彼は感染したんだ、だから撃った。

南雲 色

ブロローグ 喪失

 小さなアリが食べ物を運んでいる、時間はかかるが、必ずできると知っているからだ。突如大きな影がアリを覆う、影が去るとアリは無惨な姿になっていた。

 森で4人組が必死で走っている、何を踏みつけたか覚える余裕がないぐらい走っている、突然1人が口を開く。

「なぁ」

 落ち着いた低い声だ。

「どうした」

 横目で彼を捉える。

「さっきやつらに噛まれそうになったとき命懸けで助けてくれただろ、これでチャラにしてくれや」

 彼が急に立ち止まったので、私もつられて一緒に止まる。

「どうして止まるんですか!」

 前方から仲間の苛立った声がするが、うまくこの感覚を説明できない。

「先に行け! すぐに追いつく」

 遠くから舌打ちが聞こえた気がした。

「お前も見たはず、あのスピード、どうせすぐに追いつかれる」

 先に口を開いたのは彼だった、いつもと違って真剣である。

「やっぱり噛まれてたわ」

 そんなわけない、さっきは助けられたはず! 言葉を出したくても、そうする時間を現実はくれやしない。

「おれが囮になって惹きつけるから、お前のその拳銃でおれを殺してくれや、さすがに生きたまま食われるのは嫌や」

「一緒に行くって約束だろ、死ぬ気で走ればまだ間に合うかもしれないのだぞ!」

 表情なんて見ている余裕はない、彼の手を引っ張って走ろうとするが、感じたことないぐらい強い力で振り払われる。

「この腕を見ろ! このままじゃ共倒れじゃ、どうせ俺は死ぬ、ならせめてこの命を使ってくれや、頼む。」

 気迫に圧倒され、思わず従ってしまいそうになる。

「早くしろ!」

 何もできない自分に嫌気がさした

「やるんだ」

 腰から銃をぬき、彼に向けた。覚悟ではない何かに体を動かされて指に力がこもる。

「それでいい、彼女に俺の勇姿を伝えてくれよな」

 乾いた音、加速する心音、手に残る感触、伸びる時間。

 ふと来た方向に目をやるとやつらが来ている感じがした、恐怖のあまり体が本能的に走り出す。 好奇心で一瞬振り返るとヤツらは彼の体を貪っていた

 くそ、くそ、くそ、くそ。

 いくら走っても衝撃が手に残る。

 何もかもを置き去りにするように必死で足を動かした。


 ………


 どれぐらい走ったのだろうか、喋り声が聞こえてきた、どうやら私を探しに行くかで口論になっているらしい。

 洞窟に着くとすぐ私は倒れ込んだ、酸素が足りない、苦しい。

「ねぇ! なんで1人なの? 和也くんはどうしたの!」

 由依のキンキンした声が降りかった、よりによって余裕がない時に。

 脳内でやつらが彼を覆う様子が一瞬蘇る。それと同時に由依の声は洞窟内を響く。

「答えてよ! ねぇってば! めぐみ」

「うるせぇんだよ!」

 由依は一歩引いた、表情は暗くてよく見えない。

 自分でも驚くほど声を荒らげてしまった

「ごめん」

 とっさに謝る。

「ちょっと休ませてくれ」

「うん」

 ふともう1人、慎一の方に顔を向けると、こちらを見て何か察したようだ。

 慎一は口を開く。

「先に休んでください、この状態じゃ話せないですよね」

「ありがとう、助かるよ」


 ………


 小一時間後に私は目を覚ました。

 立ち上がって改めてこの洞窟を見渡すと、よく見つけたものだなと感心する。それなりに広く、通っている高校の教室一個分ぐらいだろうか。内側はドーム型になっていて、真ん中に置かれている慎一の手提げ電灯のおかげであたりに少しだけ光が届いている。入り口は体を傾けないと入れないぐらい狭く、木の枝で作った骨組みの上に土や葉っぱを乗せることで隠している。

