第7話 これから

 一度家に寄って鞄を置いた後、十月三日の夜十一時すぎにはただ我武者羅に走り抜けた道のりを、彗斗はゆっくりと歩いていく。


「……今更だけどさ」

『何?』


 彗斗は、少なからず緊張しているであろう実姫を解すために、わざとスルーしていた話題を掘り起こす。


「よくも勝手に学級委員長に立候補してくれやがったな」

『……え~っと、何のことかなぁ?』

「その絶妙な間が答えだ。俺の性格知っておいてわざとやっただろ」

『彗斗は真面目で優秀だから、前任者として推薦したんだよ。クラスをまとめる仕事にはまさに適任!』

「頭がいいのとリーダーシップがあることに何の繋がりがあるんだよ……」


 確かに前任の実姫は成績優秀者でありクラスを上手くまとめていた。颯も実姫と同様であるが、そんな風にできるのは一部に限られる。二人が特別、そういうのを得意にしていただけに過ぎないのだ。


『いいじゃん。烏川さんと新しい接点持てたんだし』

「それは結果オーライってやつだろ」

『ううん。違うよ、彗斗』

「は?」


 彗斗は首を傾げた。どう考えて自分のやったことをなかったことにしようとしているだけだろうと彗斗は思ったが、実姫はそれを真っ向から否定した。




 なぜなら実姫は、早梨奈が隣でこちら――彗斗の様子を伺っているのを知って立候補を決めたからだ。

 その時は単純な推測でしかなかったが、当時の実姫の推測は後に的中する。

 ――前任の学級委員長である琴浦さんの後を追うようにして、射出君は立候補するかもしれない。

 ――けれど、きっと不慣れで射出君にとっては苦手そうな仕事だろう。

 ――それならば自分が副委員長になってサポートをしてあげたい。

 実姫はそんな早梨奈の心情を、彼女の表情や仕草だけでものの見事に読み取り、彗斗として立候補したのであった。


『……ううん。やっぱりなんでもな~い』

「はぁ? そこまで言っといて言わないのはさすがにおかしいだろ」

『その内分かるって』


 このことを話せば、二人の関係は進展するきっかけになるかもしれない。だがきっと、このことを打ち明けるまでもなく、二人は自然と距離を近づけていくだろう。この前、彗斗が早梨奈の家を訪れたときのことを思い出し、そう思ったからこそ打ち明けるのを渋ったのだった。



 彗斗の自宅からゆっくり歩くこと三十分程して、彗斗は実姫の家に辿り着いた。

 白を基調とした二階建て住宅は、色の影響で他の家よりも映えて見える。表札には『琴浦家』と筆記体で刻まれていた。


「準備は良いか?」

『……うん』


 その返答が来るまでの僅かの間に、実姫の拭いきれなかった緊張の色を彗斗は感じ取った。

 たった一週間ぶりの再会。それは世間的に見れば、決して長くない期間だろう。

 しかしこれは、もう二度と会えないはずだった対面。どんな風な反応をするのか、どんなことを話せばいいのか。考えれば考えるほど、実姫は緊張していく。人前でも決して緊張せず、何でも臆さない彼女としては、極めて珍しいことであった。

 彗斗がゆっくりインターホンのボタンに手をかける。人差し指で強く押すと、すぐに家の中から「は~い」と威勢のいい返事が聞こえてきた。


「相変わらずそうだな、実姫の母さん」

『……うん』



 果たして本当にそうだろうか。

 実姫は母親――琴浦藍の声を聞いてそう思ってしまう。



 返事があってすぐ、家の扉が開かれた。


「……あら、彗斗君! わざわざありがとう」


 藍は嬉々として頬を緩めて出迎えた。

 彗斗が彼女と顔を合わせたのは実に三年以上ぶりである。一方で藍の方はそうではなく、先日から幾度も顔を合わせていた。故に彼女の口から、『久しぶり』という言葉は聞かれない。

 彗斗が挨拶代わりに軽く会釈すると、


「ささ、中に入って入って!」


 と、藍はすぐさま彗斗を招き入れた。

 この親にしてこの子あり。笑みを浮かべる藍の姿は、実姫の姿を彷彿とさせた。


「お邪魔します」


 こうして彗斗が実姫の家に入ったのは、数年ぶりになる。

 建物は同じで内装も変わらないとはいえ、時が流れれば多少の変化でも大きな変化に感じてしまうものである。それでも、玄関に置かれた小さな飾り物や額縁に飾られた絵といった当時と変わらないものもあり、それらを懐かしむようにして彗斗は周りを見渡した。

