第5話 友達と

 あの日から数日経ったある日。

 学校は休みのため、朝から出勤していた私は、任務待機をしながら射撃訓練を行っていた。ここ最近はスナイパーライフルを使用する任務がなかったので、こうして練習をしておかなければ腕が鈍ってしまうのだ。

 射撃訓練場は、暗殺課事務所の地下にあり、全長約百メートルを超える細長い直方体の構造をしている。

 耳栓越しにも聞こえてくる大きな銃声とともに発砲された弾は、的を射抜いていく。距離が離れるほど少しのズレが大きなズレとなるので、この百メートルという距離でも狙った場所からほとんどずれないように練習する必要がある。

 今日だけでもう百発は撃ったが、殆どが人間型の的の心臓部分を的確に射抜けていた。


「さすがだな」


 耳栓をしていて聞こえ辛かったが、横から声が聞こえてきたので耳栓を外して声のした方を見た。


「長官、どうかされましたか?」


 そこには朽木の姿があった。

 朽木がこうして私の元にやってくることは非常に稀なことだった。そもそもこの射撃訓練場に私以外の人間がいること自体珍しいことだ。

 朽木は周りを見渡すと、近くにあった黒色の長椅子にゆっくり腰かけた。


「相変わらずの精度だなと感心していただけだ。気にせず続けてくれ」

「分かりました」


 そう言われて練習に戻ろうと耳栓をつけて拳銃を構えたが、こうして間近で誰かが見ているとやはり撃ち辛さというものがあった。

 現場とは全く違う緊張感を前に、上手く的が絞れない。

 私は銃を置き、再び耳栓を外した。


「一旦この辺で中断します」

「練習の邪魔だったのなら、後でまた来る。気にせず続けてくれ」

「いえ。どの道そろそろ休憩を挟むつもりでした」


 私はそう言って上手く気遣いを受け流した。気遣いをするならこの場所にはあまり来てほしくないという本心を内に隠しながら。


「そうか。だったら丁度いい。先に屋上に行って、待っていてくれないか」

「屋上、ですか? ……分かりました」


 なぜここではなく屋上なのか、と少し困惑しつつも、スナイパーライフルを手早く片付けた私は屋上へと向かった。



* * *



 現在時刻午後十二時過ぎ。屋上に吹き付けるビルの隙間風を浴びながら、周辺を見渡していた。

 そこそこの高さがあるこの場所からの景色はさぞ絶景、と言いたいところだが、休日ということもあってかいつもより人出が多く、どの方向を見渡しても人ばかりだった。

 朽木を待つこと数分。

 屋上の入口が開き、姿を現した朽木の両手には飲み物が握られていた。


「これでよかったか?」


 朽木がそう言って片方を差し出した。差し出されたのは微糖のコーヒーであり、差し出さなかった方は無糖のコーヒーだった。


「大丈夫です」


 私は金色のデザインをしたコーヒー缶を受け取る。

 コーヒー自体は好きなのだが、基本的にブラックしか飲まない私にとって、微糖を飲むことは珍しいことだった。缶の蓋を開けると、コーヒーの香りとともにミルクの香りが鼻を突き抜けた。

 私はプルタブを引いてゆっくりと口に含んだ。コーヒーの苦みはしっかり残った中で際立つのは、ミルクの甘みと風味。たまに飲むとおいしく感じるが、やはり私の舌には香りと苦みが最も感じられるブラックが合っていると思った。


「最近学校はどうだ?」


 朽木は私の横で同じように辺りを見下ろしながら、唐突に問う。


「今のところは問題なく通えています」


 朽木は仕事以外のことをあまり話さない人間だ。そんな彼が私に学校のことを聞いたのは、学校に行くように提案した張本人だからだろう。とは言っても、こうしてちゃんと問われたのは初めてのこと。


