第6話 『死』とは

 週明けの月曜日。

 夢のような時間を過ごした昨日だったが、今日からまたいつもの日常に戻る。私は一晩で頭の中を切り替えていた。

 身支度を済ませ学校に到着すると。月曜日ということもあってか、休日の気分が抜けきらず少し怠そうな生徒たちを見かけた。朝から太陽が照り付けているから、余計に気分が上がらないのかもしれない。


「おはよう、梅沢さん」

「おはよう」


 いつものように玄関で靴を履き替えていると、偶然月白と遭遇した。昨日の私服の印象のせいか、逆に制服姿が新鮮にすら見える。


「今日も仕事?」

「うん」

「そっか。気を付けてね」

「ありがとう」


 短い会話を済ませると、月白は一足先に姿を消した。

 今は授業開始時刻まで一時間以上ある午前七時半前。

 それだけお互いが早く登校しているのにはそれぞれの理由があった。私は、土日に任務があってできなかった週末に出た課題を終わらせるため。対して月白は、人がほとんどいなくて静かなこの時間を利用して勉強をするためだ。

 クラスはお互い別なので、いつも別々の教室でたった一人の空間の中勉強している。彼と友達になる前から、彼の教室の前を通ると必ず彼の姿があった。だからこのことは随分前から知っている。

 先に教室に行った月白の通った道をゆっくりと歩きながら自分の教室へと向かう。

 彼の教室の横に差し掛かると、ちらっと窓から既に勉強を始めている彼の姿が見えた。一切わき目もふらず、目の前のテキストに集中している。


「私も頑張らないと……」


 勉強はもちろんだけど、仕事も。彼の姿を見て、改めて気を引き締めた。



 朝早く来たおかげで授業の開始前までに今日提出の課題を済ませた。ただ、思っていたよりも課題が少なく、授業の開始まで特にすることはなかった。


「っ……」


 思いっきり背伸びをすると思わず声が漏れる。短時間とはいえ、集中すると当然疲れるものだ。

 私はゆっくり席を立つと、学校にある自販機に向かうため教室を出た。その時、ふと隣の教室のことを思い出した。


「……」


 しかし、ひとまず立ち寄ることなく、予定通りに自販機を目指した。

 私の好きな缶コーヒーが売られている自販機。校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下の近くに置かれているため、少し外に出なくてはならなかった。

 学校に来てからさほど経っていないのに、気温が高くなってるのを感じる。もう直梅雨を迎えるが、その先に夏があるのだなと実感する瞬間だった。

 自販機に千円札を投入し、一番下の左端にあるボタンを二回押した。ガランコロンと中から音がして、商品が落ちてくる。商品を手に取ってみると当然のことだが冷たく、ひんやりして気持ちが良かった。

 そしてそのコーヒーを手に、来た道を引き返した。


 教室に到着した。ただそれは自分の教室ではなく一つ隣の教室だ。それでも何一つ躊躇うことはなく、教室の扉を開いた。


「え?」


 いくら集中しているとはいえ、普段この時間に人が来ないことを考えると、驚いてこちらを見るのは当然の反応と言えるだろう。月白は目を見開いてこちらを見た。


「お疲れ様」


 私はそう言って、彼の元へ駆け寄る。


「はい」


 右手に持っていた一本の缶コーヒーを彼に差し出す。先ほどから変わらず驚いた表情を浮かべた彼は缶コーヒーに手をかけて、


「くれるの?」


 と、私に問う。


「これくらいはさせてよ」

「……ありがとう」


 そう言うと彼は少し渋りながらも受け取った。


「あ、お金……」

「は、要らない。昨日全部払ってもらってるから、これくらいじゃ全然釣り合わないけど」

「いや、でも……」


 彼はそれでも財布に手を伸ばそうとする。


「十分だよ、気持ちだけで。それよりも早く飲まないと温くなるよ」

「それもそっか」


 月白はようやく諦めたようで、缶のプルタブを引き、一気に口に流し込んだ。


「げふっ……」

「だ、大丈夫?」


 すると月白はむせて、少し咳き込んだ。私は慌てて持っていたハンカチを差し出す。


「ブ、ブラックだったの、これ」

「あ、ごめん」


 彼が言っているのはおそらくパッケージデザインのこと。私が好きなこのコーヒーのパッケージは黒色ではなく少し茶色っぽい。ブラックは黒、微糖やカフェラテなどは他の色であることが多いため、茶色のデザインで微糖だと思っていたようだ。