「やつらは来ていないのか」

 自分の言葉に少し違和感を覚えるも、気になることを慎一に聞いた。

「大丈夫そうです、それより和也さんはどうしたのですか?」

 由依を見ると、彼女もこちらをじっと見ていて爪を噛んでいる。

 鉛みたいな口を私は開こうとするが、開かない。大きく息を吸って、吐いた。

 よし。

「私たちを逃すためにおとりになったんだ」

 言葉を聞いた由依からすぐに情けない声が漏れる。

 聞こえないふりをした、言わなくてもいいことは言わない。

「ではあの銃声はなんですか?」

 少しの間をおいて私は「撃った」とだけ口にする。

 由依の方向から物音がした、歩きながら迫ってくる。

「撃ったってなんなのよ!」

 私は下を向いて黙り込み、足の近くにいるアリを見た。

「なんか言いなさいよ!」

「だって仕方なかったんだ」

「どういうことですか?」

 疑問を感じた慎一が口を開く。

「彼は感染していたんだ、だから撃つしかなかった」

「なんであんたに分かるの! 和也くんは感染なんかしてない!」

「由依さん、落ち着いてください、これじゃ恵くんが」

 淡々とした声がした、こういう時妙に頼もしく感じるのが悔しい。

「ほら、あの時やつらと出くわしただろ」

 慎一は何かを察した。

「まさか・・・既に噛まれていたんですか?」

「うん」

 今にも消えそうな声で私は答える。

「うそ、うそだ、嘘だ嘘だ嘘だ!」

 獣のように由依は叫び、後退りしながらバランスを崩す。私たちはその様子に圧倒された。そこにはもはや理性はない、崩れた前髪が彼女の顔を覆う。

 私は再び下を向いてアリを見た。

 あれでよかったよな、正しかったよな。自分に問いかけても答えは返ってこない。

 やがて沈黙が3人を襲い、離れて座っているそれぞれがいつの間にか眠りに落ちる。


 ………


 ふと目を覚ます、枕元に違和感を覚えたからだ。見上げると片手でナイフを振り上げている由依がすぐそこに立っていた。加速される感覚のなかで私は無意識に横に避ける。風の音が頭の後ろを通り去る。

