置いてけぼりの森 其の五

 本編はバスが地方の人里離れた山間部を走行中、何らかの原因で崖下に転落したことから始まるものと推察できる。そして、全編はバスの中で一人生き残った「私」の脱出劇がメインではあるものの、仲間を助けられず、一人、また一人と見殺しにしてしまう罪悪感と、それぞれに対する「死」への生々しさが体験談のように綴られている。

 そして、四章にあたる「優太の死」は他の章と比べると長く、怪奇めいている。というか、読者は最後まで読まなければ内容がいわゆる「怪奇もの」とはわからないのではないか。

「いや、違う」

 そうじゃない。

 そうではない。

 これではただの感想文だ。

 見方を変えなければこの物語の意図を読み解くことはできない。開いた頁を指先でとんとん叩きながら、文に隠れたメッセージを模索する。

「この時の作者の気持ちを答えなさいって感じ」

「えっ」

 不意に、とん、と紙コップがノートのそばに置かれた。見上げると、東雲さんが「麦茶でよかったかな」申し訳なさそうに笑っている。いやいや、その心遣いだけで充分だ。

「ありがとうございます」

 礼を告げて紙コップを手に取ると、ひんやり冷たい。見れば本棚の横に小さな冷蔵庫があって、東雲さんがその扉をぱたむと閉めたところだった。

「冷たいのしかなくてごめんね」

「いえ、少し熱くなってたので丁度良かったです」

 喉が乾き始めていたのは事実だ。それに、温かい飲み物は苦手であるので素直にありがたい。

「それより、さっき作者の気持云々とかって……もしかして東雲さんなら、これを読んで何かわかりますか……?」

 ちび。と麦茶を啜りながら尋ねる。東雲さんも一読はしているので、ある程度の内容は頭に入っているはずだ。彼女は口に指をあてて、うーむ、と少し考える仕草をして、それからゆっくり答えた。「まだ、執筆途中ような気もする……かな」

「……執筆途中?」

「うん」

 東雲さんは「あくまで私の感じ方だけど」と自信無さげに付け加える。ただ、これまで思い付かなかっただけにとても興味深い意見だ。

「怪奇ものにしても冒険ものにしても、何か中途半端で、ふわふわしすぎてる」

「それは、どういった点でそう感じるんです?」

「テーマに対する伏線回収が、曖昧というか……この場合、足りていない、というのが正しいのかな」 例えば、と、向かいの椅子に座った東雲さんがノートを開き、四章内のとある行を指差す。彼女の指先を目で追うと、それは主人公が「優太」と森を抜けようと歩いている最中、彼が主人公を慮って放つ台詞だ。

「『結子は、できる限りのことをしたんだ。……でも、それ以上の事をしようというのなら、それは傲慢に近いんじゃないか』」

 東雲さんが一言一句違わず、そして噛まずに音読する。ただ読み上げるのとは違って敢えて声を低くして、陰鬱な表情を浮かべながら。まるで、この時の「優太」の心情が窺えた。これは……下手な演劇部員よりも上手いのではないか。

「何か、深みがあるよね。なのに、この台詞に関する伏線が回収されていない。いや、回収されていたとしてもその部分は薄すぎて読み取れないのかも」

「……ほう」

「あっ、ごめんね。感じ方は人それぞれだもの。わからないよね」

「あっ、いいんです。その……回収されていない、と感じた点について教えてくれませんか……?」わからないが、わかるような気もする。

 実のところあまり本は読まない方だ。どの文がファクターとなるのかどうかなんて一読しただけでは到底わからない。でも、そういえばここは文芸部であり東雲さんはその長である。ストーリーの読み解き方に関して、一年に一冊本を読むか読まないかの自分よりは彼女の方が何百倍も長けているはずだ。

「うん。でもどう言ったら伝わるかな……えっと……あっ」

 閃いた、という風に東雲さんがこちらに向き直った。

「君は全編を読んでどう感じたの?」

「え……えっと」

 まさか質問を投げかけられるとは思わなかったので、咄嗟に答えあぐねる。そして東雲さんはそんなこちらの様子を見透かしたように「ふふ」と笑った。

「率直に思ったこと、感じたことでいいんだよ。焦らなくていいから」

「す、すいません」

「謝らなくていいって」

 素直に感じたこと。何だっけか……先程、単なる感想文じみたことを思いついたような。

「……あぁ」

「どうだった?」

 彼女がこちらに問いかける声は、どこか好奇心が混じっている。まるで同じ映画を鑑賞した後にお互いに感想を言い合おうとするような雰囲気ですらあり、気兼ねない答え合わせのはずなのに少しドキドキした。