「そうか。それならよかった」


 朽木は少し安堵した様子で、コーヒーを口にした。


「あの時の私の判断が正しかったのかと、ふと思ってね。もし辛いようなことがあれば、無理して通う必要はないと言うつもりだったが、杞憂だったか」

「私は学校に戻ってよかったと感じています。だから長官には感謝しています。ありがとうございました」


 月白と出会ったあの時のことを思い出せたこと、そしてその続きが始まろうとしていること。

 このきっかけをくれた朽木に感謝するのは当然のことだと思った。


「私ができたのは学校に戻る機会を与えることまで。実際に行ったのは梅沢自身の意思であって、私は何もしていない」


 朽木は謙遜してそう言った。


「例えそうだったとしても、私は感謝しています」

「そうか」


 感謝の言葉だけでは、私は何も返せていない。暗殺課として朽木の期待に今まで以上に応えてこそ返せるのだと、自らに言い聞かせた。

 だから今の時間は、こうしている場合ではない。


「長官、私はそろそろ練習に戻ります。コーヒー、ごちそうさまでした」


 私はコーヒーを一気に飲み干し、屋上を後にしようとする。


「待て、梅沢」

「はい」

「私たちは梅沢に期待し、かなり負担をかけている。ここに住む人たちの命を守るという大役の中で、対象を執行するというさらなる大役を任せてしまっている」


 朽木は視線を一度、街の方へと向けた。

 そして再び私を見た時、彼の表情から、普段は見せない優しさのようなものを感じた。


「だが、だからといって背負いすぎるな。練習もいいが、適度には休めよ」

「気をつけます。……では、また後程」


 私はそう言い残して屋上を出た。


「背負いすぎるな、か」


 先ほど聞いた朽木の言葉の余韻が、頭の中に残っている。

 そんな些細な言葉だけでも、どこか肩の荷が少し降りたような気がした。

 屋上から階段を下ったところにあった缶専用のごみ箱に空き缶を捨て、訓練場へ向かった。



* * *



 練習といくつかの任務をこなすうちに、気付けば土日の休日は過ぎ去り、また平日が帰ってきた。

 睡眠時間は適度に確保しているものの、やはり疲れはなかなか抜けきらぬままで、少し体が重たい。快晴の空模様とは対照的な調子の中、私はいつものように授業を受けていた。

 月白に告白された日以来、私は取り繕うのをやめ、あの女子二人とは距離を開けるようになった。彼女たちもそんな私の様子を見てか、近づいてくることは劇的に減っていた。

 あっという間に一日の授業が終わり、仕事に向かおうとした時だった。


「梅沢さん!」


 私を呼ぶ声が背後から聞こえ、私は歩き出そうとした足を止めた。


「良かった、帰ってなくて」


 私を呼んだのは月白だった。ここまで走って来たのか、息が乱れていて少し苦しそうにしていた。


「そんなに慌てて何かあった?」

「今週末さ、時間空いてない?」


 私はまだ周りに生徒がいるのを確認し、月白にだけ聞こえるような声の大きさで言う。


「ごめん、私仕事が……」


 暗殺課は基本的に休みが不定であり、休日両方出勤ということは珍しくない。加えて休みであっても、要請があれば出動しなければいけないのだ。


「一日中?」

「基本的には朝から夜までだけど……。私の休みがどうかした?」

「もしよかったらどこかに出かけたいなって思ったんだけど……」

「そっか……」


 友達になったのだから、こうやって出かけるのは自然なことだろう。だから断るつもりはなかったのだが、暗殺課の仕事がある限りはなかなか時間が取れそうにない。


「どこに行こうって考えてた?」

「遊園地とか?」

「遊園地……」


 その単語を聞いて、私は露骨に視線を落とした。