「おいなにすんだよ!」

 急いで立ち上がりながら由依から離れる。

「アンタが和也を殺したんだ」

 彼女は姿勢を整え、歪みまくっているその顔をこちら向けた。

 なんだよ、こんな表情見たことない。

「どうしたんですか?」

 気がつくと慎一も起きている、大きな声出したんだから無理もない。

「感染したなんて嘘だ! アンタが助かりたいって思ったから殺したでしょ!」

 そう叫びながら鋭い刃物を大きく振るいながらこちらに近づいてくる。

 私は避けることに専念せざるをえない。特に格闘技も習っていない私にとって、弁明する余裕などある訳がなく一方的に攻められる。

「落ち着いてください! 由依さん!」

「私は和也くんしかいないの! 彼が必要なの! 和也くんは」

 由依の動きが声と共に一瞬穏やかになった、私はすかさず後ろに下がる。

「和也くんだけは私を理解してくれた・・・寂しい時も、悲しい時も、私がいじめを受けた時さえも、彼は助けてくれたのよ?」

 掠れた声で由依は続けて喋る。

「彼はヒーローなの、私にとっての唯一無二の存在なの、なのに、オマエは」

 そんな彼女の言葉は私には届かない、どうやってこの状況を切り抜けようか考えることで精一杯なのだ。


 バン


 大きな音が洞窟内を響く、先程争い合っていた二人の体は固まった。

 慎一を見るといつのまにか私の銃を構えている。銃口は天井に向けられていた。

「由依さん、もうやめてください!」

 耳鳴りの中で彼の声が聞こえる。

 今度はゆっくりと銃を由依に向けた。

「慎一、あんたも騙されているのよ?」

 由依のナイフを握る手に大きな力が込められる。死への恐怖より憎悪に支配された彼女の目と合い、体がすくむ。

 まさか、

「オマエがぜんぶ!」

 走りながらこちらに迫りこんでくる。


 バン


 彼女の脇腹を通過する何かが見えた気がした、勢いのついた体はこちらを目掛け倒れる。

「ううあ・・・」

 由依の苦しむ声、異常なほどの執念で睨みつけられた私は後ろに下がって壁にもたれ、しゃがみ込む。

「かずやくん・・・」

 由依の声が途切れた。

 彼女は死んだのだ、不思議なことに一目でわかる。

「おえええええ」

 少し離れた場所で慎一は四つん這いになって吐きはじめた、蝦蟇が締め殺されるような声と共に黄土色の吐瀉物を地面に広げる。

 さすがの彼でもこの事実には耐えられないみたいだと自然に思う、その姿をただ眺めていた。少し時間が経ったあと、私は無言で慎一の背中をさすり、彼の手を私の肩に回させて一緒に洞窟の入り口の方へと向う。

 ゆっくり降ろした後、極限状態が続いた私たちの視界は暗転した。


 ………


「おはよう」

 まだ朦朧とした意識ではあるが、私は慎一に恐る恐ると声をかけた。

「・・・あぁ、おはようございます」

 見るからに調子が悪そうだ、顔色が良くない。

 昨日のことを思い出すとまるで夢だったような、そんな気がした。

「なぁ、これからのことなんだけどさ、キャンプまであとどれくらいかかるんだ?」

 近くに転がっている事実に触れたくない、考えたくない、見たくない。

「たしかあと4日ぐらいで着きますよ」

「そうか、わかった、なら荷物まとめたらもう行くか」

 リュックに物を詰める最中、視界の端に結衣が一瞬映る。さっさとこの場から離れよう。

 狭い入り口から出て、私達は黙って歩いた。というより無駄に体力を使えない。和也と由依の死によって食糧に少しだけ余裕が出てきたとはいえ、それでも1日2回食べるのが難しい。前回建物に泊まる際、他の人たちと協力していたのに食料を寝ている間に盗まれた。和也は彼らだって必死だ、許してやれとみんなに言ったが、私は内心では呪った。

 それに希望というものがない。今まではこんな前の生活を時々思い出しながら頑張ってきたのに、それがもう叶わないって分かると、嫌だけど神にすら祈りたくなる。それでも私達はキャンプを目指して歩いている。大事にものを失いつつも。

 何のために?

 いや、考えるのをやめよう。

「水はあとどれくらいあるの?」

「もう3日の分しかないです」

 普段からあまり感情を見せない慎一でもすこし焦っているのがわかる。水不足は深刻な問題だ。

 アレが流行ってから約17年、自然にあるほとんどの水はダメになってしまった。だから外では調達しにくい。しかも感染対象に背骨があるなら大体かかるそうだ。その中でも保菌者になるには条件があるらしいが、それが何なのかはまだわからない。適合した者は少しずつ自我を失い手当たり次第人を襲う怪物に、そうじゃない者は数日の無症状期間が過ぎた後、細胞が一気に崩壊し始め、体が溶ける。