 因みにこのデザインにした理由は、『厳密に言うと、コーヒー豆は黒ではなく茶色』だからだそうだ。


「そもそも俺、ブラック飲めないんだけど……」

「あ、ごめん。それ知らなくて。すぐに別の買ってくるよ」

「あ、いや、それは大丈夫。今回はこれ飲むから」

「え、飲めないんじゃ」


 月白は飲む前から苦そうな表情を浮かべながら、残りのコーヒーを飲み干し、感を机に勢いよく置いた。


「苦い……。けどおかげでもう少し頑張れそう」

「そっか。それならよかった」

「差し入れありがとう」


 月白は笑顔でお礼を言った。

 彼は私に色んなものをくれた。だけど私は彼に何か与えることができたのだろうか。今回はそんな思いもあっての行動だが、まだまだ彼には返しきれていない。


「勉強、頑張ってね」

「うん。頑張る」


 彼はそう言うと再び視線を机の上に向けた。それを見て、私は静かに月白のいる教室を後にし、自分の教室へと戻ってきた。

 自分の席に座り、買ってきたコーヒーを口にする。


「彼のために何ができるか、か……」


 簡単には思いつきそうにない問いで悩み、私は小さく息を吐いた。



* * *



 全ての授業が終わった午後四時半ごろ。私は、いつものように事務所へと向かおうと帰る支度を進めていた。

 そんな時、突然携帯が鳴った。


「電話……?」


 月白が学校にいることから考えて、電話を掛けてきたのが仕事関係の人だというのはすぐに断定できた。携帯を開くことなく、急いで人のいなさそうな場所に移動して電話に出た。


「もしもし、梅沢です」


 電話の発信者は朽木だった。


『悪いが急用だ』

「どうしたんですか?」


 電話の奥から慌ただしく動いている様子が伝わってくる。その中には、篠畑と押水の話し声も含まれていたのだが、明らかにいつもと様子が違っていた。


『緊急任務だ』

「分かりました。すぐに駆け付けます」

『いや、梅沢。お前は……』


 どこか申し訳なさそうに、言葉を詰まらせているようだった。そこに大きな違和感を感じた。


『今回は待機を命じる』

「どうしてですか!」


 ついつい大声になってしまい慌てて周りを見渡したが、誰も聞こえていないようだった。

 これまで自分が他の任務にあたっているときや授業中などの例外を除いて、ほぼ全ての任務に私は参加をしてきた。その上、私のポジションは暗殺課の他のメンバーでは替えが効かない。

 だから、今回のように待機を命じられることは一度たりともなかった。


「場所が問題だ。だから梅沢に任務を与えるわけにもいかなくなった」

「場所? 一体それって……」

「梅沢の今いる場所だ」

「今……、っ⁉」


 私は改めて自分の状況を確認し、朽木が何を言おうとしていたのかをすぐに察した。その任務の場所とは、この高校のことだった。


「でもそれなら私が一番近いですよね? 私は常にピストルを携帯していますし、すぐに駆け付けられます」

「それは分かっている。だが君が暗殺課であることを周りに知られてしまうだろう。そうなれば君はそこにいられなくなる」

「くっ……」


 少し前の私なら、そんなことは気にも留めず今すぐ走り出していただろう。でもそれが今できないのは、この場所を去りたくないから。それは月白との接点が失われることを意味しているからだった。

 もし暗殺課だと周りに知られれば、ありもしない噂を流されて居心地が悪くなる。それは私だけでなく、私のことを大切に思ってくれている月白にまで影響が及ぶ。私ならまだしも、月白の居場所を奪うなんて絶対にできないことだった。