「あれ、もしかして行きたくなかった?」

「いや、そういうわけじゃないんだけどね……」


 遊園地と言えば、楽しい場所であると誰もが言うだろう。でも私にとっては、苦い過去の詰まった場所で、思い出しただけでも気持ちが沈んでしまう。


「また次行くときまでに、別の候補考えておくよ」

「ううん。遊園地、行こうよ。今週末に」

「え? でもさっき……」


 それにもかかわらず、私が遊園地に行こうと言ったのには訳があった。

 それは、自分を見つめ直すため、そして今後のために必要だと思ったからだ。


「今週末、ちゃんと事情話して休み取るから。予定が決まったらすぐ伝える」

「本当にいいの?」

「うん」

「ありがとう。楽しみにしておく!」


 月白は満面の笑みを浮かべてそう言った。

 この笑顔を見ていると、やはり彼は悲しい顔をするのではなく、笑っているべきなのだなと感じた。


「ごめん、引き止めちゃって。行かないといけないんでしょ?」

「うん、まぁね」

「じゃあ、また明日」

「また明日」


 別れの挨拶を交わし、月白は踵を返して教室を去ろうとする。

 そんな彼の背中を眺めながら、


「楽しみにしてる」


 私はそう言ったが、彼は聞こえているのか聞こえていないのか、そのまま走り去っていった。



「休日? 分かった」


 その日の事務所。私は朽木に週末の休みをお願いしていた。思いの外すんなりと要求が通り、私は静かに胸を撫で下ろした。


「もしかして例の彼ですか?」

「ちょっ……」


 でも、すぐにこうして気が休まらなくなる。

 押水が場所を考えず発言してしまったので、その言葉は朽木の耳にも入っていた。


「……プライベートな内容まで、私が関与する問題ではない。それにここ最近の頑張りようは伝わってきているし、元々私から休みを提案するつもりだった」

「そんな……」


 この前の気遣いの言葉といい、まだまだ頑張らないといけないと思っている私にとっては申し訳ない気持ちすらあった。


「だから休日をとることに、引け目を感じる必要はない」

「ありがとうございます」


 私は深々と頭を下げ、朽木に感謝を示した。


「悪いが私はこの後会議がある。だからお先に失礼するよ」

「私もその会議には同席するのでお先に。二人とも、後はよろしくね」


 この場にいた篠畑も朽木に合わせ、周りの資料を手に持って出る支度をした。


『お疲れ様です』


 私と押水の声が重なった。

 しばらくして朽木と篠畑は、事務所から姿を消した。


「押水さん。場所を弁えてください」


 朽木と篠畑が居なくなり、押水と二人きりになったところで私は不満をぶつけた。

 篠畑ならまだしも、学校のことを心配していた朽木の前で言ったことに少し恥じらいを感じていたのだ。


「ごめんなさい……」


 さすがに悪いと思ったのか悪びれた様子で軽く頭を下げた。


「またお寿司を奢ってくれたら許します」

「はい! 奢らせてもらいます」


 従順な部下のように威勢のいい返事で私の要望を受け入れた押水。多少嫌がられて、『冗談ですよ』と言おうと思っていたが、まさかの返答だった。

 立場が逆ではないだろうか。


「あ、そういえば」

「どうかしました?」

「先日は本当にありがとうございました」


 寿司屋の話題で大切なことを思い出し、今度は私が頭を下げた。


「先日? 私何かしました?」

「先日、寿司屋に行ったときにもらったアドバイスのおかげで、問題を解決することができました。これは偏に押水さんのおかげです」


 もしあの時、押水にアドバイスをもらえていなかったら、今も話せぬままだったかもしれない。あまり人を頼ったことがなく正直心配なところもあったが、本当に頼ってよかったなと思う。