「……最後まで読まなければ、怪奇ものとはわかりませんでした」

 えーっと、それだけだったか。いや、それだけか。東雲さんの考察に比べるとやっぱり稚拙で深みがない。小学生だってもっとまともな感想を答えるだろうけど、そうやって一人勝手に気を落としていると「だよね~」と、意外にも東雲さんは相槌を打ってきた。

「恐怖譚であるにしても、何か前置き的なものがないし、わかりにくさがある。強いて言えば『嘉川さんの章』の時に聞こえた『声』くらいかな……でも、だとしたら筆者が読者に伝えたいものって何なんだろうね?」

「もしかして……『優太』が言っていた台詞がそのヒントということなのでしょうか」

「いや、ヒントというか、一貫して表現されているものに通じているというか……この話の構成さ、少し変なところがあるとは思わない?」

「変なところ……ですか」

 何だろうか。うーん、と考えていると、東雲さんは「もう無意識に気付いているはずだよ」と、ヒントめいたことを付け足した。無意識に気付いていること。心の中で反芻して、あることに思い当たる。

「章の、区切り方……?」

 呟くと、割りと小さな声のはずなのに東雲さんが「うん」と反応した。どうやら答えを引き当てたようだ。

「君は『柘植野さんの死』とか『優太の死』とかで章を表現しているでしょう? それは、無意識にそう印象付ける構成になっているからなんじゃないかな?」

「……そうか」

 全編は恐怖譚だ。だけど、それはあくまで話の筋上だけで、しっかりと一貫して強調されているものがある。

「『私』以外の誰かの『死』を描いて、各章が終わっているのか……」

 そういう区切り方をする話なのだと思って意識すらしていなかった。でも、仙台さんはその構成の歪さに気付いていて、だからこそ「趣味の悪い話」と嫌悪していた。

「おそらく、それが……『死』こそがテーマなのだと思う」

 東雲さんは一拍の間を置いて、先を続ける。

「でも、最後はそのテーマが活かされていないの。主人公はただただ得体の知れないものから逃げ切っただけ。だから、この話にはまだ続きがあるんじゃないかと思った」

 描ききれていない。

 それなら、何をもってして物語のラストといえるのか。作者は、どういう意図を持って、これを書ききろうとしたのか。

「……東雲さんは……この話に続きがあったとして、どんな結末になると思いますか……?」

 はたと思いつき、彼女に尋ねた。この時の作者の気持ちを答えなさいという難問に、東雲さんなら百点満点の解答を書き入れることができるだろう。

「わからない」

 東雲さんの眉は少し困ったように八の字になる。しかし続いて「単なる怖い話で終わらせるのは勿体無いね」と小さく呟いた。

「勿体無いない?」

 思わず聞き返す。東雲さんは独り言のつもりだったのか、わぁ、とこぼして慌てて手を振った。でも気になるのは確かで「何が勿体無いと感じたんです?」としつこく聞くと、彼女は降参したように俯く。

「……個人的には、ハッピーエンドだったらいい、な、と、思いました」

「好みの話ですか」

「例えば、その数年後、主人公が皆を助けに戻ったりとか、生き返らせたりだとか……荒唐無稽なのはわかってるんだけどね……でもさ」

 東雲さんは照れ隠しのように少し笑って、こちらに向き直った。

「怖くてよくわからない話で終わるよりも、救いがあった方がいい」

 東雲さんはそれ以降何も答えず、こちらも何も問いかけることはない。しん、とした静寂がひとしきり二人の間に漂って、空気に溶けて消えた。

「私の考察は、参考になったかな……?」

「ええ。とても」

 作者が求めたもの。

 それが、なんとなく見えてきた気がする。だが、それをここで口にするのは早計だ。根拠のない当てずっぽうみたいなもので、彼女を一喜一憂させるわけにはいかない。

「ここから、出られたら……」

 消え入りそうな声で、東雲さんが言う。それこそ誰かに向けて放ったものではないと容易にわかる。人気のない校舎。未だ明けそうにないない真っ暗な窓の外。整然と並べられた長机と、その上に置かれた菊池君の鞄。それと、二ノ宮さんの眼鏡。