 リビングに案内されると、藍は「少し待っててね」といい家の奥の方へと行ってしまう。そうして彗斗は、ソファーに腰掛ける実姫の父――琴浦昭文あきふみと対面した。彗斗が良く会っていたころにはなかった白髪もまた、彗斗には時の流れを感じさせた。

 昭文は彗斗の顔を見るや否や、藍と同じように嬉しそうな表情を浮かべた。


「彗斗君じゃないか。実姫に会いに来てくれたのかい? ありがとう」

「はい……。いえ」


 彗斗のその微妙な反応に、「それは一体どっちだ」と言わんばかりに昭文は首を傾げた。

 実姫に会いに来た。それは厳密には違っている。

 彗斗が会いに来たのは実姫の両親である。

 そして――。


「実は、お話があってきました」

「話……、と」


 昭文は彗斗のただならぬ物言いに対して、極めて真剣な面持ちを浮かべた。

 二人が口を噤んでいると、チク、タクと時計の針が刻む音が良く聞こえる。そんな緊張感漂う空気の中、彗斗は少し言い辛いことを口にした。


「……ただその前に、どこか寝転べるところはありませんか?」

「寝転べる? どこか体調でも悪いのか」


 突拍子もなくそのようなことを言えば当然その反応になる。昭文は心配そうな眼差しで彗斗を見つめていた。


「いえ。ちょっとこれには訳がありまして……。少しだけ、時間をいただけませんか?」

「……分かった」


 そう言って昭文はソファーから立ち上がると、リビングからほど近い和室へと案内した。

 昭文が襖を閉めると、元より静かだった空間がシーンと静まり返った。昭文の足音が完全に遠退き、リビングの扉が閉まる音を聞いてから、彗斗は少し歩いて和室の中央にて腰を下ろす。