「上手くいったのなら何よりです」


 押水は自分のことかのようにどこか満足そうな表情を浮かべた。


「週末に休み取るということは、どこかに出かけるんですよね?」

「はい。遊園地に」

「遊園地ですか! 楽しそうですね」

「……」

「どうしました?」


 自分で自分の地雷を踏んでしまい、気持ちが一気に落ち込んだ。それでもすぐに顔を上げ、


「いえ。何でもないです」


 と、なんとか取り繕った。

 押水は一連の私の行動の不自然さに首を傾げていたが、それ以上尋ねてくることはなかった。



「押水さん、そろそろ帰りましょう」

「そうですね。時間も遅いですし」


 あれから出動要請が来ることはなく、時刻は午前零時をすでに回っていた。

 暗殺課が仕事として事務所に常駐するのは午前零時まで。その後の時間は連絡が来れば出動することになるが、時間帯の関係でほとんど起こることはない。

 私たちはすぐに帰り支度を済ませ、それぞれ帰宅の途に就いて別れた。


「あ、そうだ……」


 私は帰り道、ふと思い出して携帯を取り出した。そしてすぐにメッセージを書き込む。


「『日曜日、一日休みになりました』っと。でもこんな時間まで起きてないよね……」


 そう思いながらも、一刻も早く伝えようとそのまま送信した。

 日付を跨ぎ既に火曜日にはなっているが、日曜日まではまだ五日間もある。たった五日という捉え方もできるが、私には少し遠いように感じた。

 携帯をしまい、再び歩き始めるとすぐに携帯から通知音が鳴った。

 仕事の連絡なら電話がかかってくるので、仕事の連絡ではないとすぐにでも分かるのに、一刻も早く携帯を確認しようとしてしまうのは確実に職業病だと思う。


『メッセージが届いています』


 携帯の画面に表示された通知のメッセージ。すぐに中身を確認すると、そのメッセージは月白からだった。


『それならよかった! 楽しみにしてる!』


 私は星一つ見えない真っ暗な夜空を見上げ、小さく安堵の息を吐いた。



* * *



 遠く感じていた日曜日は、思いの外早く訪れた。

 雲一つない快晴で、外から差し込む光によって私は目覚めた。昨日の夜遅くまで仕事をしていた関係で瞼は重たいが、約束の時間には絶対に遅れられないからと、自らの頬を二度叩いて完全に目を覚ます。すぐに顔を洗い、誰もいない食卓で朝食を手早くとる。そして久しぶりに、出かける用の私服を着て準備を済ませた。

 約束の集合時間は午前九時。待ち合わせは新宿駅で、家からは徒歩十五分くらい。忘れ物がないかきちんと確認し、時間に余裕をもって家を出た私は、ゆっくりと新宿駅へと向かった。

 時刻は八時四十五分。予定より少し早く着いたため、まだ月白は来ていないかもしれないと思いながら、多くの人で混雑している駅周辺をぐるりと見渡した。すると、案外すぐに彼を見つけ、たくさんの人の間を上手く通りながら駆け寄った。


「おはよう、月白君」

「おはよう、梅沢さん」


 初めて見た私服姿は、白シャツの上に灰色で五分袖のカーディガンを羽織り、ズボンは黒色のスキニーパンツというコーデ。細身の彼にはよく似合う着合わせだと思う。


「梅沢さんって、私服お洒落だね」

「そう?」

「うん。すごく似合ってる」


 月白はニコッっと笑って私の服装を褒めた。

 白パーカーにベージュのチノパンと、私服をなかなか着ない中でもお気に入りだったコーデではあったので、褒めてくれたことが素直に嬉しかった。


「それに髪も」

「ありがとう」


 普段はストレートのセミロングだが、今日はあえて軽くウェーブをかけたセットにした。あまり普段やらないことなのでかなり苦戦してしまったが、これを予測して早めに起きたのは正解だった。


「それじゃあ、行こっか」

「うん」


 私たちはそのまま新宿駅から電車に乗り、水道橋駅へと向かった。

 電車に揺られること十五分。休日のこの時間帯で列車内も駅構内も人が非常に多い中、なんとか駅を出て目的地へと向かう。

 その目的地は駅からかなり近く、すぐに施設が目に入った。


「見えて来たね」

「うん」


 約十年ぶりの遊園地は、思っていたよりも数倍大きくて驚いた。都内では有数の遊園地であり、当然今日のような休日は人で溢れかえっていた。

 友達で来ている人、カップルで来ている人、そして家族で来ている人。様々な人たちが来ている中、私たちは周りの目にどう映っているのだろうか。


「ここでちょっと待ってて」

「うん」


 月白は一人で入場券を買いに人ごみの中へと消えていった。

 しばらくして少し疲れた様子の月白が戻ってきた。ここまでかなりの時間並んでいただろうし、夏が近いこともあって気温も高く、大変だったに違いない。


「はい、これ」

「ありがとう」


 私は差し出されたチケットを手に持ったと同時に、鞄から財布を取り出そうとする。しかし月白は、私のその手を掴んで首を振った。何も言わなくとも、彼が何をしたのかはすぐに理解できた。