 組織が作った集落で私たちは育ったが、最近頻繁に襲撃を受けるようになって、このままでは死ぬだけだと悟った私たちは離れたより大きなキャンプを目指すことにしたのだ。

「いい案があります」

「どんな?」

 慎一の居る方向を思わず見る。

「蒸留すればいいんですよ」

 たしかに、蒸留ならば微生物を残して水だけを取り出すことができるかもしれない。私も昔どこかで不純物を取り除けるのが蒸留のいいところだって聞いたことがある。

「・・・だけどこの方法でできた水は念の為僕が飲みます、恵は僕の分を飲んでください」

 一瞬迷ったが、衰弱して死ぬよりは良いだろうと思って「そうか、わかった、そうしよう」と吐き捨てた。

 内心どこかホッとした自分がいることに私は少し複雑な気分になる。何かを忘れている気がするが、いいんだ、それで水が飲めるのなら。

 日中はずっと移動しているから夜に蒸留するしかないが、やはり作れる量は少ない。無いよりかはいくらかマシだが、気休め程度だ。


 ………


 こうして私達は問題を解決したり、無視したりしつつとなんとかキャンプに向かうことになった。段々と口数が減り、道中で何度か襲われそうになりつつも、なんとか逃げることに成功して目的地である小さな村についた。村は思ったよりも殺伐としている。

 近くの一軒家の窓を割り、そこから侵入する。

 よし、予想通りここにはまだいない。

 二階にある寝室っぽい場所で私たちは荷物を下ろす、窓から光が漏れることを警戒して手提げ電灯はつけない。電気はそもそも通っていない。

 地面で仰向けになって興奮気味に口をひらく。

「いよいよ明日だな」

 希望が見えてきたおかげか、実際には体力がほとんどないのに活気が漲ってくる。

「・・・」

 慎一は黙っていた。彼には助けられっぱなしだったし、ずっと気を張り続けていたからな、疲れているのだろう。

「今日は明日に備えてもう寝ようか」

 私は慎一にそう話しかけると、彼は頷いてくれた。

 あぁ、こうやって何かを楽しみにしながら寝るのも悪くない。


 ………


 目を覚ますと古びた天井が映った。

 誰かに話しかけられた夢を見た気がする、けど思い出そうとすればするほど忘れてしまう、手に握った砂のようだ。

「っしゃ、いくぞ慎一」

 自分に気合いを入れて言う。

「あぁ」

 そう答える彼に少し違和感を覚えるが、もうどうでもいいのだ、キャンプにつきさえしてしまえばあとはどうにでもなるから。

 リュックを背負い階段を降りて、木製の扉を開けた。

 灰色な空が出迎える。

 私達はひたすら歩いた。思えば彼は同年代とは思えない精神年齢で、困った時はとりあえず慎一を呼んでおけば大丈夫っていうくらいだった、さらに頭が良く成績もいい。そんな彼は見事にこのキャンプへ向かう計画を練り上げ、私たちを助けてくれたのだ、命の恩人と呼んでも過言ではない、あのままずっと学校でこもっていたら確実に死んでいた。

「さぁ、そろそろ着くぞ」

「・・・」

 慎一は何も言わない 。

「どうした? もうすぐなのになんでそんなにテンション低いの?」

 あと2kmくらいで着くはずだ、それほど疲れているというのか。

「怖いのです」

 予想外の言葉に私は思わず振り返る。

「・・・は?」

「死ぬのが怖いんです」

「何言ってんだよ、もうキャンプにつくだろ?」

 なぜそんなことを言うのか理解できない。

「僕あの水を飲んだじゃないですか」

「あぁ、蒸留したやつね」

「そうです」

 慎一は言葉を喉に詰まらせたような感じだ。

「だめだったんですよ」

「え?」

 蒸留をしたら水だけを取り出せるのではないのか?

「僕の勘違いでした、水だけを取り出せるなんて。やっぱり蒸留は難しいんだ」

 段々と慎一の声が震え始める。

「もう僕は今君を噛みたくて仕方ないんですよ、こんなふうにさせるほどだからおそらく脳に直接侵食している。まさかこいつごときが人間の脳を理解しているとは、仮に脳まで侵食したとするならば侵されている部位は多分大脳辺縁系の扁桃体と皮質の前帯状皮質だろう、これで報酬回路を---------」