「なんかおかしなやつに思われないか、これ」

『うん。すっごい変な奴だよ』

「ちょっ! お前が言い出したんだろ? 両親と話したいって」

『うん。だから、本当に感謝してる』

「……そっか」


 いつものようなおどけた様子がスッと消えたように彗斗は感じ、実姫が覚悟を決めようとしていることを察した。

 自分がやれることはここまで。あとは、そんな実姫を後押しする一言をかけることくらいしかできない。


「じゃあ、頑張れよ」

『うん。ありがと、彗斗』


 実姫の感謝の言葉を聞き入れると、彗斗は静かに体を横たわらせた。

 いつしか彼女が行き先の好転を祈ったように彗斗は上手くいくことを願い、ゆっくりと目を閉じた。



* * *



 数分後、眠りについたところで彗斗――否、実姫は身体を起こした。

 自ら襖を開けて再びリビングに戻ると、昭文と藍が何やら話していた様子だった。

 二人はダイニングテーブルに備え付けられた椅子に並んで座っており、実姫が来たことに気付いた昭文はその対面の席に座るよう促した。実姫は頷き、静かに腰を下ろす。


「もう、大丈夫かい?」


 昭文が尋ねると、実姫はコクリと頷いた。

 そして次の言葉を口にしようとした昭文を遮るようにして、実姫は第一声を発した。


「ただいま」


 あくまで玄関の扉を開けたときのように、出迎えられて「おかえり」と言われたときのように、実姫はごく自然体で言った。

 その言葉の意味は当然、昭文と藍にはすぐに伝わらない。ただ鳩が豆鉄砲を食ったように、実姫を見ていた。

 だから続けて、口にする。


「私だよ。琴浦実姫」


 自分で言いながら、詐欺の常套句のようではないかと実姫は思った。けれど、いくらこのための言葉を用意しようと頭を捻っても、そんな台詞しか浮かばなかったのだ。

 見た目は誰がどう見ても、二人の良く知る射出彗斗でしかない。声もまた、寸分違わない。

 だから、例えそう名乗っても理解されないと思っていた。故に、言葉の限りを尽くし、理解されることに徹しようと実姫は考えていたのである。

 そして更なる言葉を続けようとした時であった。


「実姫……なの?」


 突如、声を震わせながら藍はそう言った。そう簡単には信じてもらえないと思っていたため、実姫は内心かなり驚いた。


「な、何を言ってるんだ。彗斗君もお前も」


 一方の昭文はさすがに信じられないらしく、実姫と藍を交互に見つめていた。

 そんな昭文を実姫は心の中で責めたりしなかった。仮に自分がその立場なら、同様のことを感じていただろうから。

 だからこそ、予定通りに話を進める。


「簡単には信じられないと思う。だけど、ちゃんと聞いてほしい」


 実姫はそう言って、これまでの全てのことを打ち明けた。

 自分の両親だからこそ、どんなことも包み隠す必要がない。十月一日から今日まであった、あらゆる出来事を赤裸々に語った。

 時に感情的になりながらも、説明が所々で拙くなりながらも、実姫は精一杯伝える努力をした。それが実を結んだのか。当初は首を傾げていた昭文が、大きく息を吐く。


「……そんなことが」


 昭文は瞼を伏せながらにそう呟く。説明前まで疑っていた昭文も、どうやら理解を示したようだった。


「一つ質問、いい?」


 その隣に座る藍がそう言うので、実姫は小さく頷いた。


「本当に、私たちは信じていいのね? 私たちの娘が、今は幼馴染の射出彗斗君の中にいるって」


 それを証明できるものはない。口から吐き出される根拠の薄いものでは、証明にするに足りない。

 だから実姫は、実姫は藍のあらゆる疑念をすべて払拭できるよう、笑みを浮かべながら、


「うん」


 はっきり、強く肯定した。

 この体はあくまで彗斗のもの。かつて、泣きたいほど胸が張り裂けそうになったあの日は、涙が出なかった。

 ――上手く笑えていただろうか。

 精一杯のことをした上でも、そんな懸念だけが残った。

 チクタクと時計の音が聞こえる、静寂な空間が生まれる。その中で実姫は、思いが通じるようにと、祈るようにして目を強く瞑った。


「……っ!?」


 しかし、体にかかる強い衝撃で、実姫は急いで目を見開く。全ての懸念が杞憂と化

すその光景に、胸が一気に温かくなった。


「おかえり! 実姫!」


 そこには自分に抱き着く藍の姿があり、涙を流していた。玄関口で声を聞いた際に感じた違和感――自分同様、表側では取り繕っているのではないかという懸念は的中していた。ずっと、ずっと辛い思いを内に留めていたのだろう。それに比例するかの如く、声を荒らげながら泣き叫んでいた。