 このことを朽木は全て理解しているわけではないだろうが、昨日の休みをとったこともあって、どこか察していたのかもしれない。


「だから私たちはすぐそっちに向かう。君は何もすることなく待機だ」

「何もせずに待機って、そんな時間あるんですか?」


 私たち暗殺課に任務要請が来るときは、大半が既に犯罪を犯した状況である。つまり一刻も早く駆け付けなければ被害が拡大し、私たちのいる意味がなくなってしまう。


「現状被害者の報告はないが、人質が一人いる。人質をとったことから、別に目的がある可能性が高く、暫く時間に猶予はあると考える」


 人質にとるということは多くの場合、身代金などを要求するためであり、殺人する意思があるわけではなくただの脅しであることがほとんどだ。だから朽木の言う通り、すぐに殺人が行われる可能性は低いと考えられた。


「その場所は?」

「玄関付近だそうだ」


 私が今いる場所は、校舎内で玄関から最も遠い三階の一角。現場の近くにいるにもかかわらず、何も異変を感じなかったののも頷けた。


「状況は分かりました。では」


 私はすぐに電話を切った。このまま電話を繋いでいる暇があれば、一刻も早く来て欲しいと思ったからだ。

 暗殺課の決まり事として、対象が一人の命を奪った後、もしくは奪いそうになった瞬間にのみ任務の遂行が許されている。したがって、ただ人質をとっただけでは対象の執行が許されておらず、私たちはただ様子を見守ることしかできない。ただいつ対象が人を殺めるか分からないため、暗殺課は人質をとっただけの場合にも出動することになっている。

 私は現場近くで待機するために急いで向かった。だが……。


「ただ見てるだけなんて……」


 そんなことは暗殺課に入ってすぐの頃だけだった。暗殺課で狙撃手に任命されてから、近接でも長距離でも重要な役割はほとんど私が担ってきた。だから何もせず見守ることは、職を放棄しているのと同じに思えて、自分のやろうとしていることが正しいのかどうか分からなくなってきた。

 約一分後、現場である玄関の近くに着いた。

 対象は右手に刃物を持ち、女子生徒をもう片方の手で拘束している。そしてその対象は、近くにいる教師を脅していた。


「せ、生徒の命が大切なら……、金を用意しろ!」


 細身のその対象は、声も細々としていて少し足が震えているように見えた。経験上、金に困った人間による、自分の良心に逆らっての行動であることがすぐ分かる。

 こういう事態への備えが甘かったのか、それとも単に冷静を欠いているのか。対象と対面している教師たちは、どうするべきなのかを迷っていた。暗殺課に要請があったということは、警察への連絡が済んでいるので、おそらくそれまで時間を稼ごうとしているのだろうが、対象もそのことを察して焦っているように見えた。


「は、早くしろ!」


 突然金を要求するのはいいが、ここは銀行ではない。当然、簡単に大金を用意することはできない。どうしようもなくただ立ち尽くす教師たちを前に、私は歯ぎしりをした。

 数年前に銀行の警備が強化されて以降、このように人の多い所が狙われることが増えた。特に、大人ではなく子供の多い学校を狙い、人質をとる犯行が増えている。

 だからその対策をするために、普段からの訓練はより本格的になったはず。その中でのこの教師たちの対応から、この学校の訓練がいかに杜撰なものだったかが分かった。


「おい、早くしろ!」


 そう言って対象は持っていた刃物を女子高生の喉元に近づける。この時点で、暗殺課が任務を遂行する条件が整っていたが、長官命令で待機が命じられている以上、勝手に行動することはできない。