 先生みたいに慎一はわかったことを教えてくれるが、そんなことは頭に入ってこない。

 必死な姿がとても印象的だ。

「------だから僕は行きませんし、いけないのです」

 ふと我に帰る。頭を必死に働かせてもかける言葉が見つからない。

「もう僕は長くないのです、だから一つお願いを聞いてくれませんか?」

 おい、それは・・・

「僕がまだ僕で、人でいられる内に殺して欲しいです」

 真っ直ぐ見つめてくるその瞳の奥には、別のナニかが居る気がした。いま目の前にいるのはどっちなのだろうか。

「嫌だ」

 自分でも情けないと思う声だ。

「どうしてですか? どのみち私は死ぬんですよ?」

「もう、自分の手で人を、それも仲間を」

「それはただ逃げてるだけじゃないですか?」

「・・・」

 鋭過ぎるその言葉は容赦なく私の心を刺す。

「いけませんよ、僕に助けられた恩だとでも思ってください」

「嫌だよ、怖い」

「僕だって怖いですよ!」

 声を荒げる慎一。

「これから死ぬんですよ? まだやりたいことがたくさん残っているに、ただの肉となるんですよ? 怖いに決まっているじゃないか!」

 もはや叫び声に近い。

「そんなに怖いなら自分でやりますよ」

 取り乱していると気づいたか、目をそらして近づいてきた。

 差し出された手は少し震えている。

「すまない慎一、任せてくれ」

 これは私がやらないといけないことだ。

「恵ならやってくれると思いましたよ」

 そう言って目の前の人は少し微笑む。

「ごめん、あの時私が止めてさえいれば」

「いいんです、僕のミスですし」

 優しい声だ。

 また、銃を向ける。

「今までありがとうございました」

「あぁ、こちらこそ」

 人差し指に力を込めてトリガーを引いた。衝撃と一緒に慎一の眉間から赤い液体が溢れてくる。体はバタンと後ろに倒れ、彼はただの物へと変わった。そこらの埃と同類になってしまった。私もいつかはこうなるのだろうか。

「仕方ない、仕方がないんだ」

 自分にそう言い聞かせる。

 色の無い空の下を一人で歩く2kmは今までで一番長かった。

 進んでいるとキャンプの深い青色の門が見えてきた、金属製で錆がたくさん付いている。しかしなぜか半開きになっているうえに衛兵もいない、見張り台だと思われる建物に監視役の人間もいない。

 まさかすでに移動したのか。

 信じられないが、とりあえず入るしかない、まだ人がいるかも知れない。わかっているはずなのに。

 しばらく歩いていると予感はあたっていた。中は壊滅的だった、やつらの襲撃にでも遭ったのか生物が全くいない。ホルダーの上から銃を手で触れた。

「なら今までの努力はなんだったんだよ・・・」

 視界歪む。直線が曲線へとうつる。全てが嫌になってきた。

 それでも生きるための物資を探すことにする、家のからは少しばかりの食糧、中央には武器庫のような場所もあった、ほとんど残っていないが、一丁だけライフルが残っている、馴染みあるm4だ、それぐらいしかわからないがカスタムもされているし使われた形跡もある。弾を可能な限りリュックに詰めた。物資だけではなく、次の目標を見つけるために情報も探した、望みは薄いがまた小さなキャンプがある、いくならそこしかない。

 外に出ると私は辺りを見回した。

「襲撃にしてはおかしいな、血痕が全くない」

 キャンプの様子に違和感はあるが、もうどうでもいい。

 門を出ると急に前方向から視線を感じる。おかしい、さっきは誰もいなかったのに。

 木の影から誰かがこちらを見ている、不思議に知性のようなものは感じない。しかしどうしてか懐かしさを覚える。

「・・・・・・慎一?」

 影はこちらを見つめている、一歩、二歩、そしてさらに一歩と足を踏み出す。

 何が起きている、さっき殺したはずなのに。

「待てっ! 慎一なのか?」

 そんなことはない、が、一応確認しておく。

 彼は少しずつ近づいてくる、徐々に影は取り払われ、顕になったその形は慎一の服を着ていた。皮膚に血の色は無く、黒い斑点が浮かんでいる、所々鱗のように硬質化していたり、剥がれていたりする。顔を見ると眉間には小さな黒い穴があり、血はもう垂れていない。縦に二分割された顔の右側は溶けるように崩れており、残った片目には強い意志が宿っており、こちらを睨みつけてくる。

