第6話:トリガーとプリキュアカレー

 翌日も「マーマレードジャム」が目の前にあった。


「ねえ、もう陸上はやらないの?」


 七隈さんが僕の隣の席に座って訊いてきた。微妙に距離が近いんだけど……。


 僕が陸上で怪我をした情報も一緒にグループチャットに流れていたはずなのに……。


 人は見たい情報しか見ないと聞いたことがあるけど、七隈さんの場合 極端なのかもしれない。


「ねえ、住吉くん。1日に練習はどれくらいやるのかな? 今も朝とか走ってるの? もし走ってるなら一緒にどうかな⁉」


「いや、もう僕は引退したから……」


 茶山くんも僕の席の前に座って色々話してくる。聞けば彼も陸上部らしい。そして、ボクの名前を知っていたらしい。元の「柳町」の方だけど。


 高校生の場合、有名になったとしても名前を見るくらいで顔を見ることなんて ほとんどない。よっぽどその人のファンでない限りは。


 茶山くんも悪い人じゃないんだと思うけど……


 占い師のお姉さん、今度こそダメでした。


 瓶の外から見ただけなら半透明のオレンジ色できれいに見える。一口食べたら甘くて蕩けそうだけど、その奥に苦みがあって……。その苦みの上に甘みが成り立っている。


 この教室はまさにマルメラーデグラス。七隈さんのためのジャムの瓶。彼女が甘く過ごすために多くの苦みが詰まってる。


 そんな毎日は嫌だ。僕もリモノイドにがみになるのは嫌だった。


 でも、引っ込み思案な僕はその状況を打開できないでいた。ちょっとした切っ掛けがあれば……。


 そして、それは昼休みに突然来た。


 昼休みになって僕は机に弁当箱を取り出した。視界の隅では七隈さんと茶山くんがこちらを見て立ち上がっている。


 これからまた誘われて一緒に弁当を食べることになるのだろう。白米しかない僕の弁当を見て二人は何ていうのかな。どんな反応何だろう……。


「ねえ」


 その声の主は、七隈さんよりも茶山くんよりも先に僕に話しかけていた。


 僕の机に薄めの箱をトンと載せて続けた。


「住吉くん、私と一緒にプリキュアカレー食べない?」


 席についたままの僕の目の前に立っていたのは六本松さん。手にはプリキュアカレーの箱を持っている。


「え?」


 驚いて慌てて六本松さんの顔を見上げた。


「プリキュアカレーはね、1袋で37kcalしかないし、その上 たんぱく質が多くて、脂質が少ないから筋トレする人の間でも話題なのよ」


 え⁉ このフレーズを聞いたことがある。


 そう言えば、僕は六本松さんの声を初めて聞いた。いや、何度も聞いていたけど、教室では初めて聞いたと言った方がいいのか。


「もしかして……占い師の……」


「占い師のお姉さんです♪」


 そこにはいたずらが成功した子供みたいなきれいな どや顔の六本松さんがいた。


「ここじゃなんだから、屋上で食べる?」


「あ、はい……」


 僕は言われるがままに屋上に移動した。その時、視界の隅に入った七隈さんと茶山くんのポカーンとした顔。これも印象的だった。


 *

「ふふふふふふふ。見た? 二人のあの顔!」


 屋上では六本松さんが笑いを堪えきれないという感じだった。


「おねえ……六本松さんも人が悪いなぁ。いつからお隣が僕だって気づいてたんですか?」


「そんなの最初からに決まってるじゃない」


「そうなの!?」


「私は陸上が好きなの。特に長距離が。月陸だって毎月買ってるくらい好きなのよ」


 月陸とは、陸上競技の雑誌のこと。確かに、僕も何度か取材を受けて載ったことがある。


「推しが隣に引っ越してきたんだもの どうやってコンタクト取ろうかと思うじゃない!」


「そうなんだ、言ってよ……」


「相手は有名人なのよ? 下手に動いたらうざいやつって思われちゃうじゃない」


「そんな。実際の僕はこんなだよ。自分からはクラスメイトにも話しかけられなくて……」


「でも、運が良かったわ。朝の情報番組で100年に一度の月食の話を聞いて、見ようと思ってベランダに出て」