「でも……」


 彼は私にお金を払わせないつもりだ。

 暗殺官に就いている以上、高校生でアルバイトもしていない彼の払わせるわけにはいかなかった。むしろ彼の分も払おうとも思って、多めにお金を持ってきている。


「気にしないでよ。それより早く行こ!」


 彼はそのまま私の腕を引っ張って、園内へと入った。

 園内に入ると、外にいたよりもさらに広さを実感することになった。どこを見渡してもアトラクションが目に映り、いつもビルばかりの景色の中にいた私にとってはすごく新鮮な光景だった。


「どこから行く?」


 月白は二つ持っていたパンフレットの片方を私に手渡した。私はそのパンフレットを開き、園内の地図を確認した。

 目の前に映っている通り、様々なアトラクションがある他、飲食店がたくさん入っている。


「私あんまり来たことないし、月白君の行きたいところに行こうよ」

「ジェットコースターとかどう?」

「あれ?」


 私は空を見上げながら指を差す。人の乗った乗り物が、かなりの高さから急落下する遊園地と言えばのアトラクションだが、間近で見ると迫力がすごい。


「うん。乗ってみようよ」

「分かった」


 たくさんの甲高い悲鳴が度々聞こえてくる中で私は頷き、私たちはジェットコースターに乗ることになった。



* * *



「梅沢さん、覚えてる? 学校祭の時にお化け屋敷行ったの」

「お化け屋敷……。そういえば行ったね」


 ジェットコースターはこの遊園地のナンバーワン人気を誇るアトラクションだとパンフレットに記載されていた。その記述通りの大人気ぶりで、開園からさほど経っていないはずなのに既に三十分待ちの長蛇の列ができていた。

 その間私たちは、この前話しきれなかった学校祭の思い出話に花を咲かせていた。


「梅沢さん、すごく怖がっていたよね」

「私、お化けとか幽霊とか心霊現象とか未確認生物だとか、そういう類は一切信じてないんだけどね。お化け屋敷って、お化けに仮装しているだけであって、やっていることはもはや陰湿ないじめと一緒だよ」

「言われてみればそうだけど……」


 暗闇から飛び出してくるとか、障子からいきなり物が出てくるとか、上から糸で吊った蒟蒻が降って来るとか。お化け屋敷という脅かすことをコンセプトにやっているからいいものの、実際にやられると嫌に決まっている。

 私がお化け屋敷で怖がっていたのは、いつその脅かしがやってくるか分からない恐怖に怯えているからであって、お化けに対しては怖くもなんともない。こんなことを言ってしまえば元も子もないが、お化けの仮装をする意味など一切ないと思う。

 それに、冷や汗をかいて夏を涼しくと、夏の風物詩とも言われるお化け屋敷だが、それなら辛い物を食べたり運動をした方が心臓的には良いのではないだろうか。


「この遊園地、期間限定でお化け屋敷やっているそうだから後で行ってみない?」

「月白君がそう言うなら行くけど……」


 ただやはり気は進まない。もう一度言うが、お化け屋敷が怖いからではない。


「お待ちのお客様、前へとお進みください」


 近くにいたスタッフにそう言われて前を詰めるように歩く。

 気づけばかなり列は進んでいて、もう間もなく私たちの出番がやってくる。


「高いのとか平気?」

「全然大丈夫」


 今更怖いと言ったとしても遅い気がするが、高い所は苦手ではない。もし高い所が苦手なら、ビルの屋上から他のビルに向けての狙撃といった任務はできず、完全に狙撃手として不適任だっただろう。

 むしろ高い所は好きだった。普段見られない壮大な景色を見ることができる幸せは、映像越しではなく、実際に高い所へ行かないと感じることができない。


「順番、来たね」


 月白は心躍った様子でこの時を待ちわびていたようだ。

 前の人たちが偶然、一つ前の最後尾だったために、私たちは一番前の席に乗ることになった。遊園地のスタッフの指示でシートベルトをして、安全バーを下げたことをきちんと確認したところで乗り物は発進した。

 最初はゆっくりと登っていくだけで全く恐怖感もなければ、スピード感もない。普通はこの頂点に行くまでの時間が焦らされている感じがして恐怖を感じるのかもしれないが、私には建物の外につけられた階段を上るのと大差ない感覚だった。