「出られたら……その上で皆ともう一度会えたら、どこかに旅行に行きたいな……勿論、君も」

「まさか、部外者ですよ」

「関係ないよ……というか、どっちかというと君は巻き込まれた側なんだから」

「それは……まあ」

 この事象に、誰かの悪意が無いと言えば嘘になる。でも、だからと言ってあつかましく被害者面ばかりしてはいられない。特に、この人の前では……。

 ……あれ?

 そこまで考えて、ふとあることに思い至った。

「……そういえば、東雲さんは何で仙台さんと違って疑って来なかったんですか?」

「へ? 何のこと?」

 彼女はきょとんとした表情でこちらを見る。ぎくりともしないその様子に、本当に何も疑っていなかったのだと呆気に取られた。

「ほら、菊池君も言っていたじゃないですか。一人多いような気がしたって。普通に考えると部外者が一番怪しいと思うんですけど」

 仙台さんがこちらに食って掛かったのも無理はない。だっていくら荷物持ちということで部室に居合わせただけだとしても、状況的に仕掛人を疑われて当然である。ところが東雲さんは「ああ、それね」と、何でもないように反応した。

「実は……霊感があるっていうのは嘘なんだよね」

「それは知ってました」

「あっさり言うよね。いや、私が悪いんだけどさ」

 でも、と、彼女は気を取り直して先を紡ぐ。

「菊池君が言っていたことは、私も何となくわかった。多分、仙台さんも薄々気付いていたんじゃないかな? 何だか、いつもそこにいたはずなのに、何なのか思い出せないというか」

 うーむ、と唸って東雲さんは首を傾げる。それなりに言い表しにくいことなのかもしれないが、あっ、と思いついたように声をあげた。

「幼稚園の頃なんだけど」

「何かめっちゃ話が飛んだ気がします」

「いいから聞いて。普段から遊んでいた子が何人かいたんだけどさ、その中には親しい子もいれば、『そうでない子』もいた訳」

「……わかるような気もしますが」

 特別仲良くもなく、そこそこの距離の友達というのは、まあ、いるものだ。大抵、仲良い子の友達ということでたまたま一緒に遊んだ時にいるだけなのだが、親しい子が欠けるとたちまち無言となり、つまるところ微妙に居心地が悪くなる。

「年中か年長かは忘れたんだけど、ある年の夏休みが明けて新学期が始まって、いつものメンバーで集まっておままごとをしていたの。でも、その中に『そうでない子』の顔が居ない訳」

「熱か何かで休んでたんじゃないんですか……?」

 しかし東雲さんはかぶりを振って「私も最初はそう思ったの」と答えた。

「翌日も、翌々日も……一週間が経っても、『そうでない子』の姿が見えない。でも私は気になって、友達の一人に聞いてみようとした。でもいざ聞こうとした時にその子の名前が思い出せないことに気付いて……当然、聞こうにもしどろもどろになっちゃった」

「印象に薄かったら、そうなりますよね」

「何となく顔とかは覚えていたからかろうじて説明できたんだけど、友達からは『そんな子は知らない』って言われて少し気味悪がられた。でも私は諦めず、次は先生に聞いてみたの。そしたらそんな子、最初から園にいなかったって……」

「………………」

 こわっ。

「私の話はこれでおしまい」

「いや、いやいや」

 ただの怪談やん!