『早く来てくれ』


 そう心の中で願っていた時。

 目の前で信じられないことが起きた。


「先生。自分が彼女の代わりに人質になります」


 目の前のその光景に一瞬、理解が追い付かなかった。

 教師に提言しながら玄関口から入ってきたのは、月白だった。

 この提案に教師たちは当然反対している様子だったが、月白はそれを押しのけて対象の元へ歩いていく。


「……」


 私の心の中はすでに限界が来ていた。右手が震えて、歯には強い力が入る。月白に刃物が触れようものなら、全てを投げ捨ててでも持っているピストルで撃つ覚悟があった。


「分かった。お前が人質になれ」


 対象は誰が人質であっても、金さえ手に入ればいいという思考をしていたのだろう。すぐにその交渉を承諾し、無事女子生徒は解放された。その女子高生は教師の一人に介抱されながらこの場から離れていった。

 人質だった女子高生は解放されたが、状況は好転どころかむしろ悪化していた。


「いいから早く、金を用意しろ!」


 再びそう要求し、今度は月白の喉元に刃物を突きつける。反射的に踵が上がったが、それをなんとか抑えて壁に縋りついた。

 彼の行動は英断。この場にいるほとんどの人がそう感じるのかもしれない。

 でも私はそう思わない。それは自己犠牲に他ならない行動だからだ。

 彼が優しいのは普段の何気ない行動からよく分かる。あそこまで細かい気遣いができる人間は本当に稀な存在に違いない。

 稀な存在であるが故に、彼は多くの人に求められ、将来も期待されている。そんな人間が自分の命を張ってまで身代わりになる必要はあるのだろうか。

 それにこれは、彼が私に最もしてほしくないと願った行為と何ら変わらないではないか……。

 いや。私がこんな風に思ってしまうのは、彼には死んでほしくないと思うからなのではないか。

 それならばここで黙って見ている意味はない。そう思って立ち上がろうとしたその瞬間だった。

 警察の到着を知らせるサイレンが遠くの方から近づいてきた。


「くそっ、早くしろ!」


 焦り出した対象だったが、時すでに遅し。


「警察です。教師の皆さんも下がってください」


 警察官に促され、教師たちは現場から立ち去っていく。そしてその頃、暗殺課の人たちも現場に合流した。

 すぐに他の暗殺課たちと合流するために立ち上がった。だが、それに気づいた朽木は、私の方に再び待機するよう手の動きで指示した。


「……どうして」


 生徒たちも先生たちもこの場にいないこの状況で、なぜ私だけが玄関近くの物陰に身を潜めて待機していなければならないのか。少しでも気づかれるリスクを下げるためなのかもしれないが、私はその判断に強い疑念を抱いた。それでも勝手に動くことは許されず、再びしゃがんで様子を見守った。

 駆け付けた暗殺課は、私以外の三人。普段情報収集を担う押水が現場にいるのは、私がいない分を埋めるためだろう。

 朽木は対象が月白の喉元に刃物を近づけている様子を見て、すぐにピストルを構えた。


「うっ……」


 今の状況を飲み込んだ対象は、死を間近にして怯えているようだった。元々足元が震えていたが、今度は手も震えている。


「今すぐ人質を解放しろ」


 朽木は対象に対してそう言う。


「か、金を用意すれば解放する」


 この期に及んで、命よりも金を選択する対象。暗殺官の判断次第では命だけでも助かる可能性が僅かながらも残っていたにもかかわらず、今の自らの行動でその可能性は塵一つ消え去った。

 このまま任務が遂行されれば問題なく片付き、怪我一つなく月白は解放される。今回の月白の行動に言いたいことはたくさんあるものの、無事ならばそれでいい。私はそう思って、少し安心しながら様子を見ていた。

 だがそれも、すぐに変わることになった。


「待ってください。この人はそんな悪い人じゃありません」

「き、君、何を……」


 目の前の光景を、そして耳を疑った。

 月白は犯人の手が緩んだ隙に拘束から逃れると、犯人と朽木の間に入って両腕を広げた。

 その行為は、人質が絶対にするはずのないこと。なんと対象を守ろうとしているものだった。


「その証拠に、自分が人質の間、ずっと腕も足も震えていました。すぐ近くに感じる胸の鼓動も早いのが分かりました。どう考えてもこの人に人を殺そうという意思があるようには思えません」