 頂点に差し掛かり、乗り物の角度が段々と下向きになる。そして乗り物は一気に加速を始めた。

 速いからこそ感じる風がどこか心地よく、爽快感を感じていた。感覚的にはオープンカーに乗って高速道路を走っているようなものだろうか。ただ、オープンカーでは絶対に味わうことのできない逆さになる場所では、重力に逆らっているような感覚になってとても新鮮だった。

 そんな風にジェットコースターを満喫しているのも束の間、気付けばスタート地点へと戻ってきていた。


「どうだった?」

「少し怖かったかな。梅沢さんは?」

「楽しかった」

「それなら良かった」


 勧めてよかったなと嬉しそうな表情を浮かべる月白。普段このような場所に行かない私にとっては本当に楽しいと思えるアトラクションだったのは間違いない。


「本当に高いのとか速いの、苦手じゃないんだね」

「高いのは好きだよ。景色が綺麗に見えるし」

「それは少し分かる気がする。電波塔の展望台からの景色とか、山の上からの景色ってなんか壮大でいいよね」

「うん」


 暗殺課の仕事柄、私は良く建物の屋上に行く。そこから見下ろす景色、特に夜の街の景色は、街の七色の光がイルミネーションのように鮮やかで、高い所からの景色の中では私のお気に入りだ。


「次はどうしよっか」

「私、月白君の行きたいところならどこでもいいよ」

「分かった。それなら……」



* * *



 あれから一日中、月白と一緒に色んなアトラクションに乗って、遊園地を満喫した。

 途中、話していたお化け屋敷にも言ったが、やはりとても心臓に悪く、寿命が縮まった気がした。ジェットコースターより何倍も危ないのではないだろうか……。

 時刻は午後六時半ごろ。段々と日が傾いてきて、遊園地の閉園時間も近づきつつある。


「ねぇ、梅沢さん」

「何?」

「最後にさ、あれ乗らない?」


 月白が見ていた先に、私は視線を移した。そこには……。


「観覧車?」


 地上から百メートルくらいはありそうな赤色ベースの観覧車の姿が見えた。

 丁度その色が、夕刻の赤い太陽の色に似ていてとても映えている。


「高いの好きって言ってたからさ」


 少し照れながら月白は言った。


「うん。乗ろうよ」


 時間が閉園に近づいているため昼間のように長時間並ぶことはなく、無事に観覧車に乗ることができた。


「今日はありがとね。誘ってくれて」

「いや、感謝したいのはむしろこっちだよ。わざわざ休みまで取ってくれて嬉しかったし、本当に楽しかった」


 段々と観覧車が回転し、今日一日回った遊園地全体が見えるようになってきた。端から端まで思う存分楽しんだ分、終わりに近づいてきて少しずつ寂しく感じてきた。


「そういえば梅沢さん、最初あんまり遊園地に行きたそうじゃなかったよね。何か理由があったの?」

「うん。まぁね」


 この話はまだ誰にもしたことがなかった。私は十年近くも前のことを思い出しながら、その時のことを語り始める。


「私にとって、遊園地は辛い思い出の詰まった場所だった。幼い頃、母親と父親に連れられて行った初めての遊園地。当時の私は今よりも自分の意思が薄くて、感情もほとんど表に出さなかった」


 私は昔から、感情の薄い子だと言われてきた。でも実際は、内側にはちゃんと感情があり、それが表に出ていないだけ。そのため、親や周りには勘違いされていた。


「遊園地に来てもそれは変わらなくて、親が勧める通りに色んなアトラクションに乗った。当時どう感じていたのかまで覚えていないけど、その日の帰り道に『もう二度と連れて行かない』と母親に言われて以降、一度も来ることもなかった」


 子供にとって遊園地は夢のような遊び場で、子供を楽しませようと親が連れてくるのは自然なことだと思う。でも感情が表に出ない私の場合は、楽しんでないように親には捉えられたらしい。その結果、遊園地のみならず、他のテーマパークにも一切行くことはなくなった。そして同時に、私は段々と親から見放され始めた。