 そんな姿はあの日――病室で自分の肢体を前に泣く姿と重なる。

 でもその涙の意味があの時とは真逆で悲しみに暮れたものではなく、生きているという事実を心から喜んでいるように実姫には映った。

 心が先程の緊張から一気に解放されたためか、再び実姫は微笑みを溢す。


「おかえりなさい。実姫」


 続けて言う昭文の瞳ももた、涙を堪えるように潤んでいた。


「うん。ただいま!」


 弾けた笑みはこれまでよりも一層増して輝かしく美しく、実姫の表情に違いなかった。



* * *



「……うぉっ! びっくりした……」


 彗斗が目を覚ませば、すぐそこに泣きじゃくる藍の顔があった。実姫とは違い、自分に操作権がない際のことはまるっきり分からないためである。


「こ、これは……」


 そんな藍の姿を見て、「一体何が起きているのか」と刹那疑問が湧いた。だが、きっと実姫が話し終えたからだろうということに気付き、そっと胸を撫で下ろす。


「彗斗君」


 昭文がそんな彗斗の様子を見て名前を呼ぶ。


「はい」


 一瞬も迷いや躊躇いといった間もなく返事をした彗斗を見て、昭文は安堵したように言った。


「そうか。やはり実姫の言っていたことは正しかったのか」

「はい。実姫の言ってたことは、全部本当のことです。信じてあげてください」

「あぁ。もちろんだとも」


 昭文の笑う顔を見て、余計なお世話だったなと彗斗自身も笑って見せる。


「でも、その相手が君でよかったよ。あいつの息子で」


 そう言う昭文の表情は、どこか懐かしむようで。きっと親友であった彼――射出勇慈のことを思い浮かべているのだろう。

 彗斗はそこで、思い出したかのように言葉を口にする。


「本当にご迷惑とご心配をかけました……」


 その彗斗の謝罪は、勇慈の代弁ではない。あの日以降、自分のことを心配していてくれただろう昭文と藍に対する感謝の言葉だった。

 その言葉を聞いてか、藍はより一層声を荒らげながら泣く。

 そんな藍の気持ちを汲み取って、昭文が代弁にした。


「今、こうして君が元気でいてくれることが何より嬉しい。娘が元気そうだと知って嬉しいようにね」


 それは彗斗を、自分の息子のように思っていたということを言外に孕んでいた。

 昭文はテーブルに両手をつき、深く頭を下げる。謝罪されるようなことは何もないと、彗斗は顔を上げるように言おうとした。

 しかし、それは謝罪ではなかった。


「彗斗君。これから、実姫のことをよろしく頼むよ」

「はい!」


 彗斗が笑顔を滲ませてそう返事をすると、昭文は顔を上げて安心と喜びを孕んだ笑みを浮かべるのであった。



* * *



 琴浦家を後にし、彗斗は家への道を歩いた。その足取りはいつ振りか、少し軽く感じた。


「なぁ、実姫」

『何?』

「こうやってたまに琴浦家にはお邪魔するから、その時は遠慮なく家族で過ごせよ?」

『……』


 そんな彗斗の提案に、実姫からの応答はなかった。そのことが、一つのことを想起させた。


「もう琴浦実姫は死んでいるから。なんて言うつもりか?」



 琴浦家を訪れるきっかけとなった実姫の言葉。


『最後に、彗斗にお願いがあるの』


 最後に、もしくは最期にと言ったのは、これを最後にもう彗斗の身体を使わないということを意味していた。

 自分は死んでいるから、そうすべきではない。『いつも通り』から逸脱した行為を実姫は拒んでいた。


『だって……』


 そんな実姫の言葉を遮って、彗斗は滔々と話す。


「生きてるって言ったの、どこのどいつだよ。『それに、私はまだ生きてる』、『死んでいないからこうして話せる』、そう言ったのは誰だ?」


 十月三日の夜。実姫の死を知り、絶望に陥った彗斗を救うため言った言葉の引用。彗斗はあの日の実姫の言葉を覚えていたのだ。

 身から出た錆。この言葉に、実姫は反駁の余地がなかった。


「だから、実姫は生きてる。生きているなら、家族で過ごすのは普通だろ?」

『……ありがとう』


 普段は面倒くさがり屋で、決してノリがいいタイプではない。彗斗と実姫がよく遊んでいた頃は、実姫が彼を引っ張るようにして遊びに連れ出すことが多かった。

 実姫が一緒に遊んで楽しいと思う人は他にもいたのかもしれない。

 けれど、それでも彗斗の隣に居心地の良さを感じ、再び隣にいることを望んだのは、こんな一面――優しく人思いなところがある彗斗だから。そんな彗斗の魅力に惹かれていたからだと、実姫は思うのであった。


『でもいいの? 結構家から遠いし』

「昔はこうしてよく歩いてた気するけどな。実姫の家で遊ぶことになってるのに、なぜかわざわざ家まで迎えに来たから」

『言われてみたらそうかもね。当時はそんなに遠い気がしなかったんだと思う』

「――それに、いつも通りの方がいいだろ?」

『……』


 実姫は彗斗の言葉に押し黙った。もちろん、嬉しさ故にだ。

 ただ、決して彗斗に伝わらない。

 嬉しさから頬が赤くなっただろうことも、恥ずかしさから目を逸らそうとするだろうことも。彼と対峙していないからこそ、行動から読み取れる感情は決して伝わらないのである。



 二人間に無言の時間が流れた。

 見慣れた景色を懐かしみながら、彗斗はマイペースに家へと歩いていく。すると突然、実姫が彗斗の名を呼んだ。


『彗斗』

「うん?」

「……あれって烏川さんだよね?』

「……みたいだな」


 実姫の言うように、目線の先にはある少女がいて。

 ほんのりと茶色に染まった髪は、日の光を纏ってより暖かみを感じさせる。セーラー服の袖からちょこっと指を出して裾を掴みつつ、何かを探すようにあちらこちらに顔を向ける少女。

 それは若干遠目でも、烏川早梨奈であると分かった。

 彗斗はなぜ今ここにいるのかと疑問に思いつつ、早梨奈の元へと歩み寄る。すると、足音で気づいた早梨奈が目を丸めた。


「い、射出君? こんなところで何をしてるんですか!?」

「それは見事なまでにこちらの台詞だ」

「私は射出君を訪ねようと」

「なして?」


 彗斗が首を傾げると、早梨奈は平然と答えた。


「鶴屋先生からお休みだと聞きました。それで……」

「だったら普通、家に行かないか?」

「私、家知らないんです」

「……」


 しょんぼりと少し泣きそうな面を浮かべる早梨奈を見ながら、そう言えばこの人は天然だったなと昨日のことを思い出して彗斗は顔を抑えた。

 住所を知っている亮臣に尋ねるという手段はあるが、プライバシー保護の観点で教えてくれない。残された選択肢としてメールで直接聞く、というものがあったが、それでは要件を伝えなければ教えてくれない。そんな風に判断し、この前一緒に帰った時のことを記憶から辿って家を探そうとしたのだろう、と彗斗は思った。