 彼の言う通り、対象には殺意そのものは見られなかった。ただ脅すために、刃物と人質を利用しただけだ。


「もちろんやったことは許しません。償ってもらいます。ですがまず、この人は誰の命も奪っていません。それに命を失えば、償うことすらできないですよね?」


 朽木は月白の問いに対して、暗殺課としての回答をする。


「罪を償わせるのではなく、罪を後悔させる。それが暗殺課としての仕事だ」


 朽木の言う通り、私たちの仕事は行った罪を対象に後悔させることだ。特に人を実際に殺した場合、その人と同じ立場に立つことになる。これが最も罪を悔いることになるのだ。

 償わせる行為が必ずしもプラスに働くとは言えない。なぜなら対象自身がそのことを悔いていないのであれば、被害者からすればそのような償いをされても気持ちは晴れるどころか苛立ちや怒りが募るばかりだからだ。それならば、同じ世界でのうのうと生きているより、この世からいなくなった方が被害者や被害者遺族の気持ちも晴れる。

 暗殺課の職が生まれたのにはそういう考えが背景にある。だが、月白の言うことは一理あると思った。特に、今回の対象は命を意図的に奪おうとはしていないという点だ。

 私自身、待機命令がなければ今回も任務を遂行していただろう。だが、今こうして冷静になって状況を整理すると、最初に人質に取った女子高生にも月白にも、刃物は一切触れていない。警察が駆け付けたと分かった時ですら、何一つ変わらなかった。

 殺す意思がないのなら、そもそもこの任務自体が間違っている。月白はおそらくそう考えているのだと思う。

 その一方で、朽木の考えは違う。被害者が見えなくて消えない傷を負った以上、確かな罪がそこにある。故に、その罪を後悔させるべきだ、というのが朽木の考え。

 両者、間違ったことは言っていない。だから、どちらが正しいかなんて分からなかった。


「罪を後悔させるって、なんですか。死ぬのは一瞬で、後悔なんてする間もないですよね? それなら服役しながら、自分のやったことがいかに愚かだったか気づかせた方が、後悔することになりませんか?」