 僕と一緒だ。


「ちなみに、その番組の占いでは1位で『新しい出会いがあるかも。一歩前に出てみよう』だったわ」


「もっと早く、分かりやすく一歩出てよ」


「まあ、いいじゃない。こうして出会えたんだから。それより食べましょ? ご飯だけなんでしょ? このカレーをかけて……」


「学校で弁当にカレー持って来てる人なんて見たことないよ……。あ!」


「……どうしたの?」


「猫と……カレー!」


 僕は思い出した。あの時、お姉さんに……いや、六本松さんに提示された二択。「猫」ともう一つは「カレー」だった。まさかプリキュアカレーとは思わないじゃない!


「プリキュアカレーは冷えていてもおいしいのよ」


 彼女のウインクは僕の心を落ち着かなくさせるのに十分魅力的だった。


「どんだけプリキュアカレー好きなんだよ」


「私もお弁当ご飯だけしか持ってきてないし」


「えー。カレーは一袋だけ?」


「もちろん、2つ持って来たわよ。1個あげる」


「ありがと」


「キラキラシールは見せてね」


 カレーにはキラキラシールが1枚付いているらしい。


「ホントに好きなんだね! このカレー」


「私は好きになったら極めちゃう方だから。30種類コンプしてるわ。住吉くんのことも極めちゃおうかしら」


「……よろしくお願いします」


 なんだその返しは⁉ 


「なんで七隈さんが『猫』だったの?」


「ああ、彼女は猫が大好きなのよ。彼女のカバンにも猫のキーホルダーが付いていたでしょ? あとペンケースも猫の形だわ。人は仲良くなろうと思ったら無意識に共通点を探すものよ」


 そんなの全然見えてなかった。


「話してみたら面白い人だったんだね。六本松さん」


「あの教室がどうかしてるのよ。一部の人だけが騒いで楽しんで、そのグループに入ってないと声を出すのも はばかられるみたいな変な空気で……。そこに飲まれないためにはそれなりに防壁が必要だったのよ。ATフィールド的な」


「ホントにアニメ好きなんだね。教室では冷たい感じすらする美人だと思ってた」


「びじっ……ふ、ふーん、住吉くんは私をそんな風に見てたんだ」


「ベランダで話してた時……占い師のお姉さんだと思ってた時の方が話しやすかった」


「私の素はこっちだから!」


 それは好きになってもいいってことですか⁉


「でも、なんで僕? 雑誌に取り上げられる高校生なんていっぱいいるのに。しかも、もう僕は走れないよ?」


「住吉くんはグラウンドに入る時いつも一礼して入って行くじゃない? あれが好きだったの」


 そう言えば、武道だったら道場に一礼するみたいに僕はグラウンドに入る時 一礼してた。陸上の神様がいるとは思わないけど、ルーティーンみたいにやってたな……。


 そんなの雑誌には載らないし、試合を見に来てくれていたみたいだ。


「後は顔。好みだったから」


 うぐっ……。ストレートでこれまた破壊力があった。


「あ、ありがとう」


「一緒に走ってくれる? 試合みたいに本気じゃなければ大丈夫なんでしょ? 住吉くんが走る姿も好きよ。フォームがきれいだったし」


「うん。もちろん」


 治療はもう終わってる。リハビリだってした。復帰に向けて動き出してもいいかもしれない。


 なんのために走っているのか分からなくなっていたけど、こんな風に走っている僕のことを好きって言ってくれる人が一人でもいるなら……また走ってみたいと思ったんだ。


 もうすぐ夏が始まる。


 季節が変わるみたいにあの教室も変わっていくだろう。少なくとも僕と六本松さんの関係も変わっていくだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫かカレー選択次第でマーマレードか屋上か 猫カレーฅ^•ω•^ฅ @nekocurry

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