「何でこの状況下でそのチョイス」

「あっ、ごめんね。そうじゃなかった」

 東雲さんは、てへっと舌を可愛く突き出して、片手グーで自らの頭をこつんしている。くっ、気になって聞き入ってしまった。やっぱりこの人、話上手だ。

「つまりさ、そんな感覚って言いたいの。私は」

「迂遠過ぎてわかりにくかったのですが」

「だから、今回はその逆なの」

 東雲さんは取り繕うように語気を強めた。

「誰か多い気がしたんだけど、それが誰なのか思い出せないってこと……だからこそ、部員以外の人間は……特に初めて見るような君なんかは当てはまらないように感じた」

 椅子に座り直し、彼女は疲れたという風に薄く目を閉じた。でも……そうか。東雲さんには「誰かを忘れている」という感覚……ないしはそれに近いものがあるということか。菊池君も、もしかしたら仙台さんもそれは同じ感覚だったのかもしれない。

「……だからか。そうか」

 呟いて、例のノートの横に置いていたものに視線を移す。B5サイズの、紙魚だらけの少し黄ばんだざらざらの表紙。それは、つい先程東雲さんと二人して探し当てた古い部誌。その頁を繰りつつも、目を瞑って起こったことを乱雑に思い起こす。

 ノート。

 死を綴ったもの。

 神隠し。

 過去の部誌。

 三階から出られない怪異。

 そして、いないはずの、思い出せない誰か。

 ふと、悪意の意図が掴めたような気がした。それと同時、扉の向こうで「ピィッ」鳴き声が聞こえた。東雲さんは閉じていた目を見開き「うわ、何」と椅子から跳ね上がる。

「落ち着いて」

「次は何なの? ていうか今の鳴き声何?」

「多分大丈夫ですから」

「多分て」

 ばたばたとあわてふためく東雲さんを横目に、おそるおそる扉に近づいた。彼女は「開けない方が……」と背後から控えめに注意をしてきたが、実のところそろそろだと思っていた。

 ひんやりしたアルミ製の取っ手に指を引っかけ、するする、と引戸を開ける。

「……やっぱり」

 小さなお客さんはまるで最初からそこにいたように廊下に鎮座していた。拳二つ分の、だるま形。頭は黄色く、煎餅のような平べったいくちばしと、その両端の少し上に小豆のようなつぶらな瞳が引っ付いている。対照的に胴の部分は白く、幼鳥から成鳥になりかけの印象があった。一見して無愛想な表情のヒヨコのぬいぐるみであるが、中年太りじみたぼてっとした腹回りは妙に愛嬌があるのだ。「な……え……」

 東雲さんは目の前で起こった状況につきていけず、ただ口をパクパクさせている。構わずそのぬいぐるみを廊下から拾い上げ、引戸を閉めた。

「意味がよく、わからない」

 声を絞り出した割には感想が質素だと思った。無理も無い。常々自分だって意味がよくわからない。それなのに他の人がどう理解できようか。

「ぴーすけ、と家では呼んでいます。妹が名付けたんですが」

 本体のうなじ付け根部分にひっついている、ニワトリを模したトサカ付のフード。それを頭に被せて、子供がごっこ遊びをするみたいにペコッとお辞儀をさせた。

「……ぬいぐるみなんて、持ち歩いてたっけ?」

「まさか。でも、こういう時に勝手に家から来るんです」

「はあ」

 彼女は、やっぱり意味がわからない、という風に肩を竦めた。対してぴーすけは相変わらずの無表情ではあるが何となく、来てやったぜ、というようなオーラを纏っているように見える。

「さっきから聞こえる鳥の鳴き声って、えっと、そうなの?」

「さあ。実際に鳴いてるところを見たりはしていませんが、おそらくは」

「……君って」

 東雲さんはそこで言葉を区切り、ぷっ、と吹き出した。

「やっぱり、どっか変だ」

「そうですかね」

「変だよ。何か、ずっと飄々としてるし」

 あはは、と笑われ、今度はこちらが肩を竦める。

「……まあ、もし、ここから出られたら……この事を覚えてたら、どこか御一緒しましょう」

「そうだね。約束してね。皆で」

 ぺら。

 視界の端に、それを見た。机の上のノートがひとりでに開いて見えない何かが頁を繰っている。しばらく二人でその光景を茫然と眺め、これから起こるであろう事象について、察した。

「……次は」

 続く言葉は敢えて圧し殺した。優しさというより気遣いのようなものだ。見れば東雲さんの顔からすっと笑みが消え、膝は笑い始め、深く息を吸うのが微かに聞こえる。それでも彼女は、声を震わせながら言った。

