顔で眉間に指を当てていた。

「古畑?」

「違ぇわ」

 そうじゃなくて、と話を仕切り直そうとするマサは唇を尖らせ、言いにくそうにしている。

「なに?」

「いや、大したことじゃねぇんだけど」

「じゃあ早く言えよ」

「その……」

 と、マサが俺の耳元で小さくボソボソの呟いた言葉に俺は思わず笑い、

「またそれ?そんな意外?」

 なんて返すと、マサは更に不機嫌そうに顔を歪めた。

「なに?なしたん?」

「マサが“清水、マジであんなに笑うやつだっけ?”って。さっきも言ってたのにさ」

「ハハ、ウケる」

 どんなイメージよ、と清水をよく知るハルは例に漏れず笑った。マサはやはりそれが気に食わないようで、だってよ、と吐き捨てるように声を荒げる。すると、聞いていたハルの父さんが、あー、と溢した。

「健太郎はちょっと不器用なんだよなぁ。いいヤツなんだよ、ホントに。面倒見もいいし優しいし、情に厚くて礼儀正しくて成績も良くて、ウチの晴樹とは大違いなんだよ」

「俺の評価低すぎん?」

「ハルも優しいですよ」

「ゆーじぃ〜」

 ありがと〜、と情けない声で言いながら上体ごと振り返って伸ばされたハルの掌に、自分のそれを打ち合わせる。そのまま離れるはずだったのだけれど、すっと柔く掴まれてしまい、段々と掌全体から熱が広がってじんわりと芯まで熱くなる。

 ああ、ダメだ。やはり俺は欲深い。


***


 ありがとう、とか、サンキュー、とか。最後に面と向かって言ったのはいつだろう。

「すんません、ありがとうございました」

「気にしないで、ウチの坊主のついでだから」

「じゃあ明日なー」

 部活での挨拶や、目上年上への言葉としては当たり前に使うが、それ以外ではからっきし。大切な言葉であることは知っているが、いつからか誰かに伝えることを少し恥ずかしいと思うようになってしまった。

 だからだろうか。なんの躊躇いもなく、当たり前のように俺に言ってのけた清水が、少しだけ温かく柔らかく輝いて見えたのは。

「ただいま」

 ガチャリと開けたドアの先は、おぐらのために灯された照明とに照らされ、フローリングを爪が引っ掻く音が響いている。廊下からリビングへ入ってもやはり誰もおらず、これが日常だ、となぜか安心した。

 誰かといるのは居心地が悪い。

 今まで一人で過ごす時間が長かったからか、今日のように誰かといる時間に慣れないだけかもしれない。人付き合いも得意ではないし、部活のヤツらとは必要なコミュニケーションを取れている。俺にはそれで十分なのだ。

 足元をついて歩く小さな兄妹とともにリビングへ入りダイニングテーブルに目を遣ると、紙切れが二枚置かれていた。見慣れたその紙切れに、悲しいとか、寂しいといった感情なんて抱かずただ溜息が出るだけだった。

 あの人達は、子どもには金を与えていれば育つ、とでも思っているのだろうか。

 不自由はない。不満もない。けれど、それだけであの人達は虚しくならないのだろうか。

 急いで書き残したのであろう文字はところどころ繋がり省略され、それでも字として意味を持っている。

--今日明日泊まりになりそうです。ごはん代置いておきます。おぐらにごはんあげました。

 事務的な、思いやりなんて一切感じられない書き置きをグシャリと丸める。紙切れと並んでいた無表情で俺を見上げる樋口一葉の顔に腹が立って、ただ睨み付け置き去りにした。

 どんなに考えようとも、溜息しか出てこない。

 足にドン、と鈍い衝撃が走る。

「なんだ、おぐら。どした?」

 後ろ足で立ち、前足を俺の膝辺りに突き甘えるおぐらを抱き上げ、ソファーへと向かう。テレビのリモコンを取り、電源を点ける。過去の名作映画が流れていた。ソファーに腰掛け、おぐらを膝の上にのせると、もぞもぞと動き居心地の良い場所を探っている。落ち着いたのか、太腿の間に鼻を差し込み、そこで思い切り息を吐くと、おぐらは寝ようと試みていた。