 真面目ながら不器用なその探し方が、実に彼女らしくて可愛らしく、顔を隠していないと顔の火照りに気付かれてしまいそうであった。


「……って、私のことは良いんです。射出君、大丈夫ですか?」


 そう問われた彗斗は何とか落ち着きを取り戻し、顔を覆っていた手を取り払う。


「あぁ、うん。大丈夫。烏川こそ、病み上がりなのに大丈夫か?」

「あ、はい。おかげさまで。実は昨日のこともあったので、射出君のことがすごく心配だったんです。もし悩んでいるなら、私が力にならないとなって思ったら、居てもたってもいられず」

「……それでこんな時間帯に学校飛び出してきた、と」


 先ほど実姫の家を出たのは丁度昼過ぎ。お昼を食べていったらどうだと言われていたが、それはまた今度ということで、琴浦家を後にした。


「はい。今は昼休みなので問題ないかなと思いましたので」

「いや、大ありだろうに」

「射出君が辛い思いしているのに、呑気に学校にいる方が問題大ありですから」

「……そっか」


 逆の立場だったとしても、彗斗なら放課後に行っただろう。昨日がそうだったように。

 でも早梨奈は違う。多少の障害があっても、躊躇ったりはしない。そんな大胆な行動をとる早梨奈はすごいなと、彗斗は感心した。


「それに、これも学級副委員長の仕事かな、と」

「それは悪いな。学級委員長がこれで」


 彗斗は頭を掻きながらそう言うと、


「あ、ち、違います! そう言う意味で言ってないですから、気にしないでください!」


 と、早梨奈から全力のフォローをされる。

 早梨奈はそう言うものの、彗斗は別に体調を崩していたわけでもないので、やはり申し訳なさがあった。



『……ほ~んと烏川さんって羨ましい』

「何か言ったか、実姫」

『ううん、何でも』


 実姫は羨ましく思う。自分ができなかったことをいとも簡単にやってのけるところが。

 でも同時に、やはり彼女なら彗斗の隣にいるに相応しいとも思う。


「琴浦さん、何て言ってましたか?」

「いや。なんか烏川のことが羨ましいとかなんとかって」

『言っちゃうんだ……』


 自分に都合の悪い時は濁す癖に、こういう時は言ってしまう彗斗に不満が漏れる。


「えぇっ!?」


 早梨奈はそんな彗斗の言葉を聞いて随分と驚いた様子で、言葉を捲し立てる。


「私の方こそ、琴浦さんのこと羨ましいなって思ってました。勉強も運動もできて、明るくてみんなに好かれてて、信頼もされてるなんてきっとみんなどこかで憧れてたと思います」