「全ての人がそういう普通の思考を持ち合わせているわけじゃない。服役させたところで、自らの非を認めようとしない人だっているんだ」


 どちらの主張も間違っていない。だからこの交渉は平行線を辿っている。

 だがその交渉に埒が明かないと思った朽木は、一度下したピストルを再び構えた。そのピストルの先には月白がいると分かっていながら。

 向けられた月白はそこでたじろぐこともなく、両者は見つめ合った。

 私はその光景を見てすぐに立ち上がり、その場を収めようと一歩踏み出した。だが、私よりも早く、一人動いていた人がいた。


「やめてください!」


 それは押水だった。朽木を止めようと、腕に勢いよく掴みかかった。

 その時……。



『パァーン!』



 大きな銃声が辺りに響いた。静寂に包まれていた玄関周辺に、その音が響き渡った。

 すぐにその音のした朽木の方を見ると、ピストルの発射口からは白い煙が出ていた。

 恐る恐る辿りながらその先を見た私は、一瞬で頭が真っ白になった。


「月白君!」


 そこにはぐったりとしてその場に倒れこんでいる月白の姿があった。床には赤い血が滴り落ちている。

 その光景を同じように見ていた対象は、腰を抜かして後退りしながら離れ、現状を認識した後は立ち上がって廊下を走って逃げていく。

 私は対象を追うことを一切優先することなく、急いで彼の元に駆け寄った。そして声を張って呼びかける。


「月白君! 月白君!」


 何度呼び掛けても返事はない。彼の身体を支えている両手に、勢いよく流れる鮮血の感覚があった。当たり所が悪かったのは間違いない。


「実莉ちゃん……」


 私と同様、志水もすぐ近くに駆け寄って心配そうに様子を見つめていた。

 でも……。


「押水さん……。今、あなた方がすべきなのは対象を追いかけることです。今すぐ追いかけてください」

「でも……」

「いいから行け! 早く!」


 私は心配してくれる押水の声を無視して、対象を追わせた。他の人がこの場にいると、今の私は気が動転してしまいそうだったからだ。

 悲しそうな表情を浮かべつつも、押水は私の言う通り急いで対象の後を追っていった。

 月白は依然、意識が戻らない。


「月白君……」


 出血量、撃たれた場所、そして表情や体温。それらから段々と掴めてくる状況から、段々と現実を受け入れるしかなくなり、言葉が失われていく。

 そんな時だった。


「ぐふっ……」

「月白君⁉」


 思いっきり血を噴き出した月白は、少しだけ目を開いた。


「月白君、私だよ」

「う、め、さわ、さん……」


 消えてしまいそうな声で月白はなんとか言葉を紡いでいるようだった。

 私はさらに彼の方へと近づき、一言一句逃さないように耳を傾けた。


「君に、会えて、本当、に、よかった……」


 彼の話している言葉の意味は、冷静さを失った今の私にもすぐに理解できた。。


「月白君。違う、違うよ。これからもずっと一緒にいるんだよ」


 私がそう言うと月白はゆっくりと左右に首を振った。

 分かっている。分かっているのに、その現実を受け止めたくない。いや、受け止められない。だから必死に首を振ってその現実を否定した。


「俺は、君に、あん、さつかん、を、して欲しくない」


 月白に告白されたあの時に言われた言葉と同じ。今もあの時のことは鮮明に覚えている。


「それ、は、君が、あんさつ、かんに、向いていないって、思ったからなんだよ……」


 ただしその次に放った言葉は、これまで聞いたことのない初めての言葉だった。

 暗殺課の採用試験の時にも、他の暗殺課の人たちにも言われたことのなかったし、私は自分に向いていると思ってこの世界へと自ら進んだ。

 その根本を否定する言葉だった。


「向いてないって、どういうこと?」

「だって、さ。こんなに、泣いてくれるんだもの……」

「っ!?」


 月白に言われ、私は血の付いた右手で自分の頬に触れた。冷たい、雫の感触。私は、こうして初めて、自分が泣いていることに気がついた。


「人の、死を、悲しまないから、暗殺課に向いているって、言うのなら、君は向いていないんだよ」


 笑顔を浮かべて彼はそう言う。


「ぐふっ、がっ……」

「月白君!」


 再び血を吐く月白。先ほどよりも量が多い。傷口からの出血量は、これまでの現場でも見たこともない量になっていた。意識を保てていること自体、奇跡に違いない。


「また、一緒、に、遊びに、行きたかったよ……」

「違う。一緒に行くんだよ!」

「ごめん、ね」


 この瞬間、もう私の声が彼には届いていないということに気がついた。


「月白君! 月白君!」


 目の前が涙で曇って、彼の姿が霞んで見える。それぐらい、私の目からはたくさんの涙が溢れかえっていた。


「だい、すき、だよ、実莉」

「私も、私も大好きだよ!」

「……」

「月白君? 月白君!」


 静かに目を閉じた月白の身体が力なく、私の腕に倒れこむ。何度呼び掛けても反応はなく、伝わってくる体温は次第に冷たくなっていく。

 私は自分では分かっていながらも、すぐにこの事実を受け止めきれなかった。

 彼が息を引き取ったという事実を。


「っ……」


 私は強く握った右手の拳を床に思いっきり叩きつけた。その痛みなんて比にならない心の痛み。初めての経験だった。

 人が死んで悲しいと思わなかったのは、私が関わってこなかったから。

 それが私にとって一番大切と思える人だったら……。

 歯を強く噛みしめながら涙を堪えようとしても、止まることなく流れ続ける。

 こんなに胸が痛くなるなんて、こんな気持ちがあるなんて私は知らなかった。

 私は彼の亡骸を前に咽び泣いた。

 もうそれから先の記憶が無くなってしまうほど、ただひたすらに。



 暗殺課に所属した日から、私はずっと死を扱ってきた。

 だけどこの日、私は生まれて初めて本当の死というものを知ったのだった。

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