「あれがきっかけで、私は親には面白みのない子だと言われるようになった。だから私は、自分は面白みのない人間、だから世の中に必要じゃないんだって思い始めた。私が暗殺課になったのは、遊園地が全ての始まり。それが良かったことにしろ、悪いことだったにしろ、親に見放されるきっかけになった場所だったから、いい印象がなかった」

「確かに梅沢さんってあまり表情に出ないから、どういう感情なのかは良く分からないことが多いよ」


 月白は私の想像とは反対のことを言う。彼ならまず、私を慰めるような言葉をかけると思っていた。


「でもちゃんと感情があるってのは良くわかるよ。だって感情がなければ、仕事を休みにしてまで今日ここに来なかったと思うから」


 軽く微笑みそう言った月白の言葉に、私の心の中で強い衝撃のようなものが走った。


「だから俺は面白みのない人間だなんて思わない」


 過去とは真逆のことを、生まれて始めて言われて心の中が落ち着かない。段々と鼓動が早くなっているのはなぜだろう。


「ねぇ、月白君」


 私たちの乗った観覧車は、もうすぐ頂点に差し掛かる。こうして乗っている間に日はさらに傾き、空は綺麗な茜色に染まり始めていた。


「梅沢、さん?」


 私は真っ直ぐに月白を見つめた。こんな風にまじまじと見つめたのは出会ってから初めてだと思う。だから月白は驚いていた。


「どうしてそんなに優しいの?」


 評判通りどこまでも優しくて気遣いのできる彼。そんな人に出会ったのは、月白が初めてだったし、そんな人はこの世にいるとすら思っていなかった。


「俺は好きな人にとことん優しいってだけだよ」


 今までで一番の彼の笑顔は、背後の遥か向こうにある赤い太陽よりなんかよりも何倍も輝いて見えた。

 彼が優しいのは私を好きだからという理由だけでないことを良く知っている。

 なぜなら私と初めて出会ったあの日のあの瞬間……、いや、私を私だと知る前から、ずっと優しいのだから。


「ありがとう」


 それでも感謝せずにはいられなかった。きっと彼にもう一度出会うことができなかったら、ずっと暗いままの生活を続けていたに違いない。

 私の何も見えない暗闇のような人生に光をもたらしてくれたのは、間違いなく月白だ。


「あ、初めて笑った」

「え?」


 月白が嬉しそうに言ったが、自分では全く自覚がなかった。だから自分がどんな風に笑っていたのかは分からない。


「やっぱり梅沢さん、笑っていた方が可愛いよ」

「そんなことない」


 私は目線を外の景色に移して、表情を隠した。


「月白君こそ、悲しい顔なんかより笑っている顔の方がいいよ」


 少し照れながら私はそう言った。ずっと前から私はそう思っていた。


「そ、そう?」

「うん。だからずっと笑っていて欲しい」

「ありがとう」


 屈託のない純粋な笑顔を見せた月白。その笑顔は、私の中に深く刻み込まれる一生忘れない笑顔だと思う。

 私たちの乗っていた観覧車は、気付けばもう終わりに差し掛かり、段々と高度が下がっていく。


「ねぇ、梅沢さん」


 月白が改まって私を呼ぶ。


「帰ろっか」

「そうだね」


 月白も私も、お互い悟った。

 今この瞬間を超える出来事は、この後時間いっぱいまで遊園地にいても起こり得ない。

 それならば、今の雰囲気の余韻のまま帰った方がいい、と。



 観覧車を降りた私たちは寄り道することなく、すぐに遊園地を出た。

 そして今、最寄駅から新宿駅へと戻る電車の中にいた。

 来た時とは対極で、人がほとんどいないために静かで落ち着いた車内。適度な疲れも相まって、少し眠気もこみ上げてきた。

 月白も同じらしく、先程から瞼が重そうだ。


「さすがに、はしゃぎすぎたかなぁ」


 その眠気を飛ばそうと、思いっきり背伸びをした月白。

 思い返せば、園内にいる間はずっと動き回っていた気がする。


「ねぇ、月白君。ちょっと聞いてもいい?」


 私はそう月白に問う。

 なかなか彼に聞けなかった、告白の日から疑問に思っていたことだ。

 月白は視線を外の景色から私へと向けた。


「私が暗殺課だってこと、どうやって知ったの?」


 私は常に周りに知られないように努めて来たし、朽木の計らいで、報道の際には名前を伏せていた。私の身内や暗殺課の人、他の課の警察官を除けば、私が暗殺課であることを知っているのは月白だけだった。