『こういうところが……! も~っ!』


 そういう謙虚なところも実に可愛らしいと実姫は感じた。

 こういう点が嫉妬はあっても、決して憎めなかった一つの理由になっていたのである。



「言いたいことは分かる」


 そう言って彗斗は実姫を宥める。


『私も彗斗が好きになる理由、分かった気がする』


 そんな風に彗斗と実姫が会話していると、彗斗の言葉を同調と誤解して早梨奈が話を続けた。


「だから本当は、友達になってみたかったです」


 そんなどこか寂しげに語る早梨奈の姿を見た実姫。意味がないにも関わらずひっそりと囁くようにして彗斗へ言伝をする。

 それを彗斗は一言一句同じにして、早梨奈に言った。


「『私なんかで良かったら、今からでも友達になってほしい』って実姫が」

「……っ!? 本当ですか?」

「『なんかちょっとふく……、いややっぱなし。……って、何から何まで伝えるんじゃない!』」


 実姫の言葉をシャドウイングしていたせいで、余計なことまで口走ってしまった彗斗。


「ふふっ、あははっ」


 そんな一連のやり取りをみて早梨奈は堪えきれずに笑いを漏らした。

 ツボにはまったらしく息を切らしていたが、一度深呼吸をして呼吸を整えると、


「琴浦さんとも友達になれたので、私は戻り……」


 そう告げて、早梨奈は学校に戻ろうとした。


「射出君」

「? はい」


 しかし、後ろを向こうとした体を止め、なぜか真剣な面構えで改めて彗斗を見据えた。

 そんな様子の早梨奈に、彗斗は首を傾げる。


「学校、行きましょう」

「……え」


 彗斗は拒絶の声を短く漏らす。

 休むと伝えた手前、今から学校に行くのは嫌だったので、彗斗はこのまま少し早い休日を過ごす予定だった。どの道、今日の午後の授業は家庭科と芸術だけで、彗斗にとってはあまり身の入らない授業ばかりだった。


「制服着てますし、学級副委員長が学級委員長のサボりを看過するわけにはいかないので」

「いや確かに制服は着てますけども……」


 彗斗は自分の服装を確かめながらそう言い、こうなった張本人のことを間接的に責める。

 一方の張本人――実姫は、すぐにそれを察して誤魔化すように、


『いいじゃん? 一緒に登校できるなんて』


 といつものごとく茶化した。

 彗斗が力強く否定しなかった隙をつき、早梨奈は彗斗の袖口を掴む。


「ほら、急いでいかないと遅刻しますよ!」


 そう言って、袖を引っ張ってそのまま学校へと向かおうとする。

 だが、それを何とか阻止しようとする彗斗の足は地面に張り付いたかのように動かない。


「いや烏川。俺はもうとっくに遅刻してんのよ」

「確かに……」


 と、まんまと彗斗に乗せられたことに気付いた早梨奈は、ブンブンと頭を振る。


「って、大切なのは出席することです。とにかく急ぎましょ!」

「お、おいっ!」


 そう言った早梨奈は袖から腕へと掴み替え、星島高校へと走り出す。それに釣られるようにして、彗斗も走り出した。

 日が差し、ポカポカ陽気となった今日。そのためか、走る際に吹き付ける向かい風は妙に心地よかった。

 彗斗はふと、ある光景をピタリと重ねた。

 ――まるで……。


「ふっ……」

「ちょっと射出君!? 笑ってる場合じゃないですよ。今日の家庭科は調理実習で、準

備のために早く行かないといけないんですから」

「ごめんごめん。何でもないよ」


 あの日々の中の一ページと重なるワンシーン。それでも彗斗は思っていることを心の内に秘めた。



 三年前の学祭前日。彗斗が最後に、実姫と横並びで登校した日のことだ。


「ほらっ! そんなチンタラしてたら、遅れるよ?」


 実姫は彗斗の前でリズムよく足踏みをしながら、ゆっくり歩く彗斗を促す。


「別にいいだろ? 早く行ったら手伝わされるだけだし」

「ダメだよ。私は他のクラスに行って試食する約束してるの!」

「それこそダメだろ」

「後は他のクラスの展示を手伝ってほしいって言われてるし」

「お前、自分のクラスはどうした。演技の練習は?」

「それならずっと昔から練習してたから大丈夫」

「心配で仕方ないんだけど……」


 彗斗の脳裏には、かつて大根役者であった実姫の拙い演技の光景が描写される。

 さすがに今はあそこまで酷くはないだろうが、それでも心配は心配だった。


「……っ、とにかく早く行くの!」


 実姫は誤魔化すように彗斗の腕を強く掴むと、そのまま引っ張るようにして走り出した。


「お、おい!」



 彗斗はそんな当時のワンシーンと今を重ねたのである。

 もうあの頃は戻ってこない。そうやって、当初は悲観していた。

 それは自分の父が亡くなった時もそう。彗斗はずっと、過去を引き摺りながら生きてきたのである。

 前を向くと、そこに実姫の姿はない。今は早梨奈がいる。時が流れれば、何事もこうして変化していく。

『未来』とは、未だ来たらず――すなわち今はまだ来ていないという意味。そんな未来のことは誰にも予測ができないから、そうやって変化していってしまうことに恐怖があったのかもしれない。

 けれど、今抱くのは恐怖ではない。

 胸は高鳴り、脈が速くなる。それは恐怖とも似ているけれど、確信を持って違うと言える。

 今、彗斗の中にあるのはこの先への期待感。ただ、それだけだった。



 そうして、彗斗は力強く駆け出した。

 新たないつも通りへ――。




 ―完―

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二心同体の君と 木崎 浅黄 @kizaki_asagi

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