逃げの記憶と負い目


私は兄に恨まれている。

兄は幼い頃から母親に酷い扱いを受けて育った。

それは彼が大学を出て一人暮らしをするまで続いた。


私は兄よりも10歳遅く生まれて、虐げられている兄を見ながら育った。


 いつだったか、制服を着た兄がテストで90点台をとってきたにも関わらず母に怒鳴られているのを見た。母は「完璧」以外を認めない。100点以外は全て0点と同じ扱いだった。


 私は恐怖したのを覚えている。

あの頭の良い兄が何時間も立たされ説教をうけている。私も中学生になったら毎日怒鳴られ殴られ家の外に出される生活が待っているのだ。


 そしてまた別の記憶。

習い事の練習を家でしていたときだった。突然腹が痛くなり、トイレに駆け込もうとした私を捕まえて、母が「逃げるな」といった。

それでも泣くほどおなかが痛かったので無理やりトイレに籠った。

単身赴任から戻っていたのか、たまたま家に居て一部始終を見ていた父が「あいつは大丈夫なのか?」と母に訊いたようだ。

「あの子はサボり。どうせ仮病でしょ。」と母が大きな声で私に聴こえるように言い放つ声がトイレのドア越しに響いてきた。


 そして母の目にも見える形で私が病気になったとき、母は打って変わって私に優しくなった。

起立性調節障害、自律神経失調症。

血圧が著しく低くなって、立っていることもできなくなった。血圧計のモニター部に最高血圧:60、最低血圧:30と表示されると母は私が学校に行くのを「サボって」いるわけではないと気付いたようだ。

 耳鼻科では黒いゴーグルを付けられ、眼球の動きを測った。結果は「異常あり」。

黒目が一定方向にひょいひょいとブレながら移動しているさまをカメラで確認。

 大学病院で測った脳波も「異常あり」。α波が極端に抑制されているとかなんとか。


 数値で、実際の眼の動きで、お医者様の言葉で。ここまで私の身体が悲鳴を上げていることを示されてしまっては母も笑い飛ばすことができなかったようだ。

別人のように私を甘やかし、私の体調について自分の事のように悲観した。



 長年母から叱咤され、殴られ物を投げつけられて育った兄は私をどう見るだろうか。母親から愛情らしい愛情も受けず、自身は他人に優しく、強く逞しく立派に独り立ちした兄。中学校へ進学したとたん母に甘やかされ、愛情を受けて育ったものの打たれ弱く虚弱な妹。


 兄への負い目から、私は自分の身体の不調を「逃げ」だと認識してきた。

確かに血圧が低いことは数値として出ている。医者から病気だと診断を受けている。

それでも。

母から、家が揺れるほどの母の金切り声から、怒鳴られ殴られ続けるであろう将来から、逃げたのではないかという疑念が拭えない。


兄はしっかり耐えてきたからこそ現在は良い暮らしをしているのに。私が人並みの生活すら送れていないのは逃げたせいだ。


兄はたびたび母の暴力から私を守ってくれていたのに。病気になった私ばかり母から優しくしてもらえた。



 私は一生兄に対する後ろめたさを抱えて生きて行くのだろう。兄は私を恨んでいるのだという念に押しつぶされそうになる。

なんで兄は立派に育ったの。

なんで妹ばかり甘やかされるんだ。

 きっとお互いがお互いを羨ましく妬ましく恨めしく思いながら、お互いの心に澱のように沈む母への愛憎と共に過ごしていくんだろう。ずっと。




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