--ああ、もう九時近い。課題やって、明日の準備して。……風呂も入らないとな。洗濯もしねぇと。

 やらなければならないことの量と、今日という日の残された時間の差に眩暈がするが、なんとか鞭打ってこなさなければ、と頭の中を整理する。申し訳なさに苛まれながら、一日中寂しく過ごしていただろうおぐらの脇を両手で掴む。ゔゔ、と小さく唸った。

「おぐら、俺風呂入んねぇと」

 吠えはしないものの、挟んでいた鼻先を膝に上げ、後ろ足で俺の腕を掻く。耳をピンと立てて警戒し、見るからに不機嫌そうだ。

「そんな怒んなよ」

 な、と言い聞かせながら頭や顎を撫でてやると、おぐらは渋々といった風に膝から退け、ソファーに置かれたお気に入りのクッションの上にのそのそと歩き横たわった。

「ん、あとでな」

 と、また頭を撫でてやると、早く行けと言わんばかりに外方を向いた。それに既視感があって、いつのことだったか、なんて考えたがつい昨日の、部活終わりのことだと思い至る。アイツも--清水もこうやって、俺から顔を背けた。なんてことはない。それだけの話だ。

 風呂へ行こう、と立ち上がる。

 温まった身体にTシャツと短パンを纏う。身体からは汗臭さは消え、嗅ぎ慣れた石鹸の香りがほんのりと漂った。ゆっくりと湯に浸かるわけでも、烏の行水でもないが、清潔さを取り戻した身体をタオルで拭く。まだ三十分も経っていない。乾かす程でもない長さの髪にドライヤーを向け、温風を当てる。指先で掻き混ぜて、水滴が飛ばなくなったのを確認しドライヤーを止める。飯も食わなければ、と思うが料理が出来る訳でもない。冷蔵庫に何があるかなんて知らないが、今から外に行くのでは補導されるかもしれない。それは面倒だ、とリビングへと足を向ける。

 おぐらは未だクッションの上で寝ており、それはそれは心地良さそうだ。いっそのことそこに並びたいが、まだまだやらなければならないことはある、と自分を律し、エナメルバッグから洗濯物を全て出す。ワイシャツと練習着にインナー、ソックス、などといった泥やなんやに汚れたソレを纏めて入れた袋を引っ張り出す。バッグを漁ったついでに課題をまとめているファイルとペンケースを出し、ダイニングへと置いて、再びリビングを後にする。小学生の時、親が忙しいのは知っていたから、家事は一通り祖母から教わった。昔は祖母が時折来てはアレコレと家事をしていたが、やはりそれでは手が足りない。そう理解してか--自分でも定かではないが--いつの間にか手伝うようになり、一人である程度のことはできるようになってしまった。

 いくつかのボタンを押すと、電子音を響かせながら、ガーッガーッとノイズを響かせて洗濯機は回り出す。

 悪いことばかりではない。きっと祖母が教えてくれたことはこの先ずっと役に立つし、自立する上で欠かせないものだ。だが、どうしてだろう。周りはみな、同じことをしているのだろうか。みな、泥汚れの落とし方や、ほつれた裾上げの直し方を知っているのだろうか。作り置きされたカレーの、中途半端に温め直した時のあの冷たさを知っているのだろうか。

 不満なのではない。きっとそこに誰か一緒に、全然冷てぇな、と笑い合える相手がいたのなら、こんなことは思わなかったのだ。アイツのように優しく、温かく、柔らかく笑う人がいたのなら。

「あー、なに食おう」

 開いた冷蔵庫の冷気が頬を撫でた。

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