「なんだよ、なんなんだよ」

 目が合ったせいか、そいつは突進してきた。

「ンォオイエ!」

 明らかに人ではない声がした。

 硬直した体は脳の命令を無視している、慎一は一瞬で飛び付いてきた、地面に押し倒された後すぐに噛もうと歯を剥き出す、真っ黒な目に自分が映る。死から離れようと本能的に抵抗しながら私は思う。

 彼はもういない、目の前にあるのはその形をとった怪物だと。そう考えると楽になった。

 腰にある銃を抜き出し、腹に2発撃ち込む。痛みを感じたのか怪物の力は少し緩む、機会を逃さず足で蹴り飛ばした、立ち上がってすかさず頭を撃つ、1発、もう1発、さらに1発、額に穴を開けられた怪物は仰向けに倒れた。それでも私は指を動かし続ける。

 気がつくと弾はなくなっていて、怪物は痙攣していた。しかし完全に止まることはなく、ただひたすら震えていた。

「まだ生きようとするのか、おまえは」


 ………


 私はキャンプから持ってきたハンマーを両手で構える。

「すまない」

 なぜ謝ったのかはわからない、目の前にいる慎一があまりにも惨めな姿をしているせいか、それとも助けられられなかった自分に許しを乞いたのか。

 全力で振り下ろす。

 潰れる頭蓋、飛び散る血、そして生々しい音。一度だけ大きく跳ねた体は糸が切れたように止まった。

「これで、終わりだ。・・・この傷はどうしたものか」

 自分の腕の切り傷を見る、掴み合いの最中できたものだ。保菌者の体液がかかっていなければ感染はしないはずだけど、さすがにそれはわからない。

 ちょっと休んだら次のキャンプに向おう。

「どうしてこんなことになったんだ、どこで間違えたのだ」

 慎一の隣りで私は横になる、仰向けになのは涙が溢れないようにするためだ。これからどうしていいのかもわからない、キャンプに向かうにせよ一人じゃ難しい、なによりももう何もしたくないのだ、疲れた。

 いっそのことこれで終わりにしてもいいかもな。

 そう思いながら銃に1発弾を込める。

 こめかみに当てると、そこから全身に波が広がるように鳥肌が立った。

「くそ、結局は」

 声にならない声で呟く。指にいくら力を込めても、自分じゃない誰かがそれを邪魔する。

「もういい」

 絶望しながら私は目を瞑った。


 ………


 落下している、どの方向に向かっているかはわからない。何もない暗闇の中では方向の持つ意味は消え去る。両手を伸ばしながら無限とも思われる場所を進み続ける。自分の体の境界線が薄れていく感覚だ。

 背中側からなにかを感じた、振り向くとかなり離れたところに大きな一本線があって、その線は闇を横切っている。気になって目を凝らして覗き込むと線はピクっと動き、真ん中から一気に開いた。

 目だ。

 自分の何百倍もある大きな目がこちらを見ている、まっすぐ、ただひたすらに。その瞳孔はあまりにも深く、まさに深淵だ。

 あまりの恐怖に晒され、私は混乱状態に陥った、声は出ない、体も動かない、だが思考だけがはっきりしている。

「オ--エ----ハフエ----ダ」

 確かそう言われた。


 ………


 ゆっくりと目を覚ます、どうやらまだ生きているらしい。

 次のキャンプに向う。

 立ち上がって念の為に慎一の死体を確認する。動いていない。

「いってくるよ」

 私は再び歩き出した。

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