 一体いつから、どのようにして知られたのか。そのことが長く謎だった。


「そういえば、話してなかったね」


 月白は再び視線を窓の外に移す。


「告白した日の前日だったかな。飲食店でずっと勉強してて、夜十時になったから帰ろうと道を歩いていたんだ」


 高校生は保護者が同伴でない場合、夜十時以降の飲食店の利用は認められない。そのため、夜十時になれば必然と帰らざるを得なくなる。


「その時、来た時には通れたはずの大通りが通れなくなっててさ。それもただの通行止めじゃなくて、警備員もたくさんいたし、パトカーのサイレンも鳴り響いてた。明らかに何かあったんだなって雰囲気だった」


 おそらく、彼が言っているのは告白の前の日。新宿で刃物を持った対象の男が逃走していた、あの時の任務のことを指している。


「何があったんだろって周りを見つめてた時に、銃声が聞こえて、その時に悟ったんだよ。きっと暗殺課の任務だったんだなって」


 避難誘導がされていて、いつもより人がいないビル街。銃声はより響いて、彼の元まで届いたのだろう。


「時間も時間だし、ここにいても何かできるわけじゃない、そう思って迂回して帰ろうとした時に、偶然梅沢さんとすれ違ったんだよ。どうしてこんな時間のこんな場所にって思って、通り過ぎた梅沢さんの方を振り向いたら、背中にライフル型のバックを背中に担いでて。そこで悟ったんだ」


 スナイパーライフルはもちろんのこと、拳銃の所持は銃刀法で一般人は携帯することができない。

 その一方で、例外的に所持を認められているのは警察官であり、さらにただの拳銃ではなくスナイパーライフルを所持できるのは暗殺課だけである。

 当時の記憶を遡ると、私は任務を終えた後そのまま帰宅の途に就いていた。そのために、スナイパーライフルを所持した状態ですれ違ってしまったのだろう。

 あの時の私は少しボーっとしていたため、いつものような細心の注意も払うことはなく、完全に気が抜けてしまっていた。


「そっか。あの時に……」

「でもあの日見た光景がもしかしたら他人の空似かもしれないと思った。だから次の日に真相を確かめようとあんな風に言ったんだ」

「そういうことだったんだね」

「うん……」


 もしあの日、あの時、私がいつものように細心の注意を払い、朽木と合流してスナイパーライフルを預けていたなら。もっと人通りの少ない裏道を通っていたなら、どうなっていたのだろう。

 同じように告白されていたとしても、私が月白に関心を持つこともなく、こうして出かけることも、過去の記憶を思い出してその思い出に浸ることもなかっただろう。

 そんな風に意味のないもしもの世界を空想してみて思う。

 今のこの瞬間は、偶然が折り重なったもの。

 これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう、と。



* * *



 新宿駅に降りると、空は随分と夜に近づいていた。

 時刻はもう七時半に迫っている。


「今日は誘ってくれてありがとう」


 自分が暗殺課であることを忘れることができたのは、所属してから初めてだった。

 そんな特別な時間をくれた月白にお礼を言いたくなったのは、自然なことだった。


「こちらこそ。本当に楽しかった」

「じゃあ、また明日」

「うん。また明日」


 私たちは互いに挨拶を交わし、私は踵を返した。


「梅沢さん!」


 でも月白のこの言葉で、私は振り向いた。


「また出かけようね」

「うん。またいつか」



『また行きたい』


 私の心はそう思っていたけど、きっとこれを続けると段々と暗殺課の世界に戻りたくなくなっていくのは容易に想像がついた。

 私が求められている以上、あの場所から離れたくはない。でも今、求められているのは暗殺課としてだけではない。

 だから私は言葉を濁し、『いつか』と曖昧な言葉を残した。

 いつか。

 今日までの五日間とは比にならない、そんな気が遠くなるような言葉に、彼はいつまで待ってくれるのだろうか。

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