「ノートを、読んでもらえるかな。声に出して」

 ぺら。

 ノートがとある頁を開いたまま静止した。まるでここに目を通せと言わんばかりである。その一方で躊躇いを隠しきれず、もう一度東雲さんを見た。

「……読んだとして、どうするんです」

「そんなの決まってる」

「保証なんてどこにもないですよ」

「大丈夫だよ。私は君を信用してる。だから」

 言い終えるより先に、手元にあったものを彼女に押し付けた。半ば強引に。東雲さんは目を丸くして「えっ」と声を漏らす。

「それは、お守り……みたいなものです。心細かったらぎゅっとしてやってください」

 東雲さんはこちらと手元のぴーすけを交互に見やって、強張っていた顔を少し綻ばせた。やっぱり怖がった顔より笑った顔の方が綺麗に思う。

「さっきの約束、指切りげんまんだからね」

 言って、彼女はぴーすけをぎゅっと抱き締めた。


     ✕✕✕✕✕


 私は扉の前にいる。

 引戸の表面に手を触れると、アルミ製のひやっとした冷たさが指先から伝わってきた。すりガラスの向こうからは明かりが漏れていて、この場所と違って暖かそうだ。

 いつから私はこの廊下に立っていたのだろう。

 どうして私はここにいるのだろう。

 中に入りたいけれどまだ思うように力がこもらず、諦めて手を引っ込めた。

 視覚。味覚。嗅覚。触覚。聴覚。全ての五感において、まだ、私は私を取り戻せていない。いや、ひょっとすれば姿形すら私はまだ未熟なのではないか。

 でも、直感でわかる。

 この中には、私を「完全」にしてくれる人がいる。私は、いや、私達は、おそらく機会を得たのだ。冷たく光の届かない暗闇の中で、どうしようもなく切実に願っても叶えられなかったことだ。それが今、すりガラスの明かりの向こうにある。

 だから。

 だから私は。

 もう一度手を扉に伸ばした時だった。

「待たせてごめんね」

 がらりと扉が開かれた。内側から。

 目の前に現れたのはすらりとした、背の高い女子だった。ハーフアップで結わえられたセミロングの髪。雪のような白肌。大きく濡れた目元に、筋の通った鼻。程よく小さな唇は、薄桃色の艶で潤って見えた。

 彼女は、まるで自らの意思によって私の面前に現れたように思えた。その意図が掴めず困惑していると、彼女は私を真っ直ぐな目で見て、そして、あろうことか次の瞬間に抱きついてきた。

「私の身体をあげることはできないけれど、あなたの苦しみをわかってあげたいと思うよ」

 一線を引くかのように厳かで、それでいて優しげのある柔らかな声。ちぐはぐであることはわかっているのに、人肌の温もりも相まってすんなりと受け入れてしまいそうになる。

「いたかったよね。つらかったよね。こわかったよね。さみしかったよね。きっとお腹も減って、喉も乾いてたんだ……でも、もう大丈夫だからね」

 嘉川さんはもう一人じゃないから。

 彼女はそう付け足して、背中に回った手がより強まった。私は……私は、自分の頬に雫が流れるのがわかった。何だか救われる思いがした。それはこの人の身体を得る以上に価値のあることのように思えた。

 ありがとう。

 まともに声を出せず、その五文字を伝えることができない。代わりに私も彼女の背中に腕を回し、きゅっと抱き締め返した。今私は、この上なく幸せだ。


     ✕✕✕✕✕


 朗読を終えたところで、

「ピヨ」

 鳴き声が聞こえた。

 改めて廊下を見ると、そこにはもう誰もいない。

 闇に溶けたように二人は消え、気配も失せた。

 すぅっと深呼吸をして、目を閉じる。そうすると閑寂に包まれたように周りがうるさくなった。天井から聞こえる空調機器の稼働音。風に吹き付けられた窓の軋み音。冷蔵庫のモーター音。瞼越しに滲む照明の明かり。それが、不意に明滅したことで瞼を開ける。

「ああ」

 廊下から声が聞こえ、振り返る。

 出入口で佇むのは、ショートボブの黒髪女子。温和そうな垂れ目の彼女は、つかつかと目の前を横切り机の上に置いていた黒縁眼鏡を拾い上げた。

「まだ残っている人がいたのね」

 言って、二ノ宮さんは少し意外そうにこちらを